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「どうされました?やけに時間を気にされているようですが」
何処か物言いたげなイライアスを尻目に、ヴィルヘルムは手にしていたカップを置き、リディアム侯へと目を向けた。徐に懐中時計を取り出し時間を確認するその行為は、先ほども見たものだ。
手元の時計に視線を落としていた老紳士は、顔を上げると思案気だった面持ちを柔らげて口を開いた。
「いえね、ゲストをお呼びしているのですが、到着がまだの様なのでどうされたのかと思いまして」
「客?それじゃ、俺たちは帰った方がいいんじゃないですかね?」
海賊と鉢合わせでは、そのゲストとやらも逃げ帰ってしまうんじゃなかろうか。
一見して海賊とは思われないかもしれないがと、一応気を使ったレミオに、リディアム侯はのんびりと首を振った。
「いえいえ、君たちも一緒で構いませんよ。共に昼食をと思ったものですから。準備が出来る頃には到着すると良いのですけれどね」
言い終えると、計っていたかのようなタイミングでノックの音が響いた。続けて扉の向こうから能天気なチャリオットの声が届く。
「おや、来たようです」
「客って、あいつのこと?」
「彼は案内です。どうぞお入りなさい」
「失礼しまーす。チャリオット・ハイナ帰還いたしましたー」
間延びした声は妙にはずんでいる。
それに嫌な予感を覚えたのは多分ヴィルヘルムだけだった。
「ご苦労様でした。お客人はちゃんと案内してきてくれましたか?」
「もちろんですよー」
リディアム侯に満面の笑みを返し、チャリオットは一歩引いて扉の向こうで手招きをした。
将軍の従者にエスコートされて、扉の影からおずおず小柄な少女が現れる。幼さの残る可愛らしい娘だった。さらさらと癖のない黒髪は両サイドで編み込まれ、後ろ髪はそのまま肩へと下ろされている。薄手の生地が重ねられた柔らかなシルエットのドレスは上から碧、青色へと色合いの変化する大変美しいものだが、その色彩よりも彼らの目を惹いたのは、真っすぐに向けられた透過する瞳だった。
余りにも美しく澄んだ藍緑に、イライアスたちは釘付けになる。
陽光を反射する白い雪、その中にあっても凍ることのない澄んだ泉を彷彿とさせる濁りない透徹。碧を僅かに溶け込ませた空よりも淡い、あの水奥の青。
彼女がゆっくりと礼をすると、胸元にかけられた黄色い花を閉じ込めたネックレスがゆらりと揺れた。
「ご招待ありがとうございます。リディアム侯爵様。……驚かせてごめんなさい、ヴィルヘルム様」
申し訳なさそうに、もう一度頭を下げた少女の言葉に、イライアス達は彼女の見つめる先に視線を転じた。ヴィルヘルムというのは、記憶違いでなければ将軍の名前のはずだ。安易に名を呼ばせるような男ではないと思ったが、はてさて、彼と彼女の関係は?
好奇心も露わに目をやれば、将軍は珍しくも本気で驚いた顔をしていた。
暫くしてそれは、ゆるりと苦笑に変わる。
その変化は、意外な程に柔らかで。
「相変わらず、君は私を驚かせるのが上手ですね」
驚くことに、そう言った男の声には甘さが混じっていた。
外野に居るイライアス達は、唯々沈黙するしかない。
「ごめんなさい…ちゃんと待っているって約束したのに、破ってしまいました」
「破らせたのは陛下と私なのですから。将軍、彼女を責めないでくだされ」
「責めはしませんが……リュクレス。こちらへ」
その場から動くことなく、男はただ、手を差し伸べた。取りなす侯爵の言葉に、一応の返事を返しながらも、彼女から一度たりとも外されない視線は、火傷しそうなほどに熱い。
視線に炙られながら、リュクレスはそれでも従順に彼の元へと向かった。手の届くその距離になって、改めて男が手を伸ばす。
そして、彼女の手を引くと、腕の中に閉じ込めた。
小さく「会いたかった」と呟かれた男の声は、愛おしげな響きをもって。
ただ一言、「はい」と返された応えに、そこにいた誰もが胸に痛みを覚えた。
柔らかな抱擁は一体どれほどの時間だっただろうか。
ヴィルヘルムが次の行動を起こそうとする、その直前。
「将軍、部屋へ連れ帰る前にちゃんと食事する時間くらい上げてくだされ。私は昼食にご招待したのですから」
見計らったように年長者が釘を刺した。
柔らかな温もりを独り占めしようとしていた男は、非常に残念そうな顔で溜息漏らした。
「………はあ。致し方ありませんね」
「将軍、リュクレス嬢は慣れない船旅で疲れているんだから、ちゃんと休ませてあげてね?」
にこにこ笑うチャリオットに、恐る恐るサミィが尋ねる。
「な、なあ、彼女は……」
因みに、彼以外はまだ立ち直ってさえいない。
答えたのはリディアム侯だった。
「ああ、紹介がまだでしたな。彼女はドレイチェク辺境伯夫人。つまりは将軍の細君ですな」
茶目っ気を覗かせ楽しそうな狸の思惑通り、海賊たちは顎が落ちそうになった。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、リュクレスと申します」
唖然とする彼らに向かって、少女は丁寧にお辞儀をするとふわんと柔らかに微笑んだ。
ぽんと花が咲いた。
あどけなくも可愛らしい笑顔に。
「…………犯罪じゃない?」
思わず、エレクトラの口から本音が零れ落ち、クレメントの全員が真顔で頷いた。
「いやいや、一応セーフだと思うよー、お嬢さん17だし。見た目的に犯罪っぽいけど、将軍が。心配しないで、リュクレス嬢は魅力的な御嬢さんに成長したよー、子供っぽいってことないから、気にしちゃ駄目だよ。それより将軍の行動が犯罪っぽい……痛いっ、ソル痛いって!」
あ、足踏まれてる。ぐりぐりと。
「誤解を解きたいと思いまして」
「誤解?」
「ええ、将軍は女の敵と、エレクトラが言っていたと聞いてね。恋愛などしそうにない将軍が実は年下の妻に骨抜きだと、知らせてあげたなら面白いかと思いまして」
「余計なお世話という言葉を御存知ですか?リディアム侯」
「ふふ。冗談はさておき。貴方だけでなく奥方も真面目なようですからな。こちらが片付くまで、貴方は王の下へは戻ろうとはなされないでしょうし、彼女も静かに待ち続けるでしょう?どれほどに寂しくとも」
「……」
沈黙の肯定に侯爵は穏やかな瞳で二人を見つめた。
「危機は脱しました。ならば、彼女が傍に居てもよいのではないかな?君たちはまだ新婚なのだし。初めてお会いしたが、確かに妖精の様だ。こんなに可愛らしい姫君を、一人にしておくほうが忍びないでしょう。花泥棒に摘まれてしまわない様、ちゃんと傍にいることです」
陛下も気にされていましたし、これ以上時間がかかるようなら、王妃に取り上げられるぞと、脅しておけと言われましてな。
笑いながらそう続けられて、ヴィルヘルムはげんなりと息をついた。
普段動じない男を揶揄えて満足したのか、侯爵はにこにこと笑みを浮かべて全員を見渡す。
「さて、彼女の挨拶も済んだことですし、堅苦しい話は無しにして食事にしましょうか。さあ、夫人はそのまま夫の隣にお座り下され。君たちは食事中でも挨拶は出来るでしょう?グエラもそれでよろしいかな?」
「ええ、構いませんよ」
グエランドルは驚いた様子もなく面白そうに頷く。驚きから覚めやらぬ海賊たちも無言でばらばらと席に着いた。
ぶしつけなくらいじっと見つめ続けてしまった彼女が、視線に気が付くとにこっと笑うから、エレクトラもイライアスも、生真面目なラジオルさえ、思わず笑い返してしまう。
微笑ましいばかりのやり取りに、横から伸びてきた手が彼女の手を攫った。そうして妻の視線を取り戻した将軍は彼女の手の甲に口づけを落とし、満足したように微笑んだ。
「君の笑顔はいつだって私に向けてほしいのですけどね」
ぽかんと少女の顔が真っ赤に染まった。と、同時に両脛に衝撃が走ってイライアスは、文字通り飛び上がった。
「いてぇ!」
「「あ、悪い」」
「お前ら足癖悪すぎだっ!」
エレクトラとレミオに両隣から蹴飛ばされ、全く悪いと思っていなさそうな誠意のない謝罪をもらって、イライアスは涙目だ。
「だって、見ちゃいらんないだろ、あんなの」
「同感」
「だからって、なんで俺を蹴るんだよっ。あっちにしろよ!」
指を差され、ご指名を受けたチャリオットが不本意そうな顔をする。
「なんで俺?将軍じゃないの?」
「後が怖いだろっ」
きょとんと彼らのやり取りを見ていたリュクレスの耳元で、ヴィルヘルムがこっそりと囁く。
「面白い人たちでしょう?」
そう言う彼もどことなく楽しそうだから、リュクレスはちょっと可笑しくなってしまって頷いた。