10
海に映る白い月が、海と空の狭間に一条の線を引く。
昼間であれば抜けるような青さは空にあり、深い紺藍は海のもの。だが今は、夜闇に沈む空の方が墨色を帯びて余程に深い色をしていた。
瞬く無数の星々の光が転じて周囲の暗晦さを深め、月明かりを溶け込ませた水面が黒曜石のように煌めいて揺らめいている。
デッキの上にいる男は、その光景にぼんやりと視線を向けていた。
降り注ぐ月光を受けて男の長い髪が銀色に染まる。
風に靡くその様はまるで絹糸のように繊細で、美しく。
潮風に煽られ、強い日差しに晒され続ける今の生活を送ることがなかったのであれば。
……彼の髪は、昼の日差しの中でも、ああして輝いていたのだろうか、と。
彼の背を見つめながら、エレクトラはふと、そんなことを思った。
手すりに凭れ、静かに海を眺めるその様子はいつもと変わらない。
クレメントの船長シルヴァ。
恩人であり、尊敬する相手。憧れて、恋をして……ずっと傍に居た人。
それなのに、彼の生い立ちも、貴族であったことも、――――イライアスと言う名すら。
エレクトラは、何も。何も知らなかった。
近くに居たはずの人なのに、なんだかとても遠い存在のように感じて、近づけない。
目の前に迫っていた戦いに、目隠しをしていつも通りの日常に戻った振りをしてみたけれど。
こんな些細なことすらきっかけになって戸惑いを感じてしまうなら、もう誤魔化し続けるのは難しいのかもしれない。
心の奥にあった不安が徐々に形になっていく。
彼は貴族に戻るのだろうか。
海賊であることをやめてしまうのだろうか。
(……私たちを置いて)
思った瞬間、胸の奥がぎゅうと締め付けられて苦くなった。
考えたくないのに、想像なんてしたくないのに。
男の背中を見つめたまま……どれほどの時間、そうしてしただろう。
立ち尽くすエレクトラの肩にぽんと手が乗せられた。
レミオだ。
彼は、エレクトラの顔を見て苦笑すると、迷子の子供みたいだなと言って、宥める様にもう一度肩を叩いた。
任せろと言葉でなく伝えられ、彼は船長の下へと向かっていった。
****
近づく気配に気が付いているだろうに、男は振り返ることなく夜の海を見つめ続けている。
レミオはそんな男の隣に立つと、海に背を向けて手すりに肘を付いた。凭れ掛かった姿勢で、イライアスの方に顔だけを向ける。
「眠れないんですか?」
「んー、まぁな」
曖昧な口調で言葉を切ったイライアスは、ふと息だけで笑った。
「どうもらしくないくらい浮かれてるみたいで、眠れないんだ」
「あれだけの相手と互角以上に戦って、圧勝したんだ。浮かれるのは別におかしくないでしょうよ」
戦いの後の高揚感はレミオにも身に覚えのあるものだ。
「……いや、そうじゃなくて」
ゆるゆると首を振り、どこか照れたような喜色を滲ませる。その様子は確かに浮かれているようにも見える。
しかし、浮かれているという割に、男の瞳は凪いだ水面のように穏やかだった。
「ただ、ずっとこうであればいいと望んでいたことが、現実になったというか」
「……まったくわからん」
「だろうな」
わかってもらえないことを不満に思うでもなく、イライアスは静かに笑った。
その表情にレミオは彼と出会ったときのことを思い出した。
『領主が領民を守らないならば、俺が守ろうと思った。それだけだ』
そう言って、まだ年若い青年が見せた凛とした眼差し。
孔雀藍の輝きは、あの頃から何も変わっていない。一時期、混じっていた苦悩の色も、今は無く、吹っ切れたように晴れやかだ。
彼の中にあった葛藤は解消されたのだろう。
恐らくは将軍に。
それがわかってしまうからこそ、自分たちがその力になれなかったことが、少しばかり悔しい。
「……俺達には言えない悩みだったんですか?」
レミオ達では力になれなかったのか。
ぽろりと零された恨み節に、イライアスが苦笑した。
「言えない。……いや、言えなかった。だって、クレメントはもう不要なのかもしれない、なんて。俺が言える訳ないだろう?」
その言葉にレミオは目を見開いた。
「領主が領民を守る、その当たり前が当たり前になった。なら、クレメントの意義は何なんだろう。民を守るためとはいえ、法を犯し略奪行動を繰り返したことを、俺は正当化する気はない。罪は罪。だから、贖罪すべき時が来たんだって、そう……っ」
イライアスが言い終わるのを待たず、レミオは胸倉を掴み上げた。
「ふざけるなよ」
双眸に怒りを浮かべ睨み付けるレミオをイライアスは静かに見つめ返した。
当然だ。自分たちの守ってきた信念を、矜持を、イライアス自身が疑っていたと、そう言っているのも同様なのだから。
レミオの手を振りほどこうともしないで、イライアスはゆるゆると頭を振った。
「後悔している訳じゃない。もし、過去に戻れるとしても、俺はきっと同じ選択をするだろう」
それ以外、彼らを守る手段をイライアスは持っていないから。
「それでも、俺のしてきたことは略奪行為だ。それを綺麗ごとで誤魔化すつもりはない」
「なんで……っ」
「貴族として生まれ、育ったから」
静かな声音に、ぐっと、レミオが言葉を飲み込んだ
「貴族は力を持つからこそ、自らの行いに責任を負わなければならない。それをしないなら、俺はあの屑共と同じになる」
無辜の民を守るためとはいえ、略奪行動自体は罪だ。それを、理由をつけて正当化してしまったら、両親を陥れた者たちと何も変わらない。
だからこそ、償いを望んだ。
だが。
「将軍に言われたんだ。略奪行為に正義はないが、俺たちが義賊と呼ばれていたのならば。どこかに正当性があると思った人々がいたということだ、ってな。俺は今でも自分の行いが正しいとは思っていない。でも、それでも」
言葉を切って、イライアスはすっきりと笑った。
「俺のとった方法が間違いだったとしても。守りたいと思って行動したことも、自分のその行動で守れた人たちがいたことも。……忘れてはいけなかったんだ」
ガレ家が断絶し、伯爵と言う地位を失ったとしても、貴族としての矜持までは奪われない。
そんな風に肩肘を張っていたイライアスだったからこそ、将軍のあの割り切った考え方に救われたのかもしれない。
深々と溜息を零し、レミオが呆れたように空を仰ぐ。
「石頭ですよね、あんた」
「自覚してる」
「でも、だからこそ。将軍はあんたを信じたんだろうな」
貴族としての矜持を忘れることなく、義賊として罪を犯すことを選んだイライアスを。
胸倉を掴んでいた手を離し、レミオは流れるような動きで腕を引いた。
そして、軽くはない力で鳩尾に一発、拳を入れる。
無論そこに遠慮はない。
ぐっと零れたうめき声を無視して、前のめりになった船長の髪を無造作にかき混ぜる。
「忘れないでくださいよ。そんなあんただから、俺たちはついてきたんだ」
「そういう良いことは……っ、もうちょっと穏やかに言ってくれ」
しかめっ面で鳩尾を抑えるイライアスに、レミオはけっと悪態をついた。
「素直に聞くたまじゃないでしょうに。で、貴族に戻るんで?」
鳩尾をさすりながら体勢を起こしたイライアスは首を振った。
「いや。将軍も海賊のままでいいって言ってたしな。王と将軍がその立場で国を守るのならば。俺は、クレメントとしてこの国を守ろうと思う」
その目に逡巡はない。
「せっかく貴族様に戻れるのに、もったいない」
零れそうになる安堵を隠してレミオがそう揶揄えば、
「貴族は貴族でそれなりに面倒くさいし窮屈なんだぜ?海賊の方がよっぽど自由で楽しい」
と、そんなことを言う。
そのくせ、その面倒くさい貴族の考え方を捨てないのだ。
(全く、この男は)
これだから憎めない。
「あれか、隣の芝は青いってやつですかね」
「そんなところだ。……安心したか?」
「その言葉は俺じゃなくて、あいつに言ってやった方がいいですよ」
自分のことを棚に上げ、レミオは顎を杓った。彼の目線を追ったイライアスは、そこにエレクトラを見つけ……困ったように笑った。
いつもの勝気な様子はなく、まるで出会ったばかり子供の頃のように頼りない目をしている。
大きな瞳に涙を貯めて母親にしがみ付いていた幼い少女。
あの時と同じように、その両手は身体の横でぎゅっと握りしめられていた。
ああ、そんなにも不安にさせたのか、と。
申し訳なさを感じながらもそれ以上に喜んでいる自分を見つけて苦笑する。
隣で人の悪い表情を浮かべるレミオに視線だけで礼を言うと、イライアスはエレクトラへと歩き出した。