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 結婚式を挙げて5ヶ月。


 まだまだ新婚生活を楽しんでいても罰は当たらないだろうと思うのに、そうは言っていられないのが要職に就いている者の辛いところだ。


「君と離れたくはないのですけれど、ね」


 表面上は涼しげな表情を浮かべながら、しかし、名残惜しげな素振を隠そうともせずに、ヴィルヘルムは妻の髪をさらりと撫でた。

 紺青色プルシアンブルーの髪に灰色の瞳。守護狼と同じ色彩を持つ彼は、この国の将軍だ。

 年は若くまだ27歳。長身なため軍人の割にすらりとして見えるものの、鍛え上げられた身体は逞しく、その面は月の化身もかくやと思わせるような美貌である。

  そして彼が恋しさを隠そうともせず情熱を向ける相手は、絶世の美女……などではなく、あどけなさを残した何とも可憐な少女であった。

  豊満とは程遠い、華奢な身体はどこもかしこも細く、彼女の持つ色彩の繊細さも相まって、まるで絵本の中に出てくる妖精を思わせる。年は17、幼げな容姿とは異なり、中身は年相応の穏やかな性格の持ち主である。

 肩を流れ落ちる艶やかな黒髪が光の元で淡く透ける。既婚者であるにもかかわらず彼女の髪は結い上げられていなかった。夫の希望に添っているからだ。

 彼は、さわり心地の良い妻の髪を殊の外気に入っており、ともすれば無意識にでも撫でているものだから、侍女から「奥様の髪が乱れます」と苦言を呈されることも珍しくない。結婚直後などは張り切ってあれやこれやと様々な髪型に挑んでいた侍女たちも、男が「君が気恥ずかしそうに頬を染め、首を傾げる仕草に揺れる髪が愛おしいのです」などと、人が聞けば大量に砂を吐きそうなことを恥ずかしげもなく言ってのけ、巧みにほどいてしまうものだから、今では梳くだけで結うことをやめてしまった。


 決して、主人の意向に従ったからではない。


 羞恥心の在り処が他の人間とは異なる彼とは違い、言われる側の少女は真っ当な感性の持ち主なのだ。真っ赤になって固まるその姿を見ることになった侍女たちは、彼女があまりにも可哀相に思えて、しぶしぶ諦めることにしたのである。

 まあ、そんな周囲の反応さえ、わかっていてやっているのだから本当に悪い男だ。

 夫の熱の籠った眼差しを受け止めて、妻となったばかりの少女、リュクレスはふんわりと笑った。

 結婚を機に与えられた洗礼名、ブレーメそのものの笑顔で夫の懐に入ると背に腕を回し、額を胸にそっと押し当てる。

 柔らかな抱擁に、ヴィルヘルムは沈黙を守った。

 彼女はとても我慢強い。それは親を亡くし、孤児として生きる過程で多くの辛いことを受け入れてきたからなのだろうか。

 行かないでと彼女は決して言わない。けれど、その行動は離れがたいのだと、離れたくないのだと間違いようもなく伝えてくれる。

 そして。


「ヴィルヘルム様」


 リュクレスは顔を上げ、気丈にも微笑んで見せた。澄んだ藍緑色アクアマリンの瞳が真っすぐ夫に向けられる。


「私はここでヴィルヘルム様を待っています。だから、お仕事、頑張ってくださいね」


 そんなことを言わなくても、仕事を優先することは分かっているだろう。

 それでも、互いに離れがたい思いが確かにあるからリュクレスはヴィルヘルムが心置きなく仕事に向かえるよう、送り出そうとするのだ。


「寂しいですか?」


 尋ねれば淡色の瞳は不安げに揺らめいた。けれど、その視線が逸らされることはない。


「……寂しい、です。でも、ちゃんと待っていますから」


 我慢して嘘をついても、どうせばれてしまうのだし、それに寂しいのは本当のことだ。

 素直にそれを表現しても、それがヴィルヘルムの行動を妨げるものにならないと、リュクレスはもう知っているから。そういう我慢はしないと決めたようだ。

 男はゆるりと微笑んだ。

 大きな手が頭を撫で、髪を梳く。その優しい感触にリュクレスは目を細めた。


「それならば、頑張って片付けて、早く戻ってきます」


「無理はしないでくださいね?」


 簡単そうに言うヴィルヘルムに、リュクレスは心配そうに眉根を寄せた。

 柔らかな表情のまま、男は髪を梳いていた手で最愛の人の頬に触れる。


「私が怪我をしたら、君は悲しむでしょう?」


「当たり前です!」


「ならば、五体満足、傷一つなく無事帰還します。私を信じて待っていてください」


 自信に満ちたその言葉は、他の誰かが聞いたのならば、ただの慢心とも聞こえるような傲慢な台詞かもしれない。

 けれど、そうではない。ただ、彼はその努力をするのだと妻に伝えているだけなのだ。

 不安も心配も寂しさも、決して消えることはないだろう。

 それでも、リュクレスは頷いた。


「はい。……行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 繋がれた手が、ゆっくりと離される。





 オルフェルノの短い夏が、終わろうとしていた。











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