第88話:唖濡那鬼と三本の矢
私達を乗せた船は帆を大きく広げ、他の船と共に最高速度で海を駆けていた。後方では炸裂する様な音を立てながら巨大な怪物が泳ぐ様にしてこちらへと迫りつつあった。人の形をしてはいたが、どう見積もっても人ではない事は確定的であり、私達が今までこの旅で出会ったもの達の中で最も異常である様に感じた。
「さて……まあ言わずとも分かるだろうが、あれは普通の生き物じゃない。それは分かるだろう?」
「ああ、分かっているとも。しかしノルベルト、あれはいったい……」
「私にも説明はしかねる。完全にあれを理解し切るのは私には無理かもしれないな」
「……それよりどうするんだ? 俺の予測が正しければ、後数分もすれば追いつかれるぞ」
「実際はより早く被害が出るだろうな。あのデカブツが泳ぐだけであれだけ海がうねる訳だし」
リチェランテさん達は船尾からあの怪物を観察し対策を練ろうとしていた。私もこの薬が完成するまでの時間稼ぎとして何か思い浮かばないかと考えを巡らせたが、単純な力の差や海の上という状況、あらゆる事柄が圧倒的不利だという事実に直結していた。
「船長殿! もっと飛ばせるかな!?」
「無茶を言うな! これで限界だ!!」
「ま、だろうね」
遠くから怪物の叫び声が聞こえた。空気は震え、船が軋み、船内からは避難した住民達の悲鳴が聞こえた。そんな中お父さんが船尾から戻ってきた。
「お父さん!」
「ね、ねぇお父さん、あ、あたし達どうしたらいいの?」
「二人は調合を続けて欲しい。ただちょっと聞きたい事があるんだ」
「な、何?」
「今二人が作ってる薬だけど、完成品がどんな形になるかは分かるかな?」
「えっとヘルメスさんのレシピの通りだとすると容器は作られなくて、中身だけが調合されるみたいだから、フラスコとかに入れようかと思ってたんだけれど……」
そう伝えるとお父さんは甲板から身を乗り出し後方を確認した。波がうねる音は徐々に近づいてきており、先程よりも怪物との距離が縮まっているのが感じられた。少しするとお父さんはこちらに戻り、顎を擦りながらぶつぶつと何かを呟いていたが、やがて答えた。
「僕にはその薬の効果がどれ程かは分からないけど、もしそれを使うなら、あれに直接かけるしかないと思ってる」
「う、うん。私もそれは思ってるけれど、でもどうやったら……」
「あれに必要以上に近付かれるのは危険だ。さっきリチェランテ達も言ってたが、多分あいつが移動する時に生じる波……あれだけでもこの船団が転覆して全滅する可能性がある」
「じゃあ……」
「何とかして遠距離から当てるのが一番だとは思う。でもその方法が浮かばないんだ」
確かにこの距離から薬をかけるための方法が思い当たらない。大砲があれに通じるかはともかくとして、砲弾に引っ付けて飛ばすのは現実的じゃない。それにシーシャさんの矢でも上手く当てられるかは分からない。もし外したりしたら取り返しがつかなくなる。
「船長!」
船尾からレイさんの声が響く。
「何だ!?」
「俺に操縦を任せてくれるか」
「何!? 何を言ってる!?」
「頼む。いい方法がある。多分俺しか出来ない」
レイさんはヴォーゲさんの下へと近寄ると説明を始めた。
「ここから東北東の方角だ」
「あそこには小さな島が二つあるくらいだぞ? 人も住めない様な岩山だ」
「ああ、だがあそこなら足止めは出来る」
「……おいまさか」
「俺にやらせてくれ。こんな言い方は失礼だとは分かってはいるが、きっとあなたじゃ無理だ」
「馬鹿な! 私どころか貴様でも無理だ! 船乗りならあんな場所には近寄らない!」
「普通はな。だが海賊をやってた俺達はあそこを使ってたんだ。海戦に於いては便利な場所だ」
理由は不明だがヴォーゲさんは話に出ているその場所に行く事を拒否していた。レイさんは説得を続けているが何故その場所をそんなに怖がっているのか私には理解出来なかった。
「お父さん、今レイさんが言ってた場所、何があるの?」
「僕も詳しくは知らない。確かに小さな島があるのは事実だけど……」
私達が悩んでいるとクルードさんが船尾から降りてきた。ヴォーゲさんの説得にはリチェランテさんもいつの間にか加わっており、何やら相当重要な場所らしかった。
「少しいいですか?」
「クルードさん、何か作戦が……?」
「ええ。これから東北東に向かいます」
「え、ええ。それは聞こえてきたんですけれど、いったい何があるんですか?」
「あそこは船乗り達の間ではそれなりに知られる場所でして、『悪魔の口』と呼ばれているのです」
「悪魔の口?」
「はい。あそこには暗礁があるのです。もし迂闊に入ろうものなら、確実に座礁する様なポイントです」
そうか……あの怪物も海を泳いで追ってきている以上は海中に存在しているものを無視する事は出来ない。人型ではあるけれど海を移動するものではある。だから足止めをするだけなら可能なんだ。
海の揺れが強くなりいよいよ危険な状況になってきた事を察したのかヴォーゲさんは舵をレイさんに預けると船員の人達に指示を出し、指示を出された人達もまた他の船に向けて連絡を行い始めた。
「……これからレイが暗礁地帯に突入します。恐らくあの怪物はこの船を狙っている筈ですから、他の船には避難してもらいます」
「少し質問をいいかな? あなたがそう考えるに至った理由を教えて欲しい。もし他の船が先に狙われたら?」
「自分も確信がある訳では無いのですが、ノルベルト曰く、あれは宝玉を狙っている筈だと……」
「……お父さん有り得るかも。あれは太陽のエネルギーを吸収してたでしょ? 今残った一つはシーシャさんが持ってくれてるけれど、あの怪物はあれが欲しいんだと思う」
「分かった……。それで、足止めした後だけど……」
「はい、その事でお二人に話したい事が……」
船は暗礁地帯に近付いており、後ろからは怪物が迫っていた。
「シーシャさん達と話を通しました。恐らくあれは一度あの場所で足を止めます……その隙にえっと、今調合している道具を使ってください」
「え、でも距離が……」
「これを使う」
私の質問を遮る様にシーシャさんが会話に入ってきた。その後ろでは船尾から降りてきたヘルメスさんがレーメイ女王に何かを話している様子が映った。その手にはシーシャさんから受け取ったのかもう一つの宝玉が乗っていた。
「シー姉、ど、どういう意味?」
「プーちゃんそっちに集中して。そろそろ出来る筈だよ」
「この宝玉……残ったのは創生の力を持つ『黎明』と呼ばれる物だそうだ。これを使って一時的にあいつへ繋がる島を海上に出現させる。それで近付くんだ」
「でもどうやってかけるんです? 近づきすぎるのも……」
「ああ、危険だ。最初は私も弓でどうにか出来ないかと考えたが難しい。そこで彼女達に頼む事にした」
シーシャさんが顔を向けた方向には船尾に立つリオンさん達が居た。雰囲気は良くなく、リオンさんは二人から距離を取る様にして立っており、リオナさんも顔を向けようともしていなかった。
「あの三人の常人離れした動きならあいつに近付ける。それに三人それぞれに薬を持たせれば、怪物の注意を三つに逸らせる。そうすればそれなりに隙が生じる筈だ」
「で、でもそれは……」
「危険過ぎる。確かにそうだ。だが状況が状況だ。それにこの案はリオナによるものなんだ」
「あの人が?」
「ああ。実際これが一番確実な方法だ」
私達の乗った船は暗礁地帯に突入し、他の船達は皆巻き込まれない様に散り散りになっていた。そして期を同じくして調合が終わり、プーちゃんは慌てた様子で蓋を開けると私が手渡したフラスコを釜の奥へと突っ込み、引き揚げた。中には夕焼けの様な色をした液体が入っておりヘルメスさんのレシピを思わせる品だった。
「えっとシー姉これ!」
「助かる」
シーシャさんはすぐに船尾へと駆け出し矢筒から矢を三本抜くと先端を折って矢じりを取り除くとフラスコの中へと一本ずつ入れた。その後船尾でリオナさん達に一本ずつ渡すと余った薬の入ったフラスコをリオナさんに手渡した。
「あ、あのっ!」
暗礁地帯を進む中ヘルメスさんが声を掛けてきた。手元には宝玉がまだ残っていた。
「じょ、女王様に頼もうと思ったんですが、も、もう使いたくないという話になりまして、それでえっと……」
「ちょ、ちょっと落ち着いてよヘル姉! ど、どうしたらいいの!?」
「……私達でこの宝玉の力を引き出します。シーシャさん達からお話を聞いてますよね……?」
「は、はい」
「少しいいかな。僕には詳しくは分からないけど、その道具に危険は無いのかな? 父親としては危険な目に遭わせる訳にはいかないんだ」
「だ、大丈夫です。『黄昏』の方と比べるとこっちの方は精神面にも異常は来たしません。それこそ誰でも、つ、使える物です、はい……」
「なら僕がやる」
「誰でも使えますけど、でも……私達の血族の方がより正確だと思うんです」
血族? 親戚でもない筈なのにどういう意味だろう? 前にも不思議な親近感みたいなものを感じた事があったし、リチェランテさんも血筋がどうとか言ってた気がする。いったい何を意味してるんだろう……。
「ヘルメス、そろそろだ!!」
レイさんがそう叫ぶと後方から怪物の叫び声が聞こえ、海面が弾ける様な音が響いた。するとヘルメスさんは私の手を掴むと慌てた様子で船尾へと駆け出し、プーちゃんもそれに続く様にして走り出した。船尾から見てみると怪物はどうやら暗礁に上手く引っ掛かったらしく、光を放つ眼孔をこちらに向けていた。しかしすぐさま怪物は海中から右足の膝を出し、動き始めた。どうやら暗礁を乗り越えてこちらに来ようとしているらしかった。
「ヘルメス!! 早く!!」
シーシャさんの怒号が飛び、ヘルメスさんは宝玉を怪物の方に差し出す様にして向けると私達の手を掴み、その宝玉の上に手を置く様にした。
「願って……作戦通り、に……」
私とプーちゃんは一度目を見合わせると強く念を込める様にして頭の中でイメージを浮かべた。すると突如目の前の海面から岩が突き出る様にして複数出現し、それらは怪物へと続く途切れ途切れな道の様に連なっていた。
「行くわよ」
リオナさんとリオラさん、そしてリオンさんは手に矢を持った状態で船尾から飛び出し、私達が出現させた岩へと各々着地した。その動きはどう見ても人間という事は出来ないものであり、この三人が持つこの力がどこから来るものなのか、何となく私の中で一つの嫌な考えとして浮かんできていた。
怪物は威嚇をする様に叫び声を上げた。距離が近い事もあってか船はより強く軋み、海は荒ぶった。
「もっと沢山……」
そうヘルメスさんが呟き、私は更なるイメージを送り込んだ。すると新たな足場が海面から現れ、更に私がイメージしていない場所からも岩が現れた。恐らくプーちゃんやヘルメスさんによるイメージと思われ、これによって三人が移動出来る場所が大幅に広がる事となった。
リオナさん達は飛び跳ねる様にして岩を渡って行き怪物に近付いていった。怪物は抵抗をしようと腕を振り回したりしていたものの、それらを軽く飛び越えリオナさん達は距離を詰めていった。そして最初に接近出来たのはリオンさんだった。リオンさんは相手に飛び掛かる様にしてその手に握られていた矢を頭部に突き刺し、頭を蹴る様にして足場の一つに戻ってきた。
「後二本……」
怪物は薬が効いているのか悲鳴を上げながらもがき苦しんでいたが、反撃をする様にして右手を薙ぎ払った。しかしリオラさんはその手を飛び越えると空中で矢を手放し、その矢を持っていた仕込み杖で強打した。すると矢は真っ直ぐに飛んでいき、再び頭部へと突き刺さった。まるで弓を使ったかの様な飛び方であり、改めて彼女が持つ技術が並外れたものであると思わせた。
悲鳴を上げ続けている怪物は、少しずつではあるが体が縮んできており、先程と比べると明確に小さくなっていた。しかし、やはり巨大である事には変わりなく未だ危険な状態であった。そんな中リオナさんは最後の矢を打ち込むべく飛びあがり、空中で矢を投擲した。これもまた真っ直ぐに飛んでいき、やはり頭部に突き刺さった。しかし薬の効果は完全には出ておらず、怪物を消滅させるには私が渡したフラスコの中身全てを使う必要がありそうだった。
「効いてない……?」
「い、いえ……効いてる筈です。あのレシピに間違いはないです……」
怪物は叫びながら顔をこちらに向け、口内を眩く光らせ始めた。恐らくだがあそこから何かしらの攻撃を放ってリオナさん達諸共船を破壊するつもりの様だった。
「これで、行ける……?」
そうヘルメスさんが呟くと新たな岩場が海面から姿を現し、まるで生き物であるかの様に動き、口の中へと押し込まれた。しかしそれにも関わらず怪物は口内から光を放ち続け、攻撃を続行しようとしていた。それを見たリオナさんは押し込まれている岩場を伝って近付きフラスコを取り出した。しかし今度は怪物の目が強く光り出し、反撃をしようとしている様だった。
「しつ、こい……」
ヘルメスさんは更に岩場を出現させようと眉間に皺が寄る程に念じていたが、新たな岩場が出る前に戦局が動いた。
リオラさんは立っていた岩場から飛び降りると落下しながら仕込み刀を抜き怪物の口へと押し込まれた岩場を切り裂いた。刀身には煌めく様な何かが纏わりついており、その力で切り裂いた様に見えた。そして切断された岩をリオンさんが空中に砕くようにして殴り上げるとリオナさんはその岩に掴まった。そして怪物が次の一手を打つ前にリオンさんが空中の岩を蹴り飛ばし、これにより一気に距離を詰めたリオナさんは怪物の顔面目掛けて薬を振り撒いた。
薬が全てかけられると怪物の体は見る見るうちに縮んでいった。そして遂には船尾に居る私達からでは視認出来ない程小さくなり姿が完全に見えなくなった。その場に残されたのはかつてトワイライト王国だった島の残骸であり、さっきまでこれを纏って動いていた巨人がいたなど嘘の様だった。
リオナさんとリオンさんは岩を足場に船尾へと戻り、リオラさんは海に落ちていたらしく杖を引っ掛けながら下から登ってきた。甲板からは何とか生き延びる事が出来た事に歓声が上がり、私も体から緊張がふっと抜けた。
「何とか、なったかな……薬も上手くいったみたいですね……」
「やった! やったよヴィーゼ! あたし達生きてる!!」
「わっ!? ちょ、ちょっとプーちゃん苦しいって……」
抱きついてくるプーちゃんを宥めながら見てみるとリオナさんとリオンさんはお互いに睨み合っていた。
「……礼なんていりませんから」
「ええ。言うつもりもないわよ。協力するのは今回限りだものね」
「ねぇちょっとお二人さん? 今くらい空気読もうよ~……今そういうあれじゃないじゃない?」
「あなたは黙ってなさい」
「そうですね、黙っててください」
「えぇ……」
リオラさんは二人から威圧され困惑しながら黙り、船尾では険悪なムードが漂っていた。
「二人共怪我は!?」
「あ、お父さん。何ともないよ。ちょっと疲れちゃったけれど……」
「あたしも平気。ねねっお父さん! あたし達やったよ!」
「ああ、ああ……良かったよ無事で……」
お父さんは私達二人を抱きしめた。流石に今回は本当に過去最大の危機だったため無理も無かった。
「まさか船を降りろとは言わないわよね?」
「今すぐに消えて欲しいところですが、私も悪魔じゃありません。新しい住み場所が見つかるまでは居ていいです」
「あらそう? 何ならすぐにでも海に飛び込んであげてもいいんだけど?」
「聞きましたよ、騎士団に入ったそうじゃないですか」
「それが何よ?」
「どうせ仕事を理由に出来もしない事を言ってるんですね。仕事を投げ打つ訳にはいかないとか言って、結局口だけなんでしょう?」
飛び降りようとするリオナさんに杖を引っ掛けリオラさんが止める。
「ちょちょちょ!? 何してんの!? マジでやめてってば!」
「黙るように言った筈だけど?」
「ええ、そうです。黙っててください」
「いややっぱ黙ってられないよ、さっきから聞いてると」
「は? あなた妹の癖に生意気ね?」
「そうですね、生意気です、妹なのに」
「いやあのさ……」
「何?」
「何ですか?」
「新しい住み場所が見つかるまで居てもいいって言ってたけどさ、そのハナシを決めるのってここの船長さんじゃない?」
「あ」
「あっ……」
「えぇ……マジで気付いてなかったの……?」
さっきから見ているとどうやらリオナさんとリオンさんは何だかんだで息が合うみたい。上手くリオナさんが本音を言えたらいいんだろうけれど……。
「……えっと、取り合えず船長に話をしましょうか」
「……そうですね。話を通してからです」
「はぁ……お馬鹿さん二人を姉に持つと大変だよ、双子ちゃん?」
「あ、あはは……そ、そうですかね……」
「リオラ、後で話しましょうか」
「私も後で話があります」
「へいへい……」
リオラさんは面倒くさそうに二人の後を付いていきヴォーゲさんと話し始めた。レイさんは暗礁地底から脱出をするために操縦を続けており、レレイさんは副官として船員達に指示を出していた。
ひとまず危機は乗り越えたかな……。でもあの怪物は何だったんだろう? 錬金術が絡んでいるのはほぼ間違いないと見て、何を理由にあんなものを作ろうと思ったんだろう? いったい誰が?
家族二人に抱きしめられながら、私は船尾から島の残骸を見つめるヘルメスさんを見ながら疑問の答えを探そうと考えを巡らせていた。




