第62話:純白過ぎた真っ赤な真実
三人でルナさんの横を通り過ぎ、シャルさんの下へと向かうと、二人は当初と同じ様にお互いに向かい合って立っていた。ルナさんはその場から動かずに必死に説得しようとしていたが、シャルさんはそれを拒むかの様に、その手にノミを握っていた。
「シャルさん!」
「……無事だったんだね。ホッとしたよ」
「ステラ姉、そっちは平気なの?」
「……まあね。でも、流石にあの人は頑固だよ。小さい頃からそこは何も変わってないみたいだね」
シャルさんは沈みゆく私達の家を背に立っているルナさんを相手に再び口を開く。厳しく、それでいてどこか優しさのある声で。
「……もう終わりにしよう。あなたのまやかしもこれでおしまいだよ。どんなに取り繕ったって、結局は偽者なんだ。いつまでも騙せないよ」
「そんな事ない! 私は、私はシャリーのお姉ちゃんなの! 芸術の才能だってあなたの方がずっとあるのよ! 皆それが分かってなかっただけ! やっと! やっと認められたのに、どうしてそんな事言うの!? 卑屈にならないで!」
「卑屈になってるのはそっちじゃないの? 自分の才能から逃げて、全部私に預けようとしてるんでしょ? あなたが私の事を愛してくれてるのは分かってるよ。でも結局は、自分がその立場に耐えられないだけなんでしょ?」
「違う! あなたの方がずっと凄いの! あなたは認められなくちゃいけない! 皆から認められる様な凄い人なの!」
「……最後のチャンスだよ」
ぐちゃぐちゃな色が混ざり合った景色がより一層混沌を増していき、最早どんな言葉なら形容し切れるのか分からない様な色合いになっていた。足元に残っていた道さえもその混沌に呑み込まれ、私達は立っているのか浮かんでいるのかも分からない様な空間に包まれていた。
「ここはきっとあなたの心と同じ、ううん、きっとあなたの心そのものなんでしょ?」
「……」
「不安でしょうがない。怖くてしょうがない。だから全部私に預けた。自分の才能も力も」
「違うっ!」
「……違わないよ。ずっと一緒に過ごしてきたんだもん。あなたは、そういう人だよ」
「ち、違う、わよ……。私はただ、あなたの方が認められるべき子だって……ずっと……」
「怖かったんだよ、あなたは」
シャルさんは一歩前に踏み出す。
「……もしあなたが……姉さんが、一歩前に踏み出すのが怖いなら、私が半歩だけ前に出るから。だから、勇気を出して。姉さんならきっと大丈夫だから」
「シャリー、私……」
ルナさんはよろよろとおぼつかない足取りでシャルさんに近寄った。シャルさんはそんな彼女を抱き寄せると抱きしめた。シャルさんがどんな感情を抱いていたのかは分からなかったが、それでもマイナスの感情ではないというのは確かだった。
「私……」
「ごめんね姉さん。姉さんがこの絵を作った理由、今なら分かるよ。ずっとずっと不安だったんだよね。周りから期待されて、板挟みだったんでしょ?」
「嬉しかったのよ……本当は嬉しかった。でも、でもその反面……あなたが悪く言われるのが許せなかった……。血は繋がってないけど、あなたは……シャリーは私の妹なの……大切な家族なのよ……。それなのに皆あなたの作品を……感性を悪く言った……大切な家族を侮辱したの。あなたが……捨て子だったから……」
「そうだね。でも姉さんもそうでしょ?」
「皆才能しか見てないのよ……大切なのは人間性、その他も含めてなのに。皆あなたの才能だけを見て……私と比べて……私、あなたが苦しむのが嫌で、それで……」
「姉さん。私ね、全然嫌なんかじゃなかったんだ。そりゃちょっぴりムカつきはしたけどね、でも皆から認められてる姉さんは私の憧れだったし、いつも庇ってくれる姉さんの事、大好きだったよ」
背景のごちゃ混ぜの色が少しずつ薄れ始めた。先程無くなった筈の道も少しずつまるで描かれたかの様に元に戻り始めた。
「昔の話よね……こんな事する家族なんて、嫌いに決まってるわよね……」
「うん。大っ嫌いだよ」
「……っ、そうよね」
「でもね……」シャルさんはより強くルナさんを抱きしめる。
「それでも好きだよ。独り善がりにこんな事する姉さんなんて大っ嫌いだけど、でも……私の事をずっと愛してくれてる姉さんの事が大好きだよ」
「でも私……結局保身のために……」
「そうだね。でもね、それが人間なんだよ。そういうところもあるのが人間なんだ。保身のために人を苦しめるのは最悪な事だけど、でも姉さんの中にあったのは保身だけじゃなかったんでしょ?」
建物が少しずつ戻って行く。植木も何もかもが私のよく知るヘルムート王国の街へと戻って行った。
「姉さん……もう大丈夫だよ。全部これで終わりにしよう。この純白の絵は今日限りで見納めにしようよ」
「で、でも私そうしたら私……また……」
「大丈夫。今度は私が守るから。誰かが何か言ったって私は勝手にやるし、姉さんの作品にも口出しさせない。姉さんは自分の思うままに作ってくれればいいんだよ」
「出来るのかな……私……」
「出来るよ。私の大好きな姉さんなんだから」
やがて全てが元通りになり、何の変哲も無い夕暮れの街へと姿を戻した。それと同時に私達の身体は末端から霧の様に消え始めた。それはこの世界からの別れを意味するものだった。
ふと気がついた時には、私達は美術館の中の白い絵画の前に立っていた。どうやら外の世界の時間は全く進んでいなかったらしく、時計の針は絵画に入る前の時間から変わっていなかった。
ルナさんはシャルさんから離れると泣きはらした様な目で絵画の方を見た。そこには相変わらず真っ白な何も描かれていない様なキャンバスが飾られていた。
「ルナさん……?」
「ごめんなさいね三人共……こんな事しちゃって……」
「その言い方……ルナ、あなたがやったのか?」
「ええ……私ね、この絵を通して景色が見えるの。今朝ふと見てみたら、シャリーと一緒にあなた達が居るのが見えたのよ。それで私……何とかしなきゃって……」
「それであたし達を閉じ込めたって訳?」
「ええ……」
ルナさんの声が震えているのが伝わってくる。彼女が今までの人生でどれだけのものを背負い続けてきたのかは私には分かりようがない。しかし、その声を発する人物が悪い事を出来る人だとは、どうしても思えなかった。
「この絵はその人の願望を再現してくれる……だから、だからきっと幸せな世界なら三人共抵抗はしないだろうって……」
「あのねルナ姉、あたし絵の中でお母さんに会ったんだ」
「え?」
「あたしとヴィーゼのお母さんね、あたし達が7歳の時に居なくなっちゃったんだ」
「それ、は……」
「えっと……あたしいっぱい泣いちゃったけどさ、でもお父さんやヴィーゼが側に居てくれたから、何とか今こうやって生きてるんだよね」
プーちゃんは見栄を張る事無く、自分がその時に泣いてしまった事すらも包み隠さず話していた。プライドが高めで見栄を張る事もある彼女が事実を話すのに必要な勇気とはどれほどのものなのだろう。
「あたしとヴィーゼは双子だからさ、どうしても比べられる事はよくあったよ。でも、それってどっちもどっちなんだよね。あたしの方が褒められる事もあれば、ヴィーゼだけ褒められる事もあるし」
「……」
「でもあたしはルナ姉みたいに良くない事しようとは思わなかったよ。ヴィーゼが悲しむだろうし、お父さんだって悲しむと思ったからさ」
「……イタズラはよくしてたよねプーちゃん」
「ちょっとヴィーゼ今いいとこなんだから! やめてよー!」
私が思わず引っ掛かった発言に突っ込みを入れると、ルナさんは緊張の糸が解れたかの様にクスクスと笑い始めた。
「ふふっ……強いのね、二人は」
「そりゃそうでしょ。私の親友なんだから」
プーちゃんは水を差された事に少しご立腹な様子だったが、シャルさんとルナさんの様子を見て、誇らしげな顔をして私に引っ付いてきた。
「そっ! あたしとヴィーゼは無敵なのだ! ねっ、ヴィーゼ!」
「うん。ふふっ、そうだね」
「それとシー姉も! あの場所で一人で戦ってたんだから、強いよ!」
実際その通りだった。あの状況でシーシャさんは私達が助けにいく間もなく、一人であの世界のまやかしを打ち破っていたのだ。その事を胸糞が悪かったと言っていたため、詳しく聞く事は憚られたが、それでも彼女が凄まじい覚悟を持っているのが伝わった。
「結局……大人になれてなかったのかしらね、私は……」
「ルナ、あんまりそういう事は考えない方がいい。誰かとあれこれ比べるな。自分が納得出来る自分になればいいんだ」
「そうですよルナさん。私もあれこれ悩んじゃうタイプだからその気持ちは分かりますけれど、結局答えなんて出ないんですから」
「そーそー。ごちゃごちゃ考えちゃダメだよ! もっと気楽に生きなくちゃ!」
「プーちゃんはもうちょっと考えようね……」
ルナさんは優しい笑みを見せるとただ一言「そうね」とだけ言い、自身が作ったという白い絵画の前に立った。彼女はその絵を真っ直ぐに見上げると右手を高く掲げた。それによって袖が下がり、手首についていた傷がはっきりと露出した。それはあの世界でチラリと見た傷と同じものだった。
やがて白い絵画は少しずつ吸い取られる様に白い部分が剥がれていき、ルナさんの手首の辺りに吸い込まれていった。
「姉さん、それ……」
「うん……この絵の正体はこれなのよ。私の血……。それがこの絵を形作っているもの」
「それだけじゃないんだよね。キャンバスも筆も……」
「ええ。全部自分で作ったものよ。この絵を作るためだけに」
「いったいどうやって……」
シャルさんのその質問に対する答えかの様にルナさんは私達の方を振り向く。
「ヴィーゼやプレリエが使ってるのと同じよ。錬金術」
「えっ……」
「あれっ? ルナ姉も錬金術士なの?」
「元ね。今はもうただの一般人よ」
シャルさんは予想外の答えに困惑した様子を見せていた。何だかんだで落ち着いている彼女がここまで動揺しているのは珍しい事の様に思えた。
「待って姉さん……そんなのしてる所見た事……」
「見えない所でやってたもの」
「まさか、先生に……?」
「ええ」
私は今目の前で白からどす黒い赤へと変色していっている絵画が錬金術によって作られた物であるという事実に驚いた。しかしシャルさんの様子を見るに彼女の方がその答えに余程驚いている様だった。
「あ、あの……先生というのは?」
「まだ協会で孤児として育てられていた私達に絵を教えてくれた人だよ。錬金術士としても知られてる人だったけど、でもまさか姉さんが……」
「隠しててごめんなさい。でも必要だと思ったのよ。これから先シャリーと二人で生きていくためには絶対にね……」
「姉さん、先生は言ってた筈だよね。『力には必ず責任が伴う。道を違えてはならない』って」
「そうね……教えに反してしまったわ。きっと私は地獄行きね」
真っ赤になった絵画の前でルナさんはこちらを振り向いた。その右手首にあった筈の傷痕はまるで最初から存在していなかったかの様に消え失せていた。そして彼女の瞳は真っ直ぐに私達の方を見つめていた。力強く、強い決意を感じさせる目だった。
「ねぇ二人共」
「な、何ですか?」
「私は禁忌を犯したわ。あの時先生は、もしもの時のためにって、私に錬金術を教えてくれたの。余程の事でもない限り使っちゃダメだって言ってたわ」
「禁忌って……どういう……」
「やっぱり……私には使いこなせなかったみたい」
私はその時異変に気付いた。ルナさんの右腕は傷痕は無くなっていたものの、ぷらんと力無く垂れさがっており、一切の力が加わっていない様に見えた。
「まさかルナさん……」
「右腕が動かないの。あの絵から血を戻した瞬間動かなくなったわ……」
「えっ何何? 何で動かないの? ルナ姉大丈夫……?」
「……別に苦しいとかじゃないのよ。ただやっぱり才能が私には無かったんだなって」
「あのルナさん……どういう意味ですか? 才能って……」
「先生が言ってたのよ。『錬金術は才能がものを言う仕事だから才能の無い人間が使ってはならない』ってね」
そんな事は今まで聞いた事が無かった。お母さんがそんな事を言っていた記憶はないし、他の人が言ってるのも聞いた事が無かった。才能が無い人間が使っちゃいけない技術なんだとは一度も言われた事が無かったのだ。
「まあ……罰でしょうね。命までは取られなかっただけマシよ」
「姉さん……何てことを……」
「ごめんなさいねシャリー、馬鹿なお姉ちゃんを許して……」
「もう二度としないって約束して」
「うん。約束する。ごめんね……」
ルナさんは力なく垂さがった右腕のままシャルさんを抱きしめた。シャルさんもそれに返す様に抱き返した。その様はどこから見てもまごう事無き家族であり、心の繋がった姉妹であった。




