第61話:惑わされぬ絆
私はこの状況を打開するために家の中を見回す。
外で起きている状況とは正反対に、この中では何も起こっておらず、私が知っている我が家と全く同じ見た目だった。小物の配置も机や椅子の位置も何もかもが私の記憶と寸分違わず正確だった。そんな中プーちゃんは怪訝そうに私の方を見つめていた。
「ねぇヴィーゼ、ホントどうしたの?」
「……プーちゃん。プーちゃんは変に感じてない?」
「え? 何それ?」
「物が増えてるとか……」
その質問は私とプーちゃんの間に認識の相違が無いかどうかを確かめるために行った。もし私が記憶している家の内装がそもそも歪められた認識によるものだった場合、私本人では立証出来ないからだ。もちろんプーちゃんの認識が合ってる確証は無い。しかし、少しでも違和感がある物があるのなら、そこからしらみつぶしに見ていくべきだ。
プーちゃんは屋内を見渡し、きょとんとした表情をした。
「ごめんヴィーゼ、本当に何の話してんの? 最近は別にお父さんもお母さんも家具とかは買ってない筈だし……」
「よく思い出してプーちゃん……本当に、本当に何か変な物を見てない?」
「もうしつこいよヴィーゼ! 見てないよ!」
どうやら私の記憶とプーちゃんの記憶はお互いに同じものだったらしかった。二人共認識が歪められてでもいない限り、この家の中は至って正常な見た目を保っているらしい。
多分だけれど、私やプーちゃんが気付けていないだけだ。前回ここから脱出する時に壊したあの月みたいなもの……あれがどこかにある筈なんだ。きっとあれがこの空間を保つため、あるいは私達をここに留めておくために必要な物……。
「……ごめんねプーちゃん。何でもない。私の思い違いだよ」
「……」
「疲れちゃったのかもね」
「本当に?」
「えっ?」私はプーちゃんが向けた鋭い目つきにたじろいだ。
「ヴィーゼ嘘ついてる。あたしの目は誤魔化せないよ」
流石としか言いようが無かった。恐らくプーちゃんは、私の目が一瞬泳いだりしたのを見逃さなかったのだろう。お父さんやお母さんを騙す事が出来てもこの子だけは絶対に騙す事が出来なかった。最初からずっと一緒だったこの子だけは……。
私は深呼吸をし、プーちゃんに真実を語る事にした。この空間内でそれがどれだけの意味を成すのかは分からない。シーシャさんの時の様にすぐに何とかなるかもしれないが、下手をすれば状況を悪化させるだけかもしれない。しかしそれでも、今の私にはそれしかこの子を助ける方法が思い浮かばなかった。
「プーちゃん」
「ん?」
「……落ち着いて聞いてね。……ここは、私達のお家じゃないの」
プーちゃんは少しの間言われた意味が理解出来ないといった様子で立っていたが、やがてクスクスと笑い出した。
「もーヴィーゼ~。何言ってんのさ。寝惚けちゃってるの?」
「……プーちゃん、私は嘘なんか言ってないよ。ここは私達が居るべき場所じゃないんだよ」
「ねぇヴィーゼ、そういうのいいからさ」一瞬、視線が横に動いた。
「お姉ちゃんの目は誤魔化せないよプーちゃん。本当は気付いてるんだね? とっくの昔に……気付いてるんだね?」
その言葉を聞き、プーちゃんはあからさまに動揺していた。昔からそうだった。この子は隠し事がバレるとすぐに顔や動きに出る。本当はこの子も気付いていたのだ。
「あ、あのねヴィーゼ、あたし……」
「二人共何してるの?」
プーちゃんの言葉を遮る様に聞こえてきたのはお母さんの声だった。声が聞こえたのは食卓の方であり、そちらを見てみるとお母さんは机に料理を並べている際中だった。お父さんは既に椅子についており、料理を並べ終えたお母さんもそれに続く様に座った。
「もうご飯よ?」
「お、お母さ……」
「駄目! プーちゃん!」
私の叫びを聞いたプーちゃんは駆け出そうとしていた足を止めた。その顔には焦りや悲しみ、様々な感情が見えた。お母さん達は何も聞こえなかったかの様に立ち止まったプーちゃんの方を見ていた。
「ヴィーゼ……」
「プーちゃん……駄目だよ。こんな事はありえないんだよ」
「そんな事ないっ!!」プーちゃんは今までに見せた事が無い剣幕で怒鳴った。
「またっ! また、皆で暮らすんだもんっ! お母さんだって、どこかで……どこかでっ生きてるもんっ!」
「……そうかもしれない。それは私だって否定はしたくないよ。でもこれだけは言える……ここに居るお母さんは本物のお母さんじゃない……」
「っ!!」
プーちゃんは床を蹴り私に一気に詰め寄ると私の両肩を力強く掴んだ。非力な私からすれば同じくらい小柄なプーちゃんの手でも十分な程の痛みはあった。その表情は強い怒りに満ちていたのだからそれも納得だった。
「……っ! ……っ!」
「……プーちゃん、私を恨んでもいいよ。だけれど、今はこんな所に居るべき時じゃないよ」
「違う……よ……!」
「違わない。まずは、だよ……水の精霊を助ける事でしょ?」
「そんなのっ……そんなの知らないよ誰なのか!」
「ううん。プーちゃんは知ってる。私のよく知ってるプーちゃんなら」
パチンッと部屋の中に音が響いた。左の頬はひりひりと痛んだ。こんな事は生まれて初めてだった。この子がやりたくてやった訳ではないという事も分かっていた。しかしそれでも私は怯む訳にはいかなかった。どれだけ恨まれようと罵られようと、私がするべき事は一つだった。
「ヴィ、ヴィーゼ……えっと……」
「いいよ。恨んでくれてもいい。嫌いになってもいい。でも、忘れないで。私は……プーちゃんのお姉ちゃんだから。何があったって……絶対に守るから」
「あたし……」
私はそれ以上は何も言わず愛しい妹の左頬を撫でた。
昔読んだ本に載っていた。『誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』……いい言葉だと思った。でも今は違う。いい言葉なのは事実だけれど、それじゃ駄目なんだ。必要なのは復讐をしない事じゃない、我慢し続ける事でもない。本当に大切なのは相手を理解する事だ。心の弱さを一緒に乗り越える事だ。もちろん、それが簡単じゃないって事は分かってる。だけれど私は……。
「ヴィー、ゼ……」
プーちゃんが発したのは小さな今にも消え入りそうな声だった。その声には悲しみ、怒り、救済への懇願、あらゆるものが混ざっていた。
掴む力が弱くなった両手をゆっくりと外しながらその手を握る。離れない様に、一人で進まなくても済む様に。
「ごめん、あたし……あたしヴィーゼに……」
「プーちゃん、言ったでしょ? 私はお姉ちゃんだから、絶対に守るって。だから手伝って。ね?」
「うん……」
涙を拭ったプーちゃんは私と共にお母さんの方を見る。相変わらずお母さんは不思議そうに私達の方を見つめていた。その様子はこの空間が現実ではないとはっきりと理解するのに十分な証拠になった。
お母さんなら……私達の知っているお母さんなら、こんな時にああやって傍観したりはしない。喧嘩をしてたら仲裁に入るし、泣いてる時は心配してすぐに駆け寄ってきて、優しく抱きしめながら話を聞いてくれる。お父さんだってそうだ。あんな風にただ座ってるだけなんて事はありえなかった。
私はプーちゃんの手を引きながら玄関へと向かい、ドアノブを握る。しかし扉はビクともせず、私達がここから出ていくのを拒んでいるかの様に何の反応も示さなかった。
「二人共もうご飯よ? 遊びに行くなら明日にしないと……」
「……お母さん。もうこんな家族ごっこはおしまいだよ。ううん、本当はお母さんでも無いよね」
「あのね、あたし……ヴィーゼと一緒に行くよ」
「もうダメよ。夜は危ないんだから。ほら」
そう言いながらお母さんが椅子から立ち上がったその際に、彼女の口の中についに発見した。前回何度も私の前に姿を現した月の様な何か。それが口の中で妖しい輝きを放っていたのだ。咄嗟にお父さんの方を見るとその口の隙間から僅かではあるが、同じ様な輝きが放たれていた。
私はプーちゃんを引っ張りながら二人から距離と取り、台所側へと移動した。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
「ヴィーゼ? プレリエ?」
「……お願い。私の前で二人の真似をするのはやめて。プーちゃんの前でそんな姿をするのはやめて」
「お、お母さん、あたし! あたし絶対に助けに行くから! だから、だからここから出して!」
「ちょっと本当にどうしたの? 何か変よ……?」
お母さんはこちらへと近付いてきた。その様子は傍から見れば娘を心配する良き母親に映るのだろう。しかし今の私達にとっては、お母さんの姿を真似しているだけの上っ面だけの存在にしか見えなかった。どれだけ側を寄せても、偽者に変わりなかった。
跳ね上がる心拍数を抑えるために目を閉じ深呼吸をする。これから私がしなくてはならない事の決心をつけるために必要な事だった。
「プーちゃん、私ね……」
「ヴィーゼ、一人じゃダメだよ」
「え?」
「……分かってるよ、ヴィーゼがやろうとしてる事。こっち側に来た時に何となく分かったちゃったもん」
「だったら……」
「お母さんとの教訓、その一! 覚えてる?」
「『喜びは分かち合う事。困難は二人で乗り越える事』……」
「そっ。あたし達ならきっと……大丈夫だって、お母さん言ってたでしょ」
私は無言で頷き、台所にあった包丁を手に取り、プーちゃんはナイフを掴んだ。お母さんとお父さんはそんな私達の姿を見て驚いた様子を見せていた。さっきまでは違和感のある反応をしていたというのに、こんな時だけは納得のいく反応をする偽者二人の姿は酷く不気味だった。
「ちょ、ちょっと、危ないわよ? ほら、そこに置いて……」
「やっぱり……あなたはルナさんが作った存在なんだね。お母さんだったらそんな事言わない。今のあなたの言葉には保身しかなかった」
「お母さん前にあたしと一緒にご飯作った時、あたしが上手に包丁持てなかった時さ、真っ先にあたしの事心配してくれたよ。あたしにも……今の言葉は心配から来る言葉じゃない様に聞こえた」
「二人共何言って……」
私は力の限り床を蹴り、持っていた包丁を相手の口目掛けて突き立て様とした。しかし寸での所で止められてしまい、私はお母さんの偽者の上で馬乗りになっている様な状況になってしまった。包丁を掴んで止めているその力でまた確信した。間違いなく彼女はお母さんではないと。
「ヴィーゼ、何を……!」
「ヴィーゼやめなさいっ!」
私を止めようと迫っていたもう一人の偽者をプーちゃんは椅子を蹴る事によって妨害した。あの子にとってこれがどれだけ惨く、辛い対処法なのかは想像に難くなかった。それにも関わらず、偽者を止めようと必死で抵抗していた。
私は包丁の持ち方を逆手に変える。より確実に力を加えるために。
「……まやかしはいらないの。本物じゃないと意味が無いの。偽りの愛なんて愛じゃない。過去は……変えられないの」
私は覚悟を決め、目を瞑りながら全体重を包丁に掛けた。体はずぶりと沈み込み、何かが砕ける様な小さな音がした。やがて私の身体はゆっくりと床につき、目を開けてみるとそこには偽者の姿はどこにも無く、あったのは包丁によって砕かれた小さな皿の様な物だった。
もう一人の偽者を思い出した私が振り返ると、相手の口の中にナイフを突き立てているプーちゃんの姿があった。偽者の身体はのけぞり、壁にもたれかかっており、プーちゃんは俯き前を見ない様にしている様だった。
数秒後、もう一人の肉体はまるで霧の様に霧散しながら消滅し、後にはナイフによって壁に突き刺さったひび割れた皿の様な物が残っているだけだった。
緊張から解放されたからか、プーちゃんはその場に力無く座り込んだ。その体は小さく震えていた。
「プーちゃん!」慌てて駆け寄り顔を覗き込む。
「ヴィーゼ……これで、終わった、のかな?」
「私達はこれでいいと思う。でも……まだ……」
「ステラ姉……?」
「うん……今ルナさんと話してる。でもいつお互い攻撃に出るか分からない。それにシーシャさんも……」
「じゃあ、助けに行かないと……」
「大丈夫なの……?」
「うん……あんなの、あんなのはお母さんでもお父さんでも無いから」
プーちゃんは少しよろめきながら立ち上がると何も言わずに手を繋いできた。私はその手を離さない様にしっかりと握りながら玄関のノブを捻る。するとさっきまで開かなかったのが嘘の様に簡単に開き、外へと出る事が出来た。
外は変わらず不気味な色でぐちゃぐちゃになっており、あの姉妹はまだ向かい合ったままだった。更に先程まで空に浮かんでいたダスタ村の幻影は無くなっており、シーシャさんがぐちゃぐちゃな景色の向こうから走って来た。
「ヴィーゼ! プレリエ!」
「シーシャさん! 大丈夫でしたか!?」
「ああ……正直胸糞悪いが、まあ大丈夫だ。プレリエは?」
「うん、あたしも大丈夫……。それよりあの二人は?」
「まだ物理的な攻撃には出ていないらしい。誰も傷付かずに終わらせるなら今しかない」
「行きましょう!」
私達は愛や憎しみ、怒り悲しみがごちゃ混ぜになった絵画の中を駆け出した。ただお互いを愛しているだけの絆で繋がっている二人のために。




