03 精霊と湯けむり温泉紀行
緑の草を掴むと、思いっきり体重を乗せて、体を持ち上げる。
一つ登ると、その麓からの景色が、さらに一つ高くなるような気がした。その村があるのは『ジュレス山脈』という、王国の東から北へと跨がって延びている山脈で、峻険な山として知られている。僕が振り返ると、ミスズが目を回しながら、一生懸命ついてきていた。
「ほらっ、ミスズ。手を伸ばせ」
「……は、はーひー。ますたぁ、みすずを見捨てないでくださぁーーい」
僕が片手を伸ばすと、両手でしがみついてきた。
…………全体重を乗せるな、全体重を。
普通、こういうときは、上の相棒へと迷惑をかけないよう、体をもう片手で支えながら上がるものである。しかし、ミスズはもう山をさまよい続けること半日、とっくに正常な判断ができなくなって体力の追いつく限り、がむしゃらについてきている。
僕が『よっと』と引っぱると、ミスズは思ったより軽く持ち上がった。さすが精霊である。そのまま、僕へと追いすがるように荷物ごと倒れ込んできた。
「…………ぐっ、な、なーにが『剣と湯けむりの魔物退治』……だっ! 本当は峠を越えるだけで、魔物と戦うよりも辛いじゃないか!」
「ううぅ、マスター! ますたぁぁぁ! もうミスズはダメでふ! どうか、どうかミスズを置いて先に行ってください! 『S』ランクを目指す本懐を! 為し遂げてくださぁい」
「――のわりに、がっつり抱きついてきてブロックしてるじゃねえか!!」
口ではそう言いつつ、体力を消耗しきって思考力をすり減らせてしまった精霊は、目をぐるぐる回しながら僕の腰を掴んで離さない。もう、意識がもうろうとしているんじゃないのか。
こっちが遠くに逃げないのに、生存本能がそうさせるのか、両腕で抱きついてきて僕に体重を預けている。
…………ぐっ。し、仕方ないな。
「―――休憩するッッ!!」
そう宣言して、何もない、山の中腹にどっかりと腰を下ろした。
眼下に見える緑の山脈は、見るも恐ろしき、絶景であった。
「ぐずっ、う、うえええ―――ん!! ミスズは、役立たずですぅ。こんなときに、マスターのお荷物一つも持てないグズですう! ミスズもお荷物ですぅ。お水も、全部自分ばっかり飲んじゃって、マスターに迷惑をかけている精霊のクズです!」
「――わ、分かった。分かったから、落ち着けって」
めそめそする精霊の背中を叩きながら、一息ついてみる。
…………考えてみれば、道を急ぎすぎたのも、悪かった。
僕は『自分ならできる』という範囲で、冒険の足を急ぎすぎてしまっていた。僕は『あの寮母さん』の鬼のような修行があったので、これくらいは平気だし、耐久力はあるが――。精霊のミスズのことを考えると、残酷だったかもしれない。
「――ちなみに、『聖剣』になって、僕ら一緒に上へと登るのは?」
「…………時間が、かかりすぎると魔力が枯渇してしまいます。……半日なんて、とても持ちません……」
まあ、そりゃそっか。
精霊の『結合』は―――魔力と、体力だ。
短期決戦の〝魔物との戦い〟ならともかく、一日中とか、ずっと『結合』しっぱなしでいるのは精霊にとても負担がかかる。それこそ――《剣島都市》での日常で、ずっと『結合』ができないように、この冒険の移動中にやるのは無理があるのである。
バランスの問題だ。―――これが、力を使いすぎて精霊がへばって、疲れて、昏睡して。
そうして、ばったり魔物に出会えば、それこそ殺されてしまうことになる。山越えもそうだが、こっちの方が怖い。
「しばらく、《ステータス》の恩恵なしで、頑張るしかないね」
僕は周囲を見回していた。
「…………さて。ジュレス山脈、もう少しで中腹らしいが……」
相変わらず、地図に書いてないな。この辺りは。
僕はその紙を広げて、岩場に腰を下ろしながら眺める。
――この峻険な山は―――ジュレス山脈という。
ずいぶん昔に、麓で炭鉱町が栄えたそうだ。王国世界でも《ナンバー3》の採掘量を誇った山脈であり、そのために昔は戦争が絶えなかった地域らしい。他国へと流れる流通のための『川下りの船』が整備されたり、僕ら《剣島都市》の人間からすると珍しい仕組みが多かった。
が、―――ある日、長らく採掘していた資源の石(工芸品に使う水晶から、刀鍛冶に使う鉱石まで)が枯渇してしまい、それから麓の町並みにも活気が失われていった。
人口も数えるしかいない少ない村だが――それも一時期のことで、その後、天然の温泉が湧き出したことにより、一躍『旅人が立ち寄る』という山になったそうである。
「―――で、そこの『温泉』が、魔物が出没してなんか変なことになっているらしいけど……おろ?」
「なにか、見えますー」
と、ふと僕らは、ある場所に目をとめる。
よこは、山間の景色の中だった。緑の木々が立ち並び、切り取った傾斜や、その奥にも森が広がる中で。ひとすじの、白い煙が上がっているのが見えた。
こんなところ、わざわざ山の中に小屋が……?
しかし、よくよく見ると何か『ヘン』だ。煮炊きの煙とも違うようだし……。初めて見る景色に、僕は『まさか』という感想を浮かべる。こんな山の中に?
…………あれって。
「まさか。温泉か……?」
***
僕らが近づくと、その光景がはっきりしてきた。
山間に開けた、野生の温泉である。
天然の湯が沸いていた。驚くべきことに、その温度は熱く、下手すると少し肌寒いくらいある山間の森の中で、ほかほかと白い湯けむりを立ち上らせている。匂いはどこか不可思議で、とても懐かしいような、思わず……ほっと安心してしまいそうな、そんな独特の硫黄臭さがある。
僕らは見つけた。
「マスター! お風呂ですよ! 温泉がわいてますっ。岩風呂ですよ! ミスズ、初めて見ましたっ!」
「…………なんてこった」
ジュレス山脈には、こういう場所が無数にあるらしい。
人の管理されていない、というか、管理しきれないのだろうが―――冒険エリアに湧いている天然の温泉というものを、僕は初めて目にした。ミスズも僕も、岩山を踏み越えて見下ろす。
近づいてみると、その白い湯煙が見えてきた。
『わあ』とミスズが瞳を輝かせ、それから小走りになって駆けてゆく。荷物を背中に。…………昔から『精霊』って子供みたいなところがあったが、その姿はそのままである。どうやら、その温もりが精霊を引きつけるらしい。
「ますたー。ますたー! お湯かげん、ちょうどいいです」
「へえ。適温なのか」
山の空気に触れて、ちょうどよくなってるのかな。
温泉というのは昔から神秘だ。どうして、温かいお湯が、地面の下から湧いてくるのだろう。《熾火の生命樹》の加護もあるとはいえ―――不思議な生命の温もりを感じるのだ。
精霊のミスズも、喜んでいる。
こう、人間が『ご馳走』を見たときのような。
テンションが上がり、頬を紅潮させて喜んだり、―――なにか、生命の恵みでも与えられるかのようである。
「入っていきましょうよ。マスター。せっかくですし!」
「ふむ。そうだな」
―――薬湯。健康湯。などと呼ばれるように。
日々冒険して『生傷』の絶えない僕ら《剣島都市》の剣士にとっては、この温泉という恵みは貴重である。『温泉』や『名湯』などダンジョンでは数えるほど〝数少ない〟のだ。だから宝物だ。
それが、こんな山奥に………これは入らない手はない。損をする。そう思い、荷物を置いているとき、ふとある思考が頭をよぎって止まった。
――いや、ちょっと待て。
…………まさか、〝一緒に入る〟のか……?
考えてもみなかった事態に、思考が停止する。《剣島都市》では〝精霊〟と〝冒険者〟という主従で、とてもそんなお互いの姿を意識したことがなかった。風呂に入るってことは、つまり、裸になるのか……?
僕が思わず後ろを向くと、ミスズがいそいそと、冒険者の服をまくりあげていた。
「ちょ、ちょっと待て……」
「―――へ? わひゃう!?」
「あ、おい!」
僕が注意をしようとした直後、勢いよく服をまくって視界を失っていたミスズが、岩場の〝ぬめり〟に足を滑らせて落ちる。
かなり危険な事態だったが、幸い、その身体は岩場のほうではなく〝風呂〟の揺れるお湯へと落下していき。冒険者の衣装のまま、湯柱が上がった。
「な、なにやっとんじゃーーー!! ってか、大丈夫かミスズ!? 今助けるぞ」
「はうぅ」
ミスズが、びしょびしょに濡れていた。
冒険者の『荷物』ごと転落して、その中に入っていた。鉄製の片手鍋や、冒険者の方位磁針。それに薬草瓶なども……すべて、お湯にぷかぷかと浮いてしまい、ミスズがその中で尻餅をついている。幸い、それほどお湯は深くはなかったらしい。
絶対に濡らしてはいけない、冒険者の野営用の《小燃料》の枯れ草まで濡れていたが……今はいい。精霊の無事が大事だ。
「おい、大丈夫か!?」
「は、はうう……。喜んで急いで入ろうとしていたら、失敗しちゃいましたぁ。ミスズの記念するべき初温泉が……」
「ば、バカヤロウ。それどころじゃないだろ。というか、お前だな」
見る。
ぷかぷか浮かんでくる《冒険道具》たちと、『精霊』…………。ミスズは髪の毛から何から、全部濡れてしまっていた。
冒険の服の上半身だけ脱いでおり、その下に、濡れた長い髪が薄く透けた肌着にはりついている。――これが、何というか。女の子が濡れて、目の前にいるのである。
……ちょっと、シャレにならんだろう。
それが、第一の反応。
幼げな精霊特有の顔立ちと、いつも自信なさげに、うるうる瞳を潤ませているその下で……意外なほど、きちんと女の子の体のラインがあった。それが、ドキリとさせる。普段は冒険者として一緒に生活しているが、街の買い物――そういう女性服の買い出しとか、サルヴァスの街中に一緒には行かないもんな……。
って、そうじゃない。僕は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫か!」
「……は、はいぃ」
服装は全部濡れている。地肌の色も透けている。《革靴》なども当然ながら浸水だ。乾かすには、少し時間がかかるかも知れない。
意識しちゃダメだ、と契約主の沽券に関わるので言い聞かせるが、一度見てしまったものはどうしようもない。目に焼き付く。年相応というか、普段から見ている寮母さんたちの『豊満さ』とはまた違うが、この精霊は精霊で、鈍くさいくせにそいう部分は妙に大きい。主張が激しい。
…………って、だから、そうじゃないだろ。
僕は首を振りまくった。もう、どんどん思考が引っぱられていく。
「う、うう。おパンツがぐっしょりです……」
「―――だからそういうこと言わないでね!? 君は無自覚かも知れないけど、僕はわりと健全な冒険者だからそういう言葉が引っかかるの! もう、体に悪いんだよ」
「はっ。そ、そうです! ――ミスズのせいでマスターの下の部分が濡れちゃってます! 責任とります!」
「…………いや、うん……。まあ」
なんか、どんどん『エロ』な方面に転んでないか? 会話が。
これも温泉の成せる業なのか。ともかく、いったんはこの状態を立て直そうとしていると、――ちょうど森の陰になっている部分から、人影が現れた。
杖をついた、とても小柄な老人。白髭の見慣れない人は、『おやまぁ、驚いた。旅人とは珍しいですな』と僕らの姿を不思議そうに眺めて、
「――お困りではないですかな? この辺りの岩場は、たいそう〝ぬめる〟ことで有名でしてな。お怪我はありませぬか?」
「あ。は、はぁ」
……人が、こんなところに来るなんて。
僕のほうこそビックリだ。もしかして、近くに村があるのか……?
「温泉をお求めならば、ぜひとも、我らが〝村〟に立ち寄っていかれるとよい。――この周辺はジュレス山脈、そして、その中腹にある我らが村は―――〝ドドム〟といいます。じゃ。最近は、めっきり旅人が減ってしまいましてのぅ。魔物が、悪さをしております」
「……?」
寂しそうに、首を振る老人に。
僕らは、そんなきょとんとした顔を見合わせるのであった。




