26 聖剣図書
ぼんやりと歪んでいた視界が、ゆっくりと戻ってくる。
頭上には、ひときわ明るくなった―――銀色の月。そして、周囲に蠢くは、黒いシルエットの魔物ばかりであった。自分を取り囲むそんな光景に―――〝メメア〟は、少しずつ、目の焦点が合わさっていった。
『マスター! しっかりしてください、マスター!』
「……うっ。アイビー?」
絶望的な状況が続いていることは、その精霊の緊迫した声で分かった。
一瞬、意識が飛んでしまっていたらしい。――《鎧蜘蛛》に横殴りの一撃を受けてしまい―――避けきれずに、『聖剣図書』が物理的に弾いたのだ。しかし、回避しきれなかった頭部にも少し攻撃がかすめ、脳震盪を起こしていた。
そこから、復帰しての光景は絶望的だった。
「…………クレイトは……?」
『…………』
アイビーは言わない。
その向こうに、群れがいた。凄まじい振動が聞こえてくる。大地を揺らし、頭上の銀色の月をも揺らしているような―――そんな巨大な獣が、大地に君臨していた。《赤い目玉》が見える。大きな大きな、八本の腕が見える。
―――アレは。
そんな、闇夜の怪物をメメアは見上げていた。
「何あれ……!? じょ、女王蜘蛛……!?」
それが、一山のように動いていく。
これで、無限に湧いてくる《鎧蜘蛛》の謎が解けた。……親玉がいたのだ。そいつは、周囲の《魔物》を引き連れて動いていた。圧倒的物量だった。とんでもない脅威の塊だった。
しかし、気になるのは……その魔物の周囲で、注意を引きつけていたはずの《クレイト》がいないことだった。
「…………クレイトはどこに行ったの……?」
『……マスター。悪い知らせがあります。落ち着いて聞いてください』
精霊は言った。
重く閉ざした口を、無理矢理動かすように。聖剣図書の中から。
『クレイトさんは……〝喰われ〟ました』
「……っ、」
『いえ、分かりません。確証はない。最後の消息が途絶えてしまいました。状況は―――最悪です』
精霊は言った。
それによると、『消えた』という。途中まで目で追うことが出来た。しかし、その《鎧蜘蛛》たちの頭上を踊り、凄まじい〝討伐数〟を重ねていたときに―――その救世主は、巨大な親玉の《女王蜘蛛》の口の中に消えていった。
出現の位置が、ピンポイントだった。
―――あるいは、最初から〝クレイト〟を狙ったのかもしれない。狙い撃ちにされたクレイトは、大地をひっくり返すほどの振動に覆われ――魔物の群れの中で見えなくなった。最後に見えたのは、遠く―――夜空の下で、魔物の口に呑み込まれているときだった。
「そん、な……」
『……』
白い糸に、絡まれ。
その姿は、暗い夜の中でも不気味に見えていた。
あの女王蜘蛛は、糸を口から紡ぐらしい。獲物を捕食するために。『人間を呑み込める』大きさにある女王蜘蛛は、獲物を捕食し、身動きをとれなくするために〝糸〟を使うらしかった。
「……。クレイトが……ウソよ……」
メメアは。放心する。
まだ冒険は続いていた。絶望している場合ではなかった。
《鎧蜘蛛》は少年が引きつけていたとはいえ、まだ群れの数が多く、そのうちの数匹は依然としてメメアを狙っていた。数匹だけでも、十分に脅威になる《魔物》だった。その魔物が迫ってくる。
《鎧蜘蛛》は腕を振り上げ―――鞭でも打つように、その腕を高速で振り下ろしてきた。巻き込まれる。
メメアは放心して、固まってしまっていた。腕の中の《聖剣図書》の声だけが状況を判断し、動きを求め、辛うじて一撃を弾くことが出来た。だが、その勢いだけは、モロに食らってしまった。
「……っ!」
『マスター。しっかりしてください! クレイトさんがこの場にいたら何て言うと思います! まずは状況を見回して―――助かる道を探ることが必要です。クレイトさんは……もう……』
「ま、まだ。分からないじゃない」
メメアは言った。
最後の、希望の灯火でも。すがりつくように。
まるで体から、生命力が、抜け落ちたみたいだった。
あれだけ元気な冒険者だったはずなのに。誰にも負けたくない――って、そう思って冒険をしていたはずなのに。故郷を出るときに誓いを立てて、《剣島都市》までやってきたはずなのに。
…………力が、出ない。
………魂がすり減ったみたいに、手足に力が入らない。
クレイトが、いなくなった。
一緒に冒険すると。――誓った、はずなのに。
「いなくなるなんて……ありえない。考えられない。クレイトだって、こんな場所で死んでしまうような《冒険》は望んでいなかったはずだわ。《剣島都市》で、もっと―――強くなる。って」
『…………』
メメアには、それが信じられなかった。
それが、諦められなかった。
冒険を思い出す。
森の出会い。スライムに囲まれていたあの頃が……遠い昔のようだった。クレイトが通りかかり、その精霊と『結合』して助けてくれた。レノヴァ村まで無理を言って同行すると、《聖剣図書》について会話があった。
―――クレイト、シュタイナーは。
「……私の冒険の、原点……なの。なのに、いなくなるなんて……」
いつしか、《目標》として、隣を見ていた。
振り返って、地図を手にして森を歩く、その少年の顔を眺めていた。
なのに、助けられないなんて。
このまま――『旅が終わる』なんて。そんなの。考えられなかった。
メメアが言うと、アイビーは黙った。しばらく沈黙した後に、
『マスター。聞いてください』
「……?」
『クレイトさんは……生きているかもしれません』
この《剣島都市》に、浮かばれない冒険者がいた。彼らの暮らしは貧しく、実力も上がらず、〝レベル1〟のまま―――《聖剣》はいつも固定されていた。魔物が倒せず、倒せないからお金が稼げず。経験値も入らないから、強くなれない。
―――それは、最低の。《剣島都市》の冒険譚でした。
彼の精霊から聞いていた、そんな逸話を。
そんな最低の暮らしの中で、冒険者は、見いだしたのだと。
自分が傷つき、苦しみながらも…………それでも、先に進む道を。《修行》は険しかった。ボロボロに疲れ果て、雨の日も休むことはなかった。修行以外にも、自分の鍛錬をした。剣を握る手がすり切れて、皮がすりむけ、血が滴り落ちても―――前に進み続けた。
『その話を思い出したとき、こんなことで死ぬタマか―――って、僕にも思えてきました。
たとえ、目の前の、あの月夜の下の光景が絶望的でも。巨大な魔物に呑み込まれていたとしても―――彼なら、もしかしたら生きているのかもしれない』
精霊は、言った。
まだ〝希望〟があるかもしれない――と。
外から、あの包囲網を突き崩し、《女王蜘蛛》に突撃すれば―――あるいは、なにかのチャンスを見いだせるかもしれない。
しかし、それには〝大きな力〟を必要とすることだった。勇気だっている。十中八九、死ぬだろう。
『…………それでも、『やり』ますか?』
「……っ、」
メメアは、唇を噛みしめた。
噛みちぎるほどに、噛みしめていた。
恐怖と戦っていた。それは内側から制御不能の震えとして、彼女の全身を包み込んでいた。当たり前だ。《人間》なのだ。クレイトのような超人めかしく、《鎧蜘蛛》の包囲網の中へと突入するような、そんな肝はない。
震えは正直なモノだった。……怖い、など以前に、命綱がない飛び降りだった。『実力』がない。魔物たちを相手に、突っ込んでいく場合の、彼女の冒険者としての力は―――『聖剣が使えない、民間人』と全く同じだった。
必死に、恐怖と戦っていた。
顔中が歪んで、ぽろぽろと、その瞳から涙が出ていても、言葉が紡げなかった。だが、頷いている。何度も頷いていた。
『それでこそ――僕の〝契約者〟です』
「……!」
『無謀で。だからこそ。
そんな人だからこそ――僕らは、今まで契約が合ったのかもしれません』
アイビーは。
『《目標》を――――立てます』
精霊は言った。
その声が、希望を指すように。
『《聖剣図書》―――こんな時にさえ、何も反応を示してくれない、ハズレな聖剣です。でも、向かいます。クレイトさんを助けます。この蜘蛛の群衆を。100匹を突破して、救援に向かう。……魔物の体液に溶かされてしまう前に』
「…………っ、」
『聖剣に―――祈りましょう』
―――守りたい。
そう、守りたい……!
メメアは強く本を握りしめた。
生まれてこの方、自分の持ち物も、生きる道さえも……馬鹿にされてきた日々。でも、最後にクレイトがいた。あの二人の主従は、メメアたちに《冒険》についての生き方を示してくれた。
――メメアが、いてよかった。と。
ここに足を踏み入れる前に、少年が言った言葉を思い出した。もっと、頼りになるように。自分は、故郷の思い出と、《剣島都市》の思いでごと抱えながら―――それを守るために。進むのだ。
メメアは顔を上げた。
その冒険者は近くて。目標になっていた。
弱くて。《ステータス》も低くて。《レベル1》で。
…………ちょっとヘンで。でも、だからこそ。見つめていたい。そう思える、冒険者を。
「……私だって。助けるんだから」
呟いた。
魔物の、視界いっぱいに広がる群れに向けて―――足を向けた。
《鎧蜘蛛》たちが、振り返ってくるのにも、構わず。
「私が、助けるの……クレイトを!」
叫んだ。
涙の落ちる瞳で、見る。立ちふさがる全ての《魔物》を。
「神樹よ―――。友を助ける力を、与えて……ください。
私の、大事な、大事な人を守る力を――ください。《魔物討伐》の世界樹よ。聖剣を紡いでくださった恵みよ。
――私にも、友が出来ました。アイビーと同じくらい…………大切な、友達が出来ました」
紡がれていく言葉は、自然と、そう口が動いていた。
…………何をやりたいのか、心が決めていた。
その中身が、自然と言葉として、口をついて出てくる。暗い闇夜で、《聖剣図書》を握りしめる彼女の手が――体が。『ぼうっ』と、淡く輝きを持ち始めていた。しかし、彼女自身は気づいていない。
闇から蠢いてくる、魔物の黒さと真逆。その神聖な光に包まれた《彼女》の体は、魔物たちへの中へと向けられる。
「―――私にも、仲間を助ける力をください。友を、友と呼べる―――そんな確固たる、聖剣の輝きを」
―――瞬間。
魔物が群がってこようとするが、メメアは逃げなかった。
ブーツの足を。踏ん張って。最後まで言葉を紡ぐ。その決意に反応するように、手にした《聖剣図書》が今までに無いほどの〝熱〟を帯び―――焼けつくほど熱く、そして本の中身が振動していた。メメアを包む輝きも、一層強くなる。
彼女を中心とする、色鮮やかな、空中の魔法円が生まれていた。そして、神樹と同じ輝きを帯びた彼女の手の中に、その『表紙の刻印』が刻まれた図書が生まれる。
―――本の中に、文字が増えていた。
それは。
その文字は―――
「………………。詠唱呪文……!」
瞳を見開く。
蜘蛛が集団で、襲いくる景色の中で。
****
《ステータス → 変動》
冒険者:メメア・カドラベール
《攻撃呪文》
――――Lv.1 《雷炎の閃光》
***
その文字が。
古代文字のように、浮かび上がり、水面のようにゆらりと揺れていた。原理は分からない。だが、その光り輝く文字は―――冒険者が使う、聖剣の輝きにも似ていた。
「…………っ、アイビー!!」
『ええっ、マスター』
後は、力を込めるだけ。
メメアは瞳を閉じて集中した。精霊も主人に応じる。
彼女を渦巻く光が、なにかに反応するように収束し―――その手の中へと集まる。それは『一度きり』などというものではなかった。膨大な、魔物すらも竦んでしまう、色濃い神樹の力は―――純然たる、編み込まれた『魔力』といってもいい。
その『魔力』が、一箇所に収束していく。
込める。込める。意識を込める。
その意志を形にするように、調え、イメージし、それから一気に解き放つように。
……引き絞った弓矢を、ただ、一直線に放つように。
メメアたちが、この夜における、最初の反撃の火ぶたを切った。
「――――《雷炎の閃光》――――」
凄まじい爆炎のごとき光が、その墓地風景の中を轟かせた。




