18 死への誘い
……なんで。
なんで!?
メメアは後ずさっていた。脳が混乱していた。……確かに、確かに焼き払ったはずなのに!
森を絨毯のごとき爆風が直撃し、《雷炎の閃光》は女を焼いた。そこまでは見届けていた。
あの状況で一介の剣士が逃げおおせるとは思えない。《魔物》ですら爆速の回避ができず、その皮膚や鱗などに火傷の跡を負ったであろう。……なのに、女の夜風に揺れる衣服には、焦げ跡の一つもついていない。
ただ、幽霊のように草地に立っている。
(……っ、う、あ)
少女は、何が起こったのか分からなかった。
……体が動かなかった。
生き物としてではない。絶対強者の、それも不可解なモノに出会ったような恐怖だった。何をやっても〝攻撃〟が回避されるイメージしか浮かばず、何をやってもその剣先に自分が絡まってしまうイメージ。
女は、手を広げた。
剣を握っている手を広げている。攻撃しない余裕があった。
「明るく闇を裂く炎は、攻撃の手としては最上位ですが――。その裏に潜んだ暗殺者をも隠し、闇夜にとけ込ませる。
騎士を焼き尽くすのに、単純な一直線の《魔物の噴流》のような火炎ではダメですの」
「……う。あ」
「その動きが読まれ、紙一重で炎に隠れて回避される」
―――こんな風に、と。
女の体が、トン、と土を踏んで回転した。
一瞬だった。夜に紛れて黒い剣が引き裂く。正面からではなく、側面から回り込んで近接した。それなのに、動きが速すぎて見えなかった。今までの動きが嘘のように、何十倍もの速度で押し寄せてくる。
――一瞬で、メメアたちが背にする丘にまで押し寄せてきた。
――呪文・《水王の槍》が迎え撃つ。噴き出した水が正面に迸り、女の姿を夜空に押し返したと思った。
だが、
『マスター!! 後ろ!』
「え」
再び、昏い視界の中から現われたときには――
メメアの背後に、赤い瞳があった。
『うく……っ』と少女が後ずさる間もない。その動きはあまりにも『常軌』を逸脱していたからだ。
メメアが地面を蹴って乱暴に回避する。女の黒い剣がそれを追いかけてきていた。あのまま場にとどまっていれば、斬られていた。
……そう思って、回避したのに。
「……、あ、れ」
ドス。と。
直後に、背筋を這う感触が押し寄せてきた。
……なんだ。
少女は、目を落とす。
最初何が起こったのか分からなかった。体が動かず、まるでその場に縫い止められたように足も進まなかった。
状況は分かっている、早くこの場から離脱しなければいけない――それなのに、体が。一番理解しているはずの体が動いてくれない。
…………視線を落とした。
左手から、ギラギラとした血塗れた先端が見えていた。突き刺さって、赤い鮮血を滴らせていた。
「う、あ……?」
ゾワリと悪寒が襲う。
手に、灼熱が襲いかかる。広がって、いく。
「う、あああ―――っっ、ああああああああああああああああっっっ!!!」
『マスター!?』
震えて膝が崩れる。書が左手から滑り落ちる。
震えがきた。湧き上がった恐怖に、痛みが伴った。月夜の下で絶叫が上がった。ジワリと熱い。熱をもっている。〝刺された〟と気づいたときには全身を混ぜるような嫌悪感があった。
喉を這うような悪寒が、少女の体を地面から離さない。
その目の前の『光景』に、女は最高に愉快そうに近づく。
「いい光景ですわぁ……《冒険者》さん。
所詮、《冒険者》という魔物討伐の汚れ役は、王国の騎士にさえ概念で及ばない存在。……〝レベル〟〝レベル〟〝レベル〟…………うふ、実戦を経験せずして、よくも強者を名乗れたものですわ」
「……う、ああ」
さらに転がる。呻く。
ビッシリと汗の粒が浮かぶ少女の瞳が見上げ、女が立っていた。
赤い目が。
―――無機質の宿る。その瞳が、彼女を見つめていた。
…………ゾワッとする、無感動な目だった。
この女は、そもそも《冒険者》などを敵と認識していない。〝毒〟を投与し、生物はどう生き延びるか? それだけを眺めている顔だ。痛みに思考回路を失うか、それとも命乞いをするのか? ――期待すら、していた。
女は髪をかき上げ、払う。
「言ったでしょう。何をやっても無駄だって」
「……っ」
「あなたは、『仲間』をかばってこの森でとどまったみたいですが……しょせん、《冒険者》など一括りに同じモノ。弱い、魔物を相手にするだけですものね。ひとりひとり食い潰していって、この里――《クルハ・ブル》の戦意を挫こうかしら」
(……く、れいと……)
歪める。
その少年の、名を呼ぶ。
……こんなところで、終わるはずじゃなかった。
こんなところで、終われるわけがない。
――故郷を離れた少女が抱いた、分不相応な夢。
それは、『彼の冒険』とともにあった。
《剣島都市》の最底辺―――底辺は、底辺。どんよりと暗い街角で、その記憶が蘇る。すれ違う冒険者たちの顔はみんな違う場所を向いていたし、自分の事だけしか考えていなかった。
明日を見る瞳は、すべて、己の幸せのみ。違う場所の住人だった。
……ちょっと上級の装備。
……ちょっと自分よりもレベルの高い《魔物》の討伐。
……ちょっとした成功譚、
……ちょっとだけ幸せそうで、ちょっとだけ温かい食卓。
ちょっとだけ上乗せした王国銅貨の、夕食。
……すべて。
すべて、羨ましくって、こんなにも寂しかった。
メメア・カドラベールは《剣島都市》でも一人だった。精霊を抱えても、街をさまよっていた。冒険での出世ばかりを望み、〝ランク〟のみが島を支配し、その価値観には――〝温かみ〟なんてものはなかった。
争いだけがあった。
……でも。
でも、その〝冒険者〟だけは温かかった。
笑顔で、都市を歩き、精霊と旅をしている冒険者がいた。
ボロボロの服を着ていても気にしない。〝レベル1〟だからって諦めない。へこたれない。挫けそうになったら、『あのなぁ』とため息をつき、それでも相手の歩調に合わせるため足を緩める。
――その託す夢は、『彼』がいたから。
どんなに泥臭くてもいい。どんなに笑われてもいい。
きっと、未来で見たこともない冒険エリアを旅したり、ダンジョン迷宮に潜ったりするのだろう。密林の果てに〝集落〟を見つけたり、誰も見果てなかった世界の果ての強者が羽ばたき――。
そんな世界に――。連れていってくれる。
……そんな世界に、行きたかった。
……その夢に、ついていきたかった。
(…………知らせ、ないと……。クレイトに……)
少女は、這いずる。
草地に打ち付けられ、服を泥で汚す彼女は、灼熱のように噴き出す左手の『血』を自覚していた。全身から生命の大事なモノが、抜け落ちていく感覚がする。だが、諦めずに這った。
「残念。どうして――逃げ切れると思いますの? どうして、そんな顔で無様に虫のように、這っておりますの?? 《冒険者》が――魔物相手でも、逃げられませんわよ?」
「……っ、」
―――最大最高放出。
抵抗するように。少女の手から、最大級の生命を込めた《水王の槍》の水が生み出された。空中を旋回し、敵を鋭く貫く水が横殴りに女に向かう。
ほぼ、空になった《魔力》を使って、絞り出すように抵抗する。
―――一撃、二撃、三撃。ドス、ドス、と手応えがあった。
無抵抗な人形のように、黒い女の影が、揉み込まれながら揺れる。異様な向きで腕が折れ曲がり、ぶらりと剣がたれる。
……が、
「ふふ――。だから、それが―――どうしたんですの?」
その影が――そのまま歩いて、少女の頭を掴んでしまった。
『うく……っ』とメメアがボロボロの顔で叫ぶ。《冒険者》の体が――ふわりと浮き、そのまま地面から引き抜かれたように浮遊すると、森のまだ残っている木々に向かって―――強引にぶん投げられた。
悲鳴が響き渡った。
全身の。マナの《ステータス》によって守られていたはずの防御上昇値など無視して、少女の体が森に転がる。ゴミみたいに森の中に転がる。
女の腕など、曲がっていなかった。
すべて――何ごともなかったかのように、元通りになってしまっていた。
「……あ、あああ」
ゾワリと、今度こそ本当に止まらない悪寒が少女の背筋に走る。
その女は、森の残った木々に少女をぶつけて回った。身を庇う余裕も、受け身もとれない――ただ、王国の一人のか弱い少女として、その木々を割りながら飛ぶ。五体が引き裂けるかと思った。女が、着地点に立っていた。笑っていた。また、掴んだ。投げた。
『き、貴様――!!』
「うふ、精霊は最後――。まだ、わたくしも精霊だけは殺したことがないですものね。あとで、ちゃぁんと楽しまなくちゃ」
―――冒険者など、《前菜》。
女は笑う。笑っている。殺しを笑っている。
無敵だった。
メメアは奥歯を噛む。
―――何をやったら倒れるのか。何をやったら、アレに勝てるのか。《最弱冒険者》は勝てるのか。アレは化物だ。常人の〝耐久力〟というものをとっくに無視していた。
《最弱冒険者(レベル1)》が――勝つことができるのか。分からない。イメージが浮かばない。かの、《女王蜘蛛》を――単騎でほぼ倒しきった、あの《最底辺冒険者(レベル1)》でさえ
「…………《水王の》……」
「無駄」
蹴り上げられた。
鮮やかな結晶が、周囲ではじけ飛ぶ。
精製前に《水王の槍》をはじき飛ばされた。もう一方的な近接戦のみだった。―――〝精霊〟や主従にそれを形成するだけのマナが残っていない。むしろ、もともとの、体内にあったマナを枯渇させ、吸い取られたような感覚を受ける。
……アレが。
あの、黒い剣にふれてから、何かおかしかった。
……まるで、生命の軸を、直接吹き飛ばされているような――。
「――ふ。教えてあげましょうか。この剣の秘密を」
「……!」
メメアの冒険の、最後。
傷つき、深手を受けた。そして引きずるように血の跡を伸ばし、「う、ううぐ……」と腕を、左手を、聖剣書を引きずる少女に。その向かえた冒険の最後を飾るように――女は、謳うように告げる。
「無粋だから、そう呼んでいる剣。『黒夜』ですが――。
もともとの、別の真名がありますのよ。魔物の住まう地の奥から、それはダンジョン迷宮などの最も深いエリアから生み出された〝モノ〟。
それは、結果的に―――何百人と、人を殺して回ったことになるのかしら。《魔物》を助け、人間たちからは『ボス級』と認定されし、唯一の植物」
「……?」
……なにを、いっている……?
女が言う。それは、災厄級だと。
かつて、その迷宮に挑んだ冒険者たちを『数十人』規模で殺戮し、地上へは返さなかったという伝説を持つ。それは決して財宝でもない。……《魔物》だ。だが、その生息する巨大樹の、幹を削って、すでに冒険者たちに討伐されてしまった《母体》とは別の武器を作り出した。
「―――『暗黒樹の魔物』と、言うそうですの。その生命を喰らいし〝性質〟を持つ木のことを」
「……?」
「うふ、遙か昔。そう、おとぎ話になりますわね。
この大陸で魔物討伐が始まった頃、始祖冒険者と呼ばれし者たちに、討伐された魔物たちがいましたの。――《始祖(Sランク)》魔物なんて呼ばれていましたが。…………その〝木〟は、そちらの末裔」
女は、愉快そうに告げる。
すでにその《母体》は死滅している。
大昔――それこそ、メメアたち《現代の冒険者》たちがいる数百年も前に、〝始祖冒険者ロイス〟から〝現代の冒険者たち〟までを繋ぐ、その歴史の中に『中興の冒険者たち』の層があった。
―――輩出した〝Sランク〟、五名。
――Aランクも多く、誇りを持って討伐にあたり、所属するBランクの階層も数千。軍隊規模で多かった。
《剣島都市》の島を本格的に大きく拡張し、そして周辺諸国へと《冒険者のもたらす平和》を広げていった時代。……筆頭冒険者は〝獣人ベン〟の祖父である、〝獣人アジルド〟。通称・二代目ロイスである。
周辺諸国の〝暴虐な王〟たち、〝戦乱を目論む王〟たちの国を鎮め、《冒険者》たちが弱い者の側に立って、ほぼ無償で〝歴史的災厄級〟のボス級魔物たちを討伐して回った。
――そして、彼らが行きついた最後の戦い。
それが、
「…………《ダンジョン迷宮攻略》……!!」
「そう、その通り。かつて、あらゆる王国の軍隊や、騎士、そして連合軍の中には《冒険者》もいたし、当時は数人いたという〝世界の記憶の囁き〟が聞ける『賢者』なんてものもいたそうですわ。全員が、ある目的のために、周辺諸国の迷宮を潰して回っていた」
―――その目的は。
〝魔物の巣〟の、根絶。
周辺諸国には〝魔物歴・周期〟というものがあり、数年に一度、あるいは、数十年に一度、というレベルで天文学的な〝災厄〟が起こるものとされる。
王国の学者が調べて、発表したものによると、それは迷宮遺跡の底に眠るとされる《始祖級魔物(AAAランク・ボス)》が引き起こすそうだ。魔物の特性により《災厄》は変わり、各地で氾濫、飢餓から、街の地盤がごっそり地中に飲み込まれ、槍のよう氷の雨が突然、都市を襲うものまである。
――その最たるものが、《魔物大繁殖》である。
ただでさえ、《冒険者》たちが魔物を討伐して回っているのに、それを上回る数が爆発的に増える現象を言う。冒険者の手は追いつかず、《小魔族》や《ウルフ》のような魔物が王都にまで押し寄せる。
……それを。
その可能性を、一つでも多く摘み取って、自らの子や孫、次の世代の人間にまで《平穏》をもたらそうと、全盛期に片付けねばならない仕事として掲げたのが、《旧第一位・獣人アジルド》たちであり、彼らが行ったのが《ダンジョン迷宮攻略戦》であった。
壮絶だった。莫大な被害が出た。
冒険者たちも数百名規模で《死傷者》が出てしまい、王国の軍隊などは撤収をしてしまう国―――六カ国に及んだ。
だが、それでも。
その成果として―――《世界の巣穴》と呼ばれる、暗く、底の見えないダンジョン迷宮を、《最大規模》のものを三つ枯らすことに成功した。
――そのうちの三つには、《始祖級魔物(AAAランク・ボス)》の魔物が住みついていたとされる。
それが、
「…………どう、して」
「うふ。それはですね―――その三つの遺跡のうち、一つに残っていた《暗黒樹》の残骸を、持ちだした人間がいるからですわ」
女は、――それを楽しげに告げる。
人間の《悪事》を、心地よい子守歌のように。
「―――かつて、《旧第一位・獣人アジルド》が行ったとされる《ダンジョン迷宮攻略戦》。しかし、その魔物の中身は伝わっていなかったそうですわ。さまざまな推測が行われる。また、その『力』を、欲したモノも現われた」
女は腕を組み、遠い空を見上げる。
…………推測が行われた。
国家級の《評議会》や、周辺諸国の王たちが集まる〝四大国会議〟や、〝七老国議会〟などと呼ばれる会議を通して、人間たちはその情報を必要以上に練った。執拗に、冒険者をのけ者にし、噂した。
実際にその《ダンジョン迷宮の最奥部》――そこに足を踏み入れた王国の剣士や兵士たちはおらず、冒険者たちですら多くが脱落を繰り返した果てに―――獣人アジルドを含む五名の『Sランク』の冒険者たちが部屋に入った。
その『ボス部屋』は、扉から内側に入るだけで即死する危険な空間であった。
だから、討伐した《獣人アジルド》が情報規制を行ったことで、魔物の外見や、その〝能力〟については、諸説があって確かなものはなかった。
だが、当然―――そう言った状況や、考察するしかないことを潔しとしない《王》や《騎士会》たちによって、戦後に魔物を研究する者たちが現われた。……必然的なことで、その混迷する時代に紛れて、『遺跡の最奥部』の部屋から、《残骸》を持ち出したモノが現われた。
「……それ、が」
「ええ。冒険者たちに潰され――敗れた〝始祖級魔物(AAAランク)〟の怪物の一部ですわ。
そうと知らない王国の学者が、持ち帰って、こぞって研究した。そして王国の威信と国王の見栄を優先させた結果、それは新たなる〝剣〟の形として生まれ変わった」
――〝魔剣〟の、誕生である。
かつて、《旧第一位・獣人アジルド》たちが恐れて、最優先で優先順位をつけた〝三つの世界の穴〟のうち、本来の姿は失ったとはいえ《化物》の体の一部が、剣の材料になった。
元より、魔物である。
その絶大な威力を人間が扱えるはずもなく、《王国がある》その大国は魔剣の災厄によって次々と王族が不幸の死を遂げた。それから剣は流れ―――〝幾人もの剣士たち〟と〝人々〟を滅ぼしながら、大陸の盗賊ギルドの宝物庫に入り、そこでも首領級の人物を何人も殺し、そして《魔剣》は〝ある剣士〟の元へと流れた。
――騎士を狩り、より強く人の死を望む。
――同じ性質を持つ、〝アズライト〟の元へと。
「……っ、だから。里を、魔物が襲った……の?」
「ええ、魔物を魔力の力が導き、『狂わせ』るのも容易なことですから。
さすが、〝始祖級魔物(AAAランク)〟の一片は、たとえ竜の鱗であったとしても凶悪な力を発揮しますわね。効果が絶大と言われるだけありますわ」
「……なんで」
……なんで。
こんなことをする。
理由が分からない。
ここまでする、理由が。
メメアは里をみた。……夜風に乗って、悲鳴が流れてくる。
ダンジョン迷宮から抜け出した《魔物》が――人の里で何もしないわけがないのである。その騒動が。遠くで叫び声が聞こえる。――里は炎上し、人々は逃げ惑い、命をかけて家族を守ろうとした勇士から、魔物の錆びた剣に貫かれて死んでゆく。
さながら、ダンジョン迷宮攻略戦、そのままの再演だ。
かつての、《旧第一位・獣人アジルド》たちが経験したであろう、その恐ろしい悲劇の繰り返しだった。
――それを引き起こすのが、〝始祖級魔物(AAAランク)〟の魔物の、残骸だった。
…………なんで、こんなことをする。
メメアには、分からなかった。
「……それは。《魔物》は……人の、敵じゃないの……?
魔物を『狂わせる』剣だなんて……こんなことには使わない。使って、いいはずがない。里には人間がいるのよ……? ……守りたいと思って戦う人たちも、恐怖に怯えながら、魔物の襲来から身を守る子供たちもいる」
……なのに、なんで。
メメアの言葉は、血の塊を吐き出すようだった。――呪詛のようでいて、自分が信じる世界を守る言葉。
引き裂けそうな痛みと引き替えに、湧き上がる疑問をぶつけても。なお、
女は、ただ、声を低くして忍び笑うのだった。
「――見たいじゃありませんか。王国が、壊れゆく様を」
「……な、んですって……?」
――それは。
それは、少女の予想の、あまりに外側からくる言葉だった。
違う、言葉だった。
それは彼女が聞きたかった言葉じゃない。――〝恨み〟、でもよかった。王国の美しい部分を追われて、盗賊ギルドの小汚さに身をやつした者の〝呪詛〟。それだけでも、よかった。
……まだ、人間として理解ができた。
なのに。
この女は笑っていた。笑みも言葉も頭に入ってこない。感情も、その目にうつる景色も―――すべての歯車が。〝この女〟だけ掛け違っていた。
「―――見たいじゃありませんか。王国が壊れゆく様が」
「……壊れる、姿?」
「百年前の世界の話。
魔物が巣くい、人間たちが恐怖に怯え―――各地でまだ領土を奪い合う、醜い小競り合いまでして『国』を守ろうとした時代ですわ。
そこでは燃える景色があり、人々が常に鉄の武器を握り、疑い合い、そして潰し合って焼け野原があった――そんな時代です。《魔物》に襲われ、簡単に人が死に、国が滅んでしまう」
――世界は。
混沌に包まれていた。
各国の勢力図は『魔物討伐』を建前とした版図で〝王国〟を分かち合っていた。武力と軍事力のみが〝魔物を倒せる〟という建前となり、領土争いなど、世界の国は危うい〝均衡〟の上に立っていた。
……一つ間違えば、転がって。
まるで高い場所に立てられた卵のように、転がってすぐに落下し、潰れてしまう危険性があった。
それは――《冒険者の島》の課題。
まだまだ《冒険者》というものが各地で特権的に振る舞うことが許されず、〝始祖ロイス〟の残した宿題は山積みとなっていた時代だった。
そんな『世界』を――
この女は、面白いというのだった。
「混沌、混沌、混沌、混沌、混沌、混沌、混沌、混沌―――混沌の時代。
ええ。いいじゃありませんか。
ええ、楽しいじゃありませんか。
――その混迷の時代を。わたくしは、生きていたかったですわ。とんでもない〝世界の均衡〟の上にのみ成り立っており、各国を《魔物討伐》の軍隊が行き交っていた。
人々は不安の顔でそれを見送り、国境近くの里や村では、『魔物討伐の名義を借りた他国軍』が暴れ、領土を荒らし、二大国の軍勢が戦争することも珍しくなかった―――そんな混沌の時代を。
―――始祖ロイスが〝新たな世界を創成〟し、
―――旧第一位・獣人アジルドが、政争で大陸を束ねた。そうですわね。
惜しいですわ、とても口惜しい。なかったほうがいいんですわ、《冒険者》なんて。どの王国の力を持った首都さえ、《魔物》の前に飲み込まれる混沌こそが――面白い世界ですのに」
「…………」
「違った生き方もできたかもしれませんわよ? あなたも。
力が及ばず、何も出来なかった人たちも――その百年前の時代だったら、兵士になり、騎士になり、軍団長になり、英雄になり、そして将軍になって王になれた。あなたも別の自分自身に、なれたかも。そう思いません?」
「……」
「―――うふ。たった一人、自分を守るためだけに、国を裏切り、殺戮をし、《魔物》に誰かを差し出す――。あぁ、理不尽。最高に、あぁ、なんて理不尽なんでしょう。混沌の為せるわざですわ。混沌の与えてくれる救済です」
女は。うっとりしている。
小指をくわえ、甘噛みし、妖艶に喘ぐような顔で――自分の口に出した混濁とした汚い言葉に満足している、それを〝想像〟している。まるで、自分が、数百年の昔に兵士を殺すように。
――《ダンジョン迷宮攻略戦》があった頃の、その時代の頃を。
女は、その《魔剣》に求めている。
元、魔物が封じられ、根絶された――〝始祖級魔物(AAAランク)〟相当の魔物であったという、その残骸に。
「――ですから、百年前まで時を戻すのです。
時間を。時計の針を―――。《冒険者》は等しく魔物に殺される〝べき〟であり、〝始祖級魔物(AAAランク)〟の魔物たちはダンジョン迷宮遺跡から外に出て、各国のダンジョンから王国を蹂躙してしまうべき。
――騎士もない。
――兵士もない。
魔物の『狂気』こそが支配し、一つの都を滅ぼしてしまってからこそ……時を百年前に戻すことができる」
「……っ、」
「怯え、肩を寄せ合い。――その絶望の前で、知る人が喰らわれる時代こそが、幸せ」
―――おかしい。
思想が、表情が、〝夢〟が、歪んでいた。
狂っていた。その歪な夢の光景が、理解できなかった。ひとかけらも気持ちに入ってこなかった。少女には怖かった。肌が粟粒だった。
……すぐに、止めねばならない。
メメアは思った。だが、体が動かない。まるで五体の生命が絞りきられたように、地面を、草地を、這うことしかできない。首を動かし、その腕の一本を動かそうと意識を向けるだけで、指先から避けるような激痛が押し寄せる。
(……く。レイトは……)
思う。
……そんな百年前なんて、決して望んじゃいない。
冒険者だった。冒険者だったら、確かに自分の実力を認められたい、自分の力を振るいたい。そう願う生物だった。――かつて、《旧第一位》を築いた、獣人アジルドのように。
自分もそうなりたい、神話になりたい、そう願うかもしれない。
……でも。
でも、
〝レベル1から動かない冒険者〟は、そんな世界は望んじゃいなかった。
今の生きる世界が楽しかった。最底辺でも冒険し、たとえ憧れるような冒険じゃなくとも、あの《最弱冒険者(レベル1)》は笑っていただろう。
――〝ただ、ありふれた冒険がしたい〟
それがどんなに眩しく、透きとおったことなのか。
――世界で活躍する代償が、その『平穏の破壊』だったとしたら。彼が今後、レベル上昇――する条件が、《旧第一位》の獣人の頃のような混沌にあったとしても。
あの最弱冒険者のはずだった少年は―――『彼』は絶対、こういうだろう。
きっと――昇格試験で女王蜘蛛に向き合った、あの不敵で、どこか気負うことのない自然な顔で、彼は言うのだ。
――『そんなもの、ないほうがいい』。と。
『いらない』と。
《旧第一位・獣人アジルド》が生きていた時代。たとえば彼が生きていたとしても、活躍しただろう。メメアは思う。そう信じる。〝始祖級魔物(AAAランク)〟の魔物と向き合い、戦った歴史なんて。そんなの。
――現代に、ないほうがよかった。
皆で幸せに過ごせたほうがよかった。誰かが苦しみに悲しむような世界はいらなかった。……力で。〝階層〟で、争い合う、戦争が起こるような時代はいらなかった。
(…………私も、一緒)
這いずる。
……その気持ちは同じ。きっと、同じだから。ここにいない『彼』のように戦いたい。なのに。
……なんで。自分には力がない。
《冒険者》として。間違っていることを、間違っていると―――そう証明できる力が欲しかった。その痛みの路が、血で塗られ、一つ一つが生命を消耗させていく。女の『野望』を、『欲望』を、間違っている、と証明できる力がなかった。
……自分には。
自分には、力が足りない。
女は。―――〝《冒険者》など旧世界からいらなかった〟と語る。凍えるほど冷たい瞳でそんなメメアを見下ろしていた。月夜の下で這いずり、それでも――『間違っている』と正すように、諦めない少女を。
黒い剣を握って、冷たく、見下ろしている。
――死が、待っていた。
暗く包むような、死が。
――メメアには分かった。その冒険には、《限界》があった。
彼女にも覚えがある。それは、人生で三度目となる〝感覚〟だった。かつて故郷で彼女はそれを味わった。そして、昇格試験でもあった。人間という存在に裏切られ、自分の才能というものにも裏切られ、暗い川の水に転落させられ――。魔物の巣に突き落とされた。
――あの頃の感覚。
今回は《最弱冒険者》がいない。
「――《冒険者》なんて、つまらない存在。
ただ、弱い魔物ばかりを狩って。それで、王国の報酬……〝階級〟を上げるために戦っている。――下らないのは。その見栄ですわ。ふふ。
あなたも見たでしょう。見捨てて逃げた《レベル1》の男。…………ふふ、無様ですわよねぇ。そうまでして助かりたかったのかしら?」
「……っ、」
「下らない。仲間を見捨てて、他人を犠牲にして。
里を救うことなんて――みてご覧なさい、あの千を超える軍勢を。松明を。できるわけがない、なのに突っ込んでいく。嘘の理由を語ってまで、逃げたいなんて」
―――たかだか『下級』の冒険者のくせに。
それが、女の顔に浮かぶ『軽蔑』の理由だった。
――王国の騎士ですら、もう少し〝まとも〟に戦うのに、と。
「――思い上がりも、甚だしいとは思いません? 里に戻ったのは、おおかた里にしか帰る場所がない『里人』たちでしょう。ですが、―こちらも隠し玉である『砂鯨』――砂漠から連れてきた、巨大な砂を泳ぐ鯨がおりますから。〝Cランク〟冒険者でも、単独討伐は苦戦するんじゃないかしら」
――なぶり殺し必至ですわよ? と。
女は、〝少女〟しか戦っていないと踏んでいた。だから、その表情に絶望を与えるように、言葉をぶつけてくる。
――魔物の餌になる。
――獰猛な砂漠の魔物、砂鯨のこと。人間を残忍な殺し方をする。あの巨大な口の裏にビッシリと生えそろう牙によって、骨をかみ砕き、咀嚼し―――粉微塵にし、〝誰〟であったか、分からないようになる。
それを告げる。
それは、冒険者を根本から否定する言葉。冒険者など、路肩の石のようである。秘境である、とする言葉。
『最弱のLv.1』の彼は――。と女はいう。間違いなく逃げている。逃げないとおかしい状況だった。里を千を超える魔物と盗賊の軍勢が包んでいる。たった一人、それも正面から突っ込んでいくなんて城壁に卵を投げるようなものだ。潰れて、終わる。無謀、無策―――。
馬鹿だから、やるとしか思えない作戦。そんなもの、『卑怯で狡猾で、見栄張り』な冒険者がやるものか、と女は夜風に笑う。やったとして、バラバラに粉砕されて、終わりだ。骨も残らない。
可哀想なのは、残されて犠牲にされて、囮にされた『少女』だと皮肉で笑った。
……ありもしない〝救出作戦〟に躍らされ。
たったひとり、この無人の草地の丘で、傷だらけの体を晒している。
―――〝目標〟なんて、最初から、なかったのに。
「――《永遠の眠りを》」
女の剣が、まるで鎌首をもたげるように、静かに上がる。
虚空を泳いで、少女の首元を狙う。
――それは、《剣島都市》から《本の冒険者》の物語が終わる瞬間だった。
……自分は、《騎士》になれなくて。
どこまでいっても、暗い絶望、失望しかなくって。自分が夢見た世界は遠く遠く、信じた冒険者も今は遠い。
草地から、音が消えた。
嫌に生温かい風が、生臭い夜を運んできた。
里の音を静けさが運び、ただ、一陣の風が丘を吹き渡った。
最大級の力を込めた『黒い剣』が―――その頭上に迫ってくる。感じた。メメアが目をつぶり。体を硬くした。
…………その時だった。
地平が、激しく震えた。
「…………な、」
女が、黒髪を揺らせて振り返った。
なぜなら―――そこに。『それ』があったから。
なぜなら、激しく風が渦巻いて、《クルハ・ブル》の上空―――里の空を覆っていた、その雲ごと引き裂くように。〝黄金色の剣の光〟が地平を横殴りに引き裂いていたのだから。
―――千を超える軍勢が、まるで子蜘蛛を散らすように、『光り』に吹き飛ばされていたから。
戦力差の対比がおかしい、『魔物を含む千の武装軍勢』が、『たった一つの影』に、侵入を許し、里に向かって一直線に路を開けていたから。
―――砂鯨が。
月の下を泳ぐように、人間の無力さを笑うような巨大な怪物が、『暗い雲を裂く一閃』によって、横転し血飛沫を散らせていたのだから。
闇夜に声が響く。
――低く唸るような声が、大地を震わせるが、それは魔物が絶命時に叫ぶ鳴声だった。
それは、戦局を一変させた『音』でもあった。
……なのに、なぜ。
なぜ、その光りは、そんなにも『温かい』のか。
柔らかくて、優しくて、それこそ世界の中心――《熾火の生命樹》に加護を与えられたような、濃厚な光。
――それこそ、討伐試験でみせた。
その《女王蜘蛛殺し》となる、最大級の加護を与えられる《最弱冒険者の物語》の剣舞だった。




