15 悲しみの望郷歌
――いつか、見返してやる。
――いつか、見返してやる。
彼女の〝白い世界〟から、声が聞こえてきた。
姉と故郷、そして《名誉》について。
それは彼女の奥底からにじみ出る、思考の記憶かもしれなかった。ずっと抱えていた思考。だからこそ、この白い空間の中でも響き、長い彼女の《歴史》の中でも響き渡っていく〝声〟だった。
ある日、視界が切り替わる。
「―――おい、まただよ」
「ああ。カドラベール家の、外れ娘様が通られる」
それが、彼女が外出し、独り本を握りしめて街を散策するときの街人たちの呼び声だった。
誰もが複雑な顔をし、路肩に道を空ける。
――麗らかな街角。
水と緑の森が豊かに残る〝騎士領国〟の街角は、外の世界からすると穏やかで理想的な暮らしに見えるかもしれないが、〝彼女〟にとってはとんでもない話だった。外を歩くたびに〝噂話〟が広まり、『また、末の妹様だ』という街人たちは決して歓迎する風でもない。
むしろ。
眉をしかめ、作業の手を止めてしまうほどに〝厄介者〟だった。
彼女の母は、――もともと、この土地の旧家勢力である。
古い家柄。昔からこの土地にいた母方の領地を浸蝕し、そして母を娶ったのが〝新興の騎士家〟である父親である。そして古くからの住民から反感を買わないために〝妻〟とした。
――いわば、政略結婚である。
そうした生まれから、〝生まれた息女〟の事情が複雑になってしまうのは致し方ないことだった。そうして――〝メメア・カドラベール〟という、実質的にはなんら力も領地もない『旧領主の娘』が誕生した。
だから、領民たちもよく知っている。
メメアの外出が〝独り〟であっても。
使用人の一人も連れていなくても。
雇えないほど、家が落ちぶれているのも。
貧困する名家ほど惨めなモノはない。住民たちも知っている。
不憫には思う。が、誰も手を貸さない。
同情は何も生まない。むしろ、貸したりすれば、彼女と対立する―――彼女に嫌がらせをする〝姉たち〟――他家の旺盛な《領土を持つ貴族家の娘》たちから、反感を招き、目をつけられてしまう。
……むしろ、その〝沈んでいく船〟に関わってしまうことで、領民のささやかな幸せが潰されてしまうかもしれない。
だから、皆、彼女を恐れた。
彼女の〝呪い〟は、生まれたときからずっと続いていた。
領国を出た後も、ずっと、ずっと。
――、
――――。
そして、緑深い剣の島。
今度は騎士領国から離れ、彼女は貴族の娘を捨てて、冒険者としてもう一度生まれ変わろうと平等な剣の島・《剣島都市》にやってきた。
そこで〝精霊〟と契約すれば、《再出発》の生活ができるという。
そこでの生活は違っていた。靴屋の子供も、仕立屋の息子も―――みんな関係ない。等しく、《才能》に依存して価値が決まる。
順風満帆にいくはずだった。
「――契約して。アイビー。私のお友達になってよ!」
「……なっ。冗談じゃない!」
話しかけるは、〝召喚の炎〟で、ケンカする主従。
精霊だった。名前を〝アイビー〟という。その特異性は丸っこい姿であり、彼は《剣島都市》の神樹が選んだ、古くからの精霊であった。
精霊が、ご主人を《契約主》として認めないのは理由があった。現実は非情で、彼女に与えられたのは《呪文も使えない書物》と、《レベルが高くならない、なりようもない》という腕前であった。
…………精霊は、それが不満だという。
「―――冗談じゃないっ! 誰がお前みたいな小娘なんかと!」
「ど、どうしてよ!?」
――〝喜劇〟だ。
きっと。その場面を見た誰しも、《熾火の生命樹》の契約で何か手違いが起こったと思うだろう。呆然とする生徒たちも、周囲の慌てて止めに入る教師たちも――その場面だけを見ると、ひどく『滑稽』な物語の始まり方に見えたかもしれない。
こんな、〝始まり〟だった。
……僕は見た。
僕の中の、見えない《意識》がその光景を見ていた。――温かい。とても温かくて、でもどうしようもなく苦しい詰まった冒険の始まりだった。その冒険を見た人物は、誰しも、そんな始まりを喜劇だと思い、先を予想し諦めるだろう。
彼女たちにとって、それが《始まり》だ。
―――冒険の都市で、《冒険者》になる。
または、どこかで《立派な騎士》になっていく。
そのどちらかにならねば、〝お母様〟をいつか迎えに行けない。
メメアはそう覚悟をしていた。いつまでもあんな家に母親をいさせるわけにはいかなかった。
自分が独立し、立派な『家』のようなものを作らなければ―――故郷を出て《一人前》の暮らしを確立せねば、母は一生を『隷属』で終わらせてしまう。…………だから、何でも良かった。《冒険者》でも。一人前になりたかった。
…………それを、《島》でやるしかなかった、のに。
が、そうそう上手くはいかなかった。――それは〝レベル1〟から始まる才能だった。最初から何も書かれていない『本』。才能の開拓されていない空白の『呪文書)』であった。
自分は〝上級冒険者〟になりたい……。
そうは思っていても、現実は〝最弱冒険者〟だった。
――もともと、それは〝剣〟の話だ。
もともと、理解していなかったわけでもない。彼女が故郷の騎士領国で『練習』していても、〝剣〟だけはどうしても扱いきれず、〝乗馬〟など騎士戦士の必須科目はすべて不得手だった。
……むしろ、彼女は『本』に選ばれてしまった。だが、『本』では魔物を倒せない。ずっとその生活が続いた。そして、彼女は思い知る。
〝……自分には、冒険で生き残る才能が無い……〟
ずっと、そうだった。思っていた。
王国の世界と変わらない。
いつまでも、どこも変わらない《価値観》がつきまとってくる冒険譚だった。それは彼女の故郷の〝呪い〟に置き換えても、同じだった。
――〝頂点〟に立つ。
だが、その夢が、今はこんなにも遠く、遠く。手がとどかない。
……終わりが見えない。なりようが、ない。
(……、〝無理〟だよ、こんな世界なんて……)
――《ステータス》なんて……。
メメアは、『本』を抱えて、いつも絶望していた。
いつまでたっても、どこに行っても、彼女の〝呪い〟は変わらない。ついて回る。つまらない世界だ。つまらない大陸につまらない〝構築〟が生まれ、それに縛られて、つまらない人間たちが動いている。
――《ステータス》なんて……。
――《本》なんて……。
何の、役にも立たない。
ずっと、『それ』が、続くと思っていた。
なのに。
なのに。
――それなのに
世界が―――ある時、急に『違う光』を見せ始めたのである。
「―――笑う? どうして?」
あっけらかんと、表情に力を抜いていう《冒険者》がいた。
……その『冒険者』は、『僕らも、〝君〟と一緒なのに』と顔が泥で汚れていても言った。
今度は場面が移り変わる。
場所は―――《王家の森庭》の街道。
森の中でも戦闘が起き、遠くでは地響きと、剣戟の音が聞こえる。
〝他の生徒〟たちが魔物と戦いを繰り広げているからで、いまここは、冒険者たちが争い〝順位〟を競う――〝昇格試験〟の最中だった。
討伐数を競い、他の《生徒》と手柄を争うのである。魔物を〝百〟も討伐していかなければならない。
――そうしないと、次の《ランク昇格(Eランク)》ができない。
だが、滑稽な『本』の冒険者は、それどころじゃなかった。両手を広げ、説明する。
「……ど、どうして……笑わないの? クレイト。
だって、私、『精霊から逃げられて』いるんだよ??? 討伐数も〝ゼロ〟で―――もし精霊と合流しても、《聖剣図書》が使えない―――呪文も使えない、本の冒険者なんだよ!? なのに」
――島で、ずっとそうだったから。
――島で、ずっと役立たずの『本』の主だったから。
メメアは声を大きく、訴えかけていた。ここでぶつけるべきではない、この冒険者に言ったって仕方がない――それは百も承知。なのに。声が、口をついて出ていた。溢れていた。……もう、我慢のできない、心の中の白い意識だった。
……八つ当たり、みたいなものだったかもしれない。
……いつか、誰かの前で、言ってしまいたかったのかもしれない。
それは少女の声を大きくしていた。彼女の『思想』として溢れて、ぐるぐるない交ぜになって、混濁し、もう、わけが分からなくなっていた。
……なんの〝才能〟もないんだよ? と。
……チヤホヤされる価値なんて、〝ゼロ〟なんだよ。と。
誰が比べているわけでもない。だが、〝姉たち〟が浮かんだ。サルヴァスの、他の生徒たちが浮かんだ。《剣》を持っていて、《剣》を振れる才能のある者たち。メメアが言ってしまった脳裏には、こびりついて離れないそんな顔たちがあった。
『それが、下らない今の私なんだ』と。
――だが。
「――すごいじゃないか、メメア」
「え?」
「そんな、独自図書まで持っているなんて。立派な冒険者だ」
――そう言って、冒険者は、メメアを許さなかったのである。
……その冒険者は、笑わない。
メメアの『聖剣図書』を、むしろ『すごい』と言ってくれた。
そんな人は、今までいなかった。
「……!」
「笑うことなんてしないよ、だって、それが、本当にすごいと思うから」
――その冒険者は。
――その冒険者は。
田舎王国から出てきた田舎者、という風貌。
防具は骨董品レベルの安くて最低限の品だし、ステータスは島都市〝最弱〟そして、軽妙な動作のため〝立ち回り〟を気遣った装備。……どこにでもいる。どこにでもいる、普通の冒険者に見えた。〝表〟は。
その彼に、これまた『同じ田舎から出てきました』ばりの太い眉毛、ありふれた精霊がいる。どこにでもいる〝主従〟。そう、初めは見えたのだ。
……だけど、
だけど。
その彼が、言うのである。
他の冒険者と似ていて『村人』のような冒険者でも。その瞳に宿る輝きの強さに、ハッとさせられるのである。
――立派でなくともいい。と。
――どんなに泥臭くともいい。と。
それが、立派な《最低の冒険譚》だと誇れと。
胸をはれば良い。
誇ればいい。
足掻けばいい。
―――貶める者がいるなら、そう、させておけばいい。
誰にも理解できなくてもいい。価値なんてなくてもいい。
ただ自分が分かっていればいい。納得していれば良い。
たとえ落ちこぼれでも、恵まれた王国随一の才能や〝血統〟を持っていなくとも……お金がなくても。泥水の中に沈む、路肩の石の一片にすぎなくとも。それが、自分だとしても!
―――その冒険は!
自分にしかできない、《最強で最高の冒険譚》だから、と。
その言葉が、少女の心へと切り抜ける。
重く、錆びついていた、心の鎖を砕いて散らせた。
――呪いを。
打ち消し、新たな涼風を呼んだ。
その日から、変わった。
今までと違う。〝才能〟を羨んだりしない。初期値なんて見つめない、もっと大きな。押し潰されてしまうほどの、ワクワクとする〝夢〟を見る。いつか、行きたい場所も増えた。驚くほど、行きたい冒険エリアの地図を眺めるようになった。
自分の気持ちを言えるようになった。
好きか、嫌いか。
――大好きだと、言えるようになった。
―――だから。
――だから、
思ったのだ。
自分だけは、どんなことがあっても、最後まで、『彼』の味方でいようと。
たとえ志を違える冒険者の道にあっても、利害がどうとかとは遠い場所で『一緒に最後まで冒険する』仲であろうと。
仲間でいようと。
鉄壁の盾になろうと。
ある時は、雨降る空のように呪文で槍を振らせようと。
『本』なら―――何でも、できる。
自在に形を変え、どんな形にも変われる。『剣』にも『盾』にも。 自在に変幻することができ、〝形の定まらない聖剣〟だからこそ、本の知識は、呪文は、そこにある。
褒めてくれた、『この図書』なら。
―――〝レベル1〟から上がらない冒険者を、守れる。
それから始まる、《剣島都市》最低の冒険譚と、滑稽な冒険譚の『本』が出会ってしまったから。
……。だから。




