47『森』
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探しても、探しても、その少女の姿はなかった。
僕は焦っていた。鼓動が大きくなる。
……嫌な気配だった。
森の深く……僕らが別れてきた森には嫌な暗闇だけが広がっていた。もう時刻は、夜明けを迎えようとしている。もうじき晴れてもいいのに、空は濃い黒に包まれて開けようとしない。
僕らは、走る。
ミスズも一緒に、冒険者のブーツで森の土と草を踏みしめた。…………魔物は出ない。あれだけの騒ぎがあった後だ。《骸骨剣士》が出没した後の森や平原は、下級の魔物が退散した後の世界になっていた。
本来なら迷宮の奥部にいるはずの《骸骨剣士》たちが出現したのだ。それだけでも異常だった。上位の〝レベル〟の魔物の気配に当てられて、弱い魔物はいなくなっていた。
森にはつかの間の静寂が包んでいて、それが僕には不気味に思えるのだった。
……まるで、大きな魔物が、遠くで暗い目を向けているような。
その中を、歩く。
歩く。……歩く。
《燭台灯》の光が森を染めた。それ以上は視界が開けなかった。走ることができない。〝不意打ち〟の危険があったからだ。
森の土を踏みしめるブーツが、やがて傾斜にさしかかっていた。奥に丘があるらしい。僕は思い出していた。もともと、僕らが《迷宮遺跡》から抜けてきた道は、普通の人間が踏み入れないような断崖絶壁ばかりだったのだ。
険しい森の中だった。一直線に里に向かうためには、必要なことだった。《迷宮遺跡》の方面に進めば進むほど――。いや、戻れば戻るほどに、僕らの足にこびりつく土は山の傾斜を帯びていくのであった。
やがて、戦いの形跡が見えてくる。
「…………! ま、ますたー」
「………。ああ」
見る。
森には静寂の他に、〝黒いトゲ〟が突き刺さっていた。
ものすごい数だった。……なんだ、とかがみ込んで触れてみると、それは黒い結晶石のような『硬質なトゲ』であった。少し触れただけで、指先にチクリとしたトゲの感覚が返ってくる。
……これは、一体。
少なくともメメアの呪文ではない。このような禍々しい、攻撃的なトゲなんて……あの少女の信じる《熾火の生命樹》の恵みの、分け与えられた『聖剣図書』にはなかったはずだ。そして、そのトゲは魔物の足跡のように、森の奥の丘に向かって続いている。
……進んだ。
僕は手がかりを探るように、何かにすがるように……。森の奥へと足を向ける。黒いトゲを抜けた。それは木々を傷つけ、また、地面に深く突き刺さっていた。同じく、冒険者の呪文らしき爆炎の形跡も見えてくる。
明けの空の青さが、そんな僕の後ろを染める。
夜明けが近い。……森の景色が開けていた。僕は視線を上げた。目の前に見えてきたのは一本の巨大樹が生い茂る『丘』であり、黒い結晶は、そんななだらかな丘に向かって転々と刺さりながら続いていた。
そして、
「――! ま、マスター!」
ミスズが、凍った声を上げる。
僕らは、―――発見する。
森の奥の丘。不意に景色が開けた、見通しのいい……その中で、巨大な魔力が停滞し渦巻いているのが見えた。
見たこともない光景だった。
魔力は―――、膜の形をしていた。
泡で包まれるように、薄紫の色の……巨大な水の〝ヴェール〟が存在していた。僕は見上げる。『丘』の中央には――まるで原初の島に生い茂るように、一本の巨大樹が見えた。
その樹に、一人の少女がもたれかかっている。
まるで……《熾火の生命樹》にすがりつくように。そんな一際大きな樹にもたれかかり、一人の少女が《聖剣図書》を手にして倒れていた。僕が冷静に確認したのはそこまでだった。
プツンと、何かが切れたように走っていた。
駆け抜けていた。
聖剣――『結合』の力を行使して、地面を蹴り、聖剣を引き抜く。加速の力を得た。
「……ミスズ」
『は、はい。人影は……ありません』
―――あの女は。
見回す。いない。僕は一息に飛んで〝レベル1〟のまま―――その最大ステータスを使って、地面を駆け抜け、丘の上へと到達した。
見たこともない魔力の〝ヴェール〟が少女を包んでいた。透明で紫の防護膜の周囲に、執拗なほど黒いトゲが刺さり回っていた。……残忍で、殺意しか感じさせない、そんな攻撃だった。
僕は黒い針山を―――聖剣の黄金の風で吹き飛ばす。
結晶が砕け散った。何度も砕いた。聖剣の光とともに踏み込み、やがてふわりと温かな風の包む……『少女』のもとへと至った。
―――『主従』は、倒れていた。
メメアも、そして、『結合』を行使したらしい精霊の姿も聖剣図書の中にあったまま消えていた。……〝消えていた〟、としか言いようがない。今でも消えそうな灯火のような輝きは、とても聖剣を強化する〝黄金の風の輝き〟とはいえなかった。
書の中にいる精霊が、すでに『息も絶え絶え』なことを示していた。
精霊は最後の力をふりしぼって、意識を失いながらも『契約の光』を行使し続けているのだ。その輝きが聖剣図書に魔力を供給し、そして――か細いながらも、呪文らしき〝紫色のヴェ-ル〟に一筋の光を供給していた。
それだけだ。
僕が到達して、呼びかけても、本来なら真面目な声を返してくれるはずの精霊の『声』が聞こえてこない。胸騒ぎがした。やがて、周囲の〝邪悪なトゲ〟を一掃した僕の前に、少女の反応が返ってくる。
「…………クレイト……?」
「……っ、メメア!」
呼ぶと、魔力のヴェールが吹き飛んだ。
……それは、もはや『聖剣の力』などとはいえない。
夜明けの青い空に、魔力の防護膜は泡でも消えるように空へと散っていった。力が限界を迎えていた。―――もう、すでに持ちこたえられる許容量を超えているのだ。
『黒いトゲ』の攻撃を防いでいたらしい防護膜は、そこで吹き飛んで『呪文』を失った。
鍛冶屋の鉄が熱を失うように、聖剣図書から光が失せて『精霊』の姿が現われた。ボロボロに傷つくように、クマの精霊の意識は途絶えていた。
「メメア。……メメア!」
「……う」
抱え上げた。起こした。
触れると……こんなに、と思えるほど体は軽かった。……この少女は。普段は《剣島都市》の街中で風を切って歩き、両手を腰に当てて僕らを見ていた。……存在が、大きな気がしていた。でも、今は違う。こんなにも脆くて、こんなにも小さい。
薄く、瞳を開いていた。
その身体は、燃え上がるほどに熱かった。……なんて熱だ、と目を見開いた。触れれば壊れてしまいそうな体に、竜の火炎のような熱量が宿っている。
「……クレイト」
「しっかり、しろ。メメア。何があった」
「…………ちょっと、失敗しちゃった」
その言葉を、口にする。
微笑むように、自分の失敗を恥ずかしそうにするように苦笑を作った。瞳は清らかな水のように僕を見つめていたが―――その表情は、苦痛に覆われて、うまく笑えていなかった。
心臓が引き絞られるような、嫌な息苦しさを感じる。
メメアを抱え起こしていた僕は、妙な違和感を覚える。メメアの袖口だった。目を向ける。左の袖口をめくり上げると、そこは濡れて……赤黒い液体が溢れていた。皮膚が、斬りつけられていた。
皮膚が傷つき、化膿し。……そして、腕が。左腕が、黒く染まっていた。熱はそこから発生していた。発生源が、最も熱かった。
薄い胸板が、呼吸の乱れとともに上下していた。……明らかに異常な呼吸音が聞こえる。メメアは照れたように『魔力を、使い過ぎちゃったみたい』と僕の目を見つめる。片目を閉じた。
「…………ウソ、つけ。明らかに、こんなの正常じゃない。メメア、お前!」
「ちょっとね、心配だったの。だから、時間稼ぎをしようって」
メメアのこぼれ落ちた『聖剣図書』から、ページが開く。
《剣島都市》の言語―――他のどの王国とも共有言語にして、古い精霊や、始まりの契約をした始祖冒険者たちが使っていたという『古代言語』の文字が見える。
白いページには文字が浮かんでおり、『Lv.1 雷炎の閃光』から始まり、『Lv.2 水王の槍』などの彼女が冒険生活で得てきた、武器――。
僕のような冒険者にとって『剣の構え』『クロイチェフの構え』に等しい、その攻撃の型が浮かんでいるのだった。泳ぐように揺れていた文字は、今は鉄が冷えたように黒ずんで固まっている。そして、その最後尾―――僕の見たこともない、彼女が隠していた文字が、そこに古代言語で浮かんでいた。
《剣島都市》の冒険者なら――不思議と、その言語は読むことができる。《熾火の生命樹》と心を通わせた〝温もり〟を受けた冒険者は、その加護に包まれるのだ。
――――Lv.3 《神樹図書館の王壁》
「…………っ!」
「……ふふ、隠しておきたかったんだけど。……ばれちゃった」
そのページの中身を見て、僕は両目を見開く。
……違う。
……いいや、違うだろう! そんなの!
僕は思った。違う。今の彼女に言って欲しいのは、そんな事じゃない。糾弾しないのか。僕を罵ってもいい。罵倒していい。明らかに、今までと種類の違う呪文で、彼女を戦わせたのだ。
彼女がずっと、ずっと――。《剣島都市》の外の冒険エリアで冒険をして、そして培ってきたステータスの一部。……それを、無残にも、僕が散らせてしまったのだ。使わせたのだ。……見捨てることで!
僕がいうと、メメアは苦笑して、
「………実は、ちょっとだけ心配していたの。クレイトが、里で倒されるんじゃないかって。……クレイト、真面目で。ちょっと鈍くさいから。
あわてんぼうさんで、人が良くって、それで………少しだけ、ドジだから。本当に主従そっくり。だから、時間を多めに稼いで……守ってあげなくちゃって。あなたの冒険を支えなくちゃって。でも、あなたなら里を救うって信じてたから」
「……メメア」
「わたしは耐えたわよ。……クレイト。お互い、上出来よね」
穏やかな少女は、瞳を閉じ、風に歌うように口ずさんだ。
唇を動かした。……『ちょっと眠りたいかも』と。僕の息が止まりそうだった。……やめろ。そんなのやめろ。叫んだ。心臓が変に騒いだ。
だが、僕の表情を杞憂のように笑って、少女は人差し指を突き出した。僕の額を弾いた。
「……死なないわよ。ばかね」
「……っ」
「ずっと、信じてたんだから。……ずっと、信じているんだから。あなたとなら一緒に《上級冒険者》を目指せる。
だから頑張ってきたんじゃない。だから、やってきたんじゃない。《剣島都市》であの冒険の後、強くなろうと練習してきた。
……強くなる為には、理由がいる。
……理由がなくちゃ、強くなんかなれない。
それを教えてくれたのは……あの時の冒険。昇格試験のときの騒ぎで、『女王蜘蛛』に立ち向かった、あなたの横顔じゃない」
「……!」
僕の額を弾いていた小さな冒険者が、微笑む。
それは、温かく、穏やかな風のようだった。
「……それまで、死なないわ。意地でも。ね。これくらいの苦境じゃ、私の冒険はまだまだ終わらない。まだまだ、バテない。わたしはもっとやりたいことがある。故郷のお母様を助けたいし。……行きたい場所と冒険も、山ほどあるし」
「…………メメア」
「………やっときた、救援。…………間に合うって、信じてたんだから」
僕の手を握りしめた小さな手から、力が抜ける。
それが最後の気力だったのかもしれない。冒険の意志が途絶えるように、静かな寝息を立てた。
魔力が途切れて。メメアは眠るように目を閉じた。僕は驚き、目を見開くが――それがいつもの街中――《剣島都市》で彼女が見せていた、安らかな顔の眠りだと気づく。そんな軽い体を僕は抱きとめて、僕は奥歯を噛みしめる。
小さな呼吸が繰り返されていた。……僕は、目を瞑って動けなくなった。なんで。どうして―――。こんな。
ミスズは、同じように小さな精霊のクマを抱え起こしていた。二人で周囲を見渡していた。戦場は、少女の爆炎と、そして黒く冷徹な結晶によって――周囲の木々がなぎ払われていた。
……僕らは。振り返る。
夜の襲撃を経験した里から、日が差し昇り。
《クルハ・ブル》の、夜が明けるのだった。




