10 新しい朝の寮生活
その翌日の朝から、僕は生まれ変わったように働いていた。
ちゃんと早起きもした。
寮の床を圧倒的な力によって片っ端から拭いて周り、すぐに窓ふきに移った。実はこの『朝の清掃』というのは、寮に住まう200名の学生たちの義務となっていた。上級生、下級生と問わず、自分の部屋と目の前の廊下を清潔にする『義務』があり、だから朝の時間帯には掃除している姿が恒例となる。
………ただ。
それでも。やはりズルかったり、面倒くさいと思ってしまう生徒もいるようで。ルーズな部屋主は『廊下』に姿も見せなかったし。もっと悪い生徒になると、自分の精霊――『剣の御子』を下僕扱いにして、この部屋の前の掃除をさせていた。
驚くべき事に。
《剣島都市》の上級生のうち、約半数以上が『御子に掃除させている』という事実がある。彼らのほとんどは《王国の侯爵家》《貴族階級》《金持ち》たちの出身者で、コネを使って学院に入ってきたり、剣士になるように流れてきている以上、働きたがらない人間が多いのも仕方がないことだった。
「こんにちは。クレイトさん」
「偉いですね。掃除をするマスターなんて。うちのマスターもこれくらい働いてくれたらなあ……」
「今日は、なんでそんなに勇んでいるんですか?」
と。廊下を猛然と掃除していると。
背中に羽根が生えている妖精の姿だったり、耳が尖っていたり。そんな彼女たちに声を掛けられる。彼女たちが《剣の御子》である。
ミスズと一緒の精霊たちなので、掃除の手を止めて話し込みたいところだが。今はそんな余裕もない。挨拶もそこそこに、僕は布巾を持って駆け回る。
いつも掃除をしなかったわけではない。
僕は前から箒を持って廊下に出ていたし、最低限のことはやるようにしていた。ただ、それでも前は気合いが入っていなかったし、『なんで僕が』なんて思いがあったのも事実だ。心のどこかで、ふて腐れていたのかもしれない。
そんな態度を見て取ったのか、精霊の御子たちの僕を見る目は変わっていた。
「ミスズちゃんも、学生寮の掃除をしていましたよね。さっき」
「そうだね。一緒に働くって、向こうも気合いが入っているみたいで」
そう。僕たちは真剣だった。
真剣に、生まれ変わったように働いていた。
細かい心境の変化は口にはしなかったが。それでも気合いだけは伝わったようで、『頑張ってくださーい!』と精霊さんたちに応援の言葉をいただいていた。元気のお裾分けだ。
やがて。一刻半もしないうちに、その嵐のような掃除活動が終わった。
***
修行の時間になると、寮母さんはまだ太陽が昇りきっていない中庭に現われた。
いつもと同じ服装だったが、雰囲気が少し違う。広場の中央で腕を組み、仁王立ちして僕を見つめた。
「偉い偉い、ちゃんときたんだね」
「……そりゃ」
僕は思う。…………あれだけ、滅茶苦茶に罵倒されたら。普通は来るだろう。やる気が出るように発破掛けたのも寮母さんだし、ぐぅの音も出ないほど罵倒したのも、この寮母さんではないか。
僕がそう言うと、
「うんっ。ようやく、らしくなって来たね。いつもの小憎たらしい、アンタの目の戻ってきたよ」
「………褒めてるんですか、けなしているんですか」
「褒めてるのよ。女の子の褒め言葉は、素直に受け取っとかなくちゃ人生の損だよ。アンタが寮にきた最初の時から、その目に宿る尋常じゃない何かを感じていたのよね。見所がある気がしてね」
「そ、そうですか?」
「うんっ。『ああ、コイツはきっと将来大物になる。なって私の生活の面倒を見てくれるんだろうなー』とか。『浴びるほど酒を買ってくれないかなー』ってね」
「い、嫌すぎるわ!! なんで酒漬けのアンタに合わせて未来計画しなきゃならんのだ!? ってか、そろそろ亭主を見つけてください! 生徒のヒモになるな!!」
真面目に働けよ、コツコツと!
僕はそんな顔で寮母さんに抗議すると、目の前の人は愉快そうに腰に手を当てた。
「あっっはっは――! この才色兼備優良物件の寮母さんと結婚するためには、マジモンの英雄にして大金持ちじゃないとダメなのでーす。一生、私が酒樽を飲み潰しても回るだけの経済力がないとね」
「燃費、悪すぎだろ!?」
と、僕が叫んでいると。寮母さんが、その手に握った『薪』を放ってきた。
……? なんだろ。
やや細身の木の破片。片方には木の皮がついていて、長さはおよそ肘から腕にかけての大きさ。
僕の足下で、それはコトリと落ちた。裏庭は正面玄関とは違って、あまり使われることがないため草の丈が長い。
「……なんですか、これ?」
「持ちなさい」
「え」
「…………油断してんじゃないっ。ったく。いつも声かけられる気さくな仲。私とアンタはそんな関係だ。――いや、故に、だからこそ」
スッと。寮母さんが構える。
体の縦軸に合わせて、その『剣』に見立てた薪を縦に。体を庇うように。ただそれだけの―――『王国剣士の構え』と呼ばれるありふれた型なのに。
―――なぜか、その構えからは寒気がした。
「―――手加減は、しないよ」
ゴッと、風圧がきた。
直後だった。寮母さんの佇んでいた姿が歪み、まるで蜃気楼のように残像がぶれる。見失った、と思ったら、いきなり正面から一撃が来た。
いきなり、全身全霊で打ち掛かってきた。
(…………な、なんだこれ―――ッッ!?)
速い。速すぎる。
僕は思わず、剣を前に突き出した。
平原で鍛えた洞察で、辛うじてその動きを見て取れる。《敏捷11》のステータスが機能していた。
先日の魔物『ワドナ・ウルフ』の二倍、いや―――三倍もの行動速度。加速する薪の剣に、僕は驚いて剣を構えると、その剣ごと体勢を下に崩された。
手にしびれが走り、思わず取り落としそうになる。
庭には黒い旋風が吹き抜け、寮母さんは反対側に立っていた。
「…………っ、」
「…………まァ、最初のこれは挨拶代わり。動きに慣れてもらうための、準備運動かな。私の稽古は『甘え』なんて一切なしよ。素振り100回、避ける特訓、―――なーんてヌル~い訓練はよそでやること。行うべきは、実戦よ。ドロドロの血みどろの実戦の中にあって、初めて磨かれる『経験』は生まれるの」
と。寮母さんは、スッと目を細めた。
オオカミが獲物を狙う目つき。いつもとは違う貌に僕は戦慄し、慌てて剣(に見立てた薪)を構え直すのであった。
暗い裏庭に、冷たい気迫が満ちていく。僕は目の前にいるのが、格上の剣士だということを悟った。
静かな時間が訪れる。
―――冷たい一瞬が支配する。
今度は、腕を前で交差させ。下段より切り上げる形を取った。……なんだ? 僕は寮母さんの構えが見慣れなかった。『王国剣士の構え』――じゃないな、ちょっと工夫を加えている。
あれは、『三日月の構え』――か? 冒険者が、大きな魔物を相手にするための。
「―――最初の〝ハンデ〟として、アンタは『聖剣』でいい。って思っていたけど。よくよく考えてみると、最初は動きになれるまで、リーチの短い『薪』がピッタリなのよね。それに『御子』もいないんだし。
………だから、わたしが教えるのは根本的にして、〝原初の動き〟 。魔物を前にして、『剣士』がどう立ち回るのか。剣技のみ」
だけど。それだけに――。
僕のアゴからの汗が、地面に滴った。その一瞬のうちに、僕は重大な事実を悟るのであった。
――――強いッッ!!
「行くよ」
舞踏のように、寮母さんの足が動いた。
踏み込み。飛来。また爆発的に空気が動き、中庭の地面を蹴って寮母さんが向かってくるのだ。
僕は転がって。〝初撃〟を回避した。今度こそ油断せず、一撃目を受けないよう転がって剣を構える。上に構えた。しかし、寮母さんは一切の動きも乱さずに、次の一撃を放ってきた。
上から下に、被さるように肘が振り下ろされる。
「………ぐっ!!!」
―――速い!
次の連撃に入るまでが、尋常ではなく速かった。
上から下への雷のように、体を突き抜けるような衝撃が走る。
「ぐああっっ」
「ほら、フラフラしないで、次の一撃を受けなさい」
やっとで受け止めた僕の『薪の剣』―――そこから腕を通して、体の芯に向かって正面からの痺れが突き抜ける。足が地面にめり込んだ。ふらつく。こんなもん、初心者に撃っていい『一撃』なんかではない。滅茶苦茶だ。
いつの間にか『三日月の構え』のまま、剣を掬い上げた寮母さんの剣風に流されて、僕は上空を舞っていた。剣の上級者同士が戦うと、ときどき空中に持ち上げられるのを目にするが、こういうことなのか。
やっとで受け身をとった僕に、寮母さんはいつの間にか上段構えの型―――『太陽の光の構え』に変化して、それから踏み込んでいた。剣だったら火花が散っていたことだろう。受け止めた僕の前で、
「よく受けたねー。洗礼に喰らってもらおうと思ってやったんだけど。……あ、そっか。アンタの《ステータス》って、確か敏捷が少し高かったもんね?」
そりゃあ反応速度が〝鋭い〟わけだ、と。
寮母さんは、納得。妙に感心した顔で頷いている。納得したからこそ、動きに幅が出る。今度は僕にわざと『構え』を取らせて、防御したところで、その隙に違う角度から打ち込んでくる。
「―――ちなみに、教えとくと。わたしの本来の攻撃速度は、この三倍よ」
「………。げっ」
ギョッと。凍りついた僕に、連続攻撃が襲いかかる。
今度は――早い!! あまりにも速かった。音に亀裂が走るほど速い攻撃が襲ってきて、僕が防御すると、次々と足を踏み出しながら体の重心を向けてくる。そして『薪の剣』の動きを変え、上段構え、下段構え、それぞれ変化させながら、コマを回すように高速回転して襲いかかってくる。
一撃、二撃目はなんとか受け止め切れた。
だが、三撃目―――いつの間にか、僕の防御姿勢の下に潜り込んで、低空から上に向けて放たれた『一閃』だけは防ぎきれなかった。『ぐっ……』と顔に脂汗を浮かべ、腹に痛烈な一撃をもらった僕が膝を曲げそうになると、それを許さず寮母さんの追撃がきた。車輪のごとく膝を動かして、頭を殴りつけるように僕を蹴ってきたのだ。
なすすべがない。僕は中庭を吹っ飛んで、積み上がった薪の束を崩しながら地面に転がった。血がしたたり落ちた。
(……ぐっ、隙がない………ッ)
ボロボロの顔で起き上がった。
《冒険者》ということで、多少は契約の《ステータス》の恩恵を受けて丈夫になっている。だが、それでも〝レベル1〟だ。民間人とほぼ変らない。痛いもんは痛いし、ダメージを直に受けてしまう。
寮母さんはただ、立っている。涼しい顔で。なんであんなに自然体で風に髪を流しているのに、一切の隙がないんだ……?
僕は打ち込みたかった。
反撃に打ち込んでやりたかった。だが、寮母さんの自然な立ち姿がそれを許さない。寮母さんは、『さあ、いらっしゃい』とばかりに手を広げた。どうやら、打ち掛かってこい、という意思表示らしい。
そうだ。僕は思い出した。―――これは『修行』なんだ。ここで倒れ込んで、諦めて、何のために今日を迎えたんだ。
(……ダメでも、打ち掛かってやる……!)
僕は構え直すと、一歩踏み出した。強者へと挑む戦い。今までの魔物相手にはない、極度の緊張状態。心臓がバクバクと動いたし、息をうまく吸い込めなかった。
裏庭の雑草に絡みつかないよう足をかかげて、前進。草原を駆け抜ける魔物ウルフのように疾風となり、「やああああああああああ――――っ!!」と上段構えから切り下げた。寮母さんは後ろに少しずれただけで、回避する。やはり速すぎる。
「それだけ?」
「まだ―――、まだっ!!」
同時に、僕は薪を地面に突き立て。体勢を低くして、右足蹴りを放った。
不意打ちだ。他の冒険者の学徒たちと比べて《非力》な僕は、この運動法も考案していた。《剣の技》だけでなく、足技をも使う。田舎村で鍛えた強靱な足のバネを使った―――いわば、『田舎流ケンカ剣術』ともいえる技だった。
寮母さんもちょっと驚いたようで、思わず薪でガードしながら衝撃を緩和し、『ヒュウ、やるう』と口笛を吹いた。不意打ちだったから〝ガード〟を使わせたのだ。意外さを楽しそうにしたが。
直後。
その防御した薪をねじり、たてに回転して『一撃』を加えてきた。僕の利き足に激痛が走る。
「………っぐ!」
「秘策、ってのはねー。無闇やたらに使うものじゃないよ? クレイト。それこそ、酒場の暴漢と変わらないレベルよ。泣き虫から『喧嘩屋』だと大した昇格だけど、一流の剣士で英雄になってもらうんだから、そんなみみっちい振る舞いはして欲しくないな。一流の剣さばきを身につけてもらわないと」
直後に、猛反撃がきた。
薪が風を切って押し寄せてくる。
(な、なんだこれ…………!?)
僕は初めての光景に、目を瞠った。
『未知の構え』―――計測不能。剣を左の腕に乗せて、傾けただけなのに、まるで〝影分身〟でもしたように、三つに分かれて押し寄せてきた。
速い。そのすべてに『攻撃』の波があった。
まず、僕の胴体の急所を突いてきた。一撃目、肩と胸の付け根の辺り。二撃目、臀部の上の方。三撃目、脇腹の中間――――。僕が防ごうと思っても、すり抜けるように何撃も入り込んでくる。
「―――面白い動きだったから評価したいけど、熟練度が足りない『技』なんてそもそも減点よ。クレイト。次から、もっと鍛えるから」
「……!!!」
内臓が圧迫されて、一瞬息ができなくなった。
トドメがきた。まず鳩尾に剣の攻撃がきて、重力に引きずられるように僕は前のめりに倒れる。「ごっ、がっは……っ!!」と膝から崩れて、激しく咽せた。
優れた剣士は、相手の動きをも拘束する。僕は自分の体を制御したかったが、肺の『空気』を失い、体の本能的な器官が『空気』を求めて、酸素をむさぼっていた。隙だらけだ。手に裏庭の草の汁が滲んできた。
「―――そして、授業の続き。足技の欠点はね、反撃を受けると『移動手段』を失うところにあるんだよ。仮にも〝冒険者〟たちは、《剣島都市》の外の森で魔物を相手にするんだから、よほど練った動きじゃないと反撃を受けちゃう。なかなか致命傷も与えられないし。生半可な攻撃じゃ、逆に自分の足を食い千切られて、胴体もがら空きになるわ。今みたいに」
「………ぐっ」
「『聖剣』と、『体術』。上手く組み合わせた動きができると理想なんだろうけどねぇ。こりゃ、徹底的な指導が必要だわ」
僕は思う。
………なんで、こんなにも違うんだ。
いつも酒を飲んでいる寮母さんの動きではなかった。なぜ。どうして。この人は何者なんだ。
僕はたっぷりと時間を使い切って〝修行〟をし、何度も起き上がってはボコボコに蹴散らされた。その間、三ノ刻(三時間)。飛んでは撃たれ、這いつくばっては、打撲が押し寄せ。
すでに、冒険を二回終えて失敗して帰ってきたときのように、僕の体力と精神状態が削られてしまっていた。最後は、ついに、陸に打ち上がった魚のように、『ヒューヒュー』と呼吸をするだけの状態になった。
「はい。終了―」と。のんびりとした声が響くときには、僕はもう半分意識が死んでしまっていた。再起不能の体だ。
…………これで、初日だ。
どれだけ過酷さが続くんだろう……と。これからの特訓を思い、僕は戦慄を覚えていた。寮母さんは、『じゃあ、酒代をよろしくね』といつもの調子に戻りながら、僕の前を去って行った。
これで、酒代の要求が容赦なく来る。
…………なんだか、欺された気分がしながら。
僕は意識を失った。




