44 上位精霊~ポコ
上位の精霊が、僕の目の前には浮かんでいた。
白いシルエットに、銀色の雪のような毛並み。その口元に浮かぶは〝冷笑〟であり、赤い瞳には残酷なほどの実力を見る感情が宿っていた。
精霊は全てを『下』に見るように里中の光景や獣人傭兵団すらをも眺めている。
「…………な。」
『………な。』
一言目は僕、そして二言目は剣の中のミスズである。
…………なんだ、こいつは。
精霊を。比較などしたことがなかったが、この精霊だけは特別だと分かった。姿形は銀色の猫、そしてふざけているような表情をしていたが―――そこから肌を打つ『魔力』の埋蔵量というものは、僕の聖剣から立ち上るほのかな〝金の輝き〟を揺るがせるものだった。
大風を前に、ロウソクの火が歪み、流されるような――あの現象だ。
猫は僕を見ている。
……だが、その姿ははっきり言って、僕が『目に触れていいもの』なのかどうか分からなかった。生半可な駆け出し冒険者ならば、怯んでしまいそうな風格がそこに存在している。
「―――ちっ。何しに出てきやがった、ポコ」
「ご挨拶だよ。せ~~~っかくの、冒険者のお客さんだ。《幸獣》と旅をしていると、めったなことじゃ冒険者と会話すらできないからね。月夜の栄える夜、いーい心地じゃぁないか」
それを。
その主従関係を、〝僕〟は見た。
対等だった。……いや、互角に、その関係性を削り合っている。といっていいのかもしれない。お互いがお互いを『ライバル視』して、その気配を伺っている―――そんな気がした。
精霊は、冒険者の言うタイミングで『外の冒険エリア』に顕現しないのかもしれない。
どこまでも気まぐれに、その銀猫は浮遊している。
月を背景に、その《熾火の生命樹》の契約の力である――莫大な〝黄金の風〟を巻き起こしながら。
「――『ご主人』の言うことにも、一理ある。冒険者。
お前さんたちは、遺跡を攻略できず、この里の燃え上がるピンチを救えず、帰ってきただけだ。それは冒険者としてとても恥ずべきこと。…………《レベルアップ》を重ねてきた冒険者が、それでは埒があかないさね」
「…………!」
「《熾火の生命樹》の恩恵を、何のために授かった。何のために我ら『精霊』がお前たちを助けていると思っている?
―――決して、無償の、見返りのない『労力』だとは言わないで欲しいねえ。わたし様たちは、お前たちに期待しているのさ。だから毎回力をふりしぼるし、お前たちのような『平民』を助けるために力を与える」
その猫は、意地悪そうに目を細めた。
人間の姿ではないのに、誰よりも人間味の溢れる『表情』を作っているのが、逆に不気味ですらあった。
…………何に近いのか。
……そう、この猫は……『魔物』に近いのである。
僕が一歩下がると、銀猫は闊達に笑った。
「冒険が全て無償のものではないと。いつか、失敗が続いていると、精霊ですら愛想を尽かすと―――あたし様はそう思うんだけどねぇ。レベル1?」
「……っ、」
「冒険者とは本来、『ユグドラシルの使命』を――達成する生き物だからねえ」
精霊の猫は、それを言った。
僕には分からない言葉だった。毛繕いするような気楽さで、『――赤髪のロイスが居た昔から、古の契約に縛られているのさ』と舌で転がすように口にした。
「哀しい生き物だよ。―――何年も、何百年も。冒険を繰り返している。
目的は一流の冒険者になるため。――赤髪のロイスに迫るため。だが、現代はその伝承も薄れて、冒険の担い手たちが《熾火の生命樹》の恵みを貪るようになってきた。………たかだか、冒険の道具。のくせにねえ」
「……!」
「あたし様はまだ存在の小さい精霊の赤子だったけど―――その昔。《熾火の生命樹》の周辺には無数の精霊たちが居て、誰もが人間を嫌っていたという。
……いや、下に見たというのか。それが正しい。なにせ、上位の力を操る精霊にとって、何もできない人間など下卑するに足る存在だったからねえ。……だから、誰も『赤髪』の訴えを聞き入れようとしなかった。王国中の〝悲しみ〟を救うなんて、ムチャな欲望は無視していたんだけどねえ。たったひとり、風変わりな精霊がいたんだよ」
「……?」
「物好きの精霊さ。人間に興味を持っちまった。…………そこで、《冒険》が始まった。《剣島都市》も始まった。たった一人、青髪の精霊の好奇心によって世界は変わった」
それを。
その精霊の猫は、遠い目をして語るのである。
…………この鉄の里の黒煙。
その『王国の戦争時代』のような風景に、遠い過去を投映でもするように。
「…………お前に、できるのかえ?」
「……なんだと」
「《剣島都市》の象牙の塔を上るのは、並大抵の苦労じゃない。先ほども言ったように、〝赤髪の坊や〟が《剣島都市》を立ちあげた。…………その理由は、〝広く、この世界を全て守れる英雄になりたい〟という並外れた強欲ともいえる願いからだ。
……それは、並大抵の欲望じゃあない。
……それは、並大抵の願望でもない。
人並み外れて全てを『守護』しようとするなんて、人並み外れて破壊することよりもはるかに難しい業だ。
…………それが、できるのか?
…………それに、果たして耐えられるのかねえ。
少なくともランク『S』に居る馬鹿どもは、それを真面目に、本気でできると思ってしまっている。実現可能だとね。…………この子もそうさ。《冒険者》というのは、《剣島都市》の上層階を目指す時点で、皆同じようなもの。
だが、人並み外れた強大な《魔物》だって襲い来る。人間が集まっても手に負えないような、危険な魔物がねえ。『上級冒険者』がいくら集まっても、蹴散らされるような魔獣。……だが、それでも、本気でそれらを全て倒そうと夢想するのかね?」
「…………」
「―――本気で、〝レベルアップ〟しようと。思えるのかね」
それを。
精霊は言った。白い体をくねらせて。のぞき込むように、人間以上に人間らしい、趣味の悪い試す顔で。
だから、僕は拳を握りしめた。
…………全部を守る。そんな大層なことは。夢想できなかった。
現時点での僕の感情だ。僕はちっぽけな冒険者だった。……何らかのはずみで、人よりも、他の冒険者よりも強くステータスが上昇することはある。……だが、逆にいうとそれだけだ。
対それた野望も欲望もない。上級冒険者たちが冒険に書ける深い情念もなければ、追い込まれて、何が何でも達成しなければならない、という深い執念もない。冒険に背景がないのは、僕は人並み以上なのかもしれない。
―――黄金の塔の上。『上級冒険者』を目指す。
それは、銀の猫が僕に与えた〝ワード〟だった。
里での失敗の中に、何を見出すのか。そこから地べたを這いずってでも駆け上がる『欲望』や『情念』がなければ、冒険者はさらに次の階層へと到達できない。
……人を守りたい。そう思うのも、欲望なのかもしれない。
小さな欲望。いつか、それが集積して、大きな欲望へと塗り変わっていく。それが《剣島都市》で上級冒険者を目指す道であり、魔物を欲望で倒し、さらに強くなろうとする。
―――その果てに、黄金の。ランク、Sがある。
…………全てが、欲望。
だったら、それを否定せずに、受け入れるのが冒険者の道なのか。
だが、
「…………それに、『精霊』を巻き込むつもりかね」
「……え?」
銀猫は、不意打ちのように突いた。
僕の心の、まったく想定していなかった、別の部分だった。予想外の響きだった。猫はさらに趣向の悪い酒でも勧めるように僕の顔をのぞき込み、
「―――誰しもが。思う。願う。
……だが、その夢に精霊をも巻き込むつもりなのかね。知ってのとおり、精霊は冒険者の《所有物》ではない。心の通わぬ鉄や、道具などとは違い、お前さんの冒険を別の『心』で考える存在さ。
……だが、その精霊を巻き込むつもりかね。
……いつ、叶うとも、力尽きて途中で果てるとも分からない『冒険』に、その子を付き合わせるつもりなのかね。
お前さんも知ってのとおり、精霊はお前の所有物じゃない。
《剣島都市》には実に色々な。数の多い人間と同じくらい比例して精霊が住まっている。…………それぞれの価値観、思想を持つ。そんな精霊をお前さんは、自分勝手な『冒険』に巻き込むつもりかね? 欲望をぶちまけられるのかね」
「……っ」
「お前さんは。それでも、精霊を戦わせるつもりかね」
その覚悟を、銀の猫は問いかけてきた。
赤い瞳が熱を帯びている。……目がはなせない。会話に溺れてしまいそうになる。息が苦しくなる。
自己満足な、自己肥大。
《冒険》をそう言われている気がした。……いや、実際に、精霊目線からだと冒険者の冒険なんて、そう見えてしまうのかもしれない。僕には否定できなかった。究極、冒険者の夢というのは、どこまでいっても《自分が昇格したい》《上り詰めたい》という内容である。
……精霊には、違って見えるかもしれない。
だが、
「それも承知で――『野望』を自覚しているマスターもいるさ。
そんなマスターは立派だ。弱者を切り捨て、目的のために進むべき覚悟が備わっている。精霊には『巻き込むこと』を厭わない。約束という契約をし、そして使命を果たそうとうする。――欲望にも忠実さ。
だが、そんなお前さんは、どうだい。《レベルアップ》したい。《上級冒険者》になりたい――。欲望に、全てを巻き込む覚悟はあるのかね」
「…………僕は。」
「お前さんの、そこまでしたい『欲望』はなんだね」
その言葉が、僕を追い詰める。
――〝そもそも、欲望はあるのかね〟と。
すら。言われている気がした。『野望』というのは冒険者の熱量、原動力なのかもしれない。それが薄い冒険者は、他の冒険者に比べて、劣っているようだと言われている気がした。いや、事実、そうなのか。
僕は崖に立たされた気分だった。銀猫の精霊の質問には明らかに悪意がある。
まるで、踏み固まっていない、土壌を探るように。
一歩一歩、会話という土壌を踏みしめる靴が、僕の心の弱さを探るように踏みつける。あまりのことに、魔物を倒したばかり、戦いの熱の冷めない里では、さすがに冒険者のリスドレアが鋭い目配らせをしていた。
「……おい。ポコ。やりすぎだ。何の意図があって、『上位精霊』のお前が出しゃばってくる」
「――いやーー、ねえ。もしかしたら、満足いく回答が得られるかもしれないと思ったんだけどねえ。面白い見せ物になると思ったんだが」
それを。首を傾げて猫が言う。
答えを催促しているように僕には見えた。
その答えのないことを『残念がる』にしては、明らかな趣味の悪い顔でのぞき込んでいる。……やはり、人間に近い。その感情のよりどころも、悪意すらも。
だが、それでも。
怯みそうになる僕が、言葉を失いそうになると。
「…………『ただの、ありふれた冒険』を目指す。…………それでは、いけませんか?」
言った。
ポツリと声が聞こえた。後ろからだった。
驚いて振り返った。
そこには……『精霊』が立っていた。
リスドレアだけじゃない。商人の娘・ランシャイだけでもない。……僕ですら。その精霊尾出現と言葉に驚いていた。彼女は光とともに僕の今宵の冒険の《剣》から出てきていて、そして上位精霊を相手に言っていた。
……いや。
聖剣の光塵とともに、柔らかな風の中で、その目を見て言い切った。
「…………ただの、ありふれた冒険を目指す。
……そんな冒険者がいては。いけませんか? それは並外れた、とても欲張りな要求だと思います。……特に、ある人たちのような《剣島都市》の中にいた人には……とても難しくて。それだけに、人とは違う」
「へえ」
…………あんなに、怖いお姉さまたちだと。恐れていたのに。
精霊が。そこにいたのだ。僕らの会話を聞きつけ、純粋な瞳に力を込めて。その精霊は真っ直ぐに上位の精霊を見ていた。
「……面白いねえ。精霊。名前を聞こうじゃあないか」
そして、猫が楽しそうに目を細める。
その答えが、里の状況を動かした。




