37 砂を泳ぐ魔物
その激戦が幕を開けていた。
しかし、終わりのない戦いでもあった。
その光景を戦闘というには――あまりにも、一方的な《蹂躙劇》でもあったからだ。
「――な。なんだあれは」
「押し寄せてくるぞ!!」
ランシャイは一瞬で判断した。
『盟主呼鈴』の音色を鳴らす。
――すなわち、〝危険〟。〝接触厳禁〟―――と。
そして、ぶち当たる。
『盟主呼鈴』が間に合わなかった。傭兵たちが右側――船でいう右舷を削られるように、ごっそり飲み込まれる。何名かの〝支援要員〟の小さな獣人たちが飛び出して、巨大な口に食われそうになった獣人傭兵の仲間たちを、襟首をつかんで引っ張って戻していく。
この魔物は西の砂漠地帯にしか出現しない。毎年のように砂漠を渡って交易する『隊商』を襲い、何名もの商人がこの魔物の被害に遭って、積み荷を奪われている。かなり凶暴で上位の魔物だ。
商人だけではなかった。
――被害に遭うのは、《冒険者》も同じだ。
砂漠を渡って商売をするとき、護衛に《冒険者》をつけることがある。その際、運悪く『砂鯨』に発見され、戦いに発展するケースも多いのだ。一方的な戦いだ。蹂躙といってもいい。
……なにせ、正面切ってその魔物と渡り合える冒険者など、そうそう存在しないのだ。砂漠から顔を出しての《噴流》は強力で、《隊商》の荷や馬ごと吹き飛ばす威力がある。
「……なにが」
「……ゲホッ、ゲホッ。っぺ、すげえ砂だ」
ランシャイの鈴の音に救われ、下敷きを免れた青年団や傭兵たちは、すぐさま距離を取って顔を上げた。《採掘師ギルド》ならともかく、鈴の音色を聞き分けた『傭兵団』は、号令下、めまぐるしく後退を整える。
―――月の下を、泳ぐように動く魔物。
巨大な魔物の上には、高らかに笑う〝首領級〟の姿があった。
「ぶひゃーひゃひゃっ! おい、おいおいおい、あんまり俺様を退屈させんなよ! 鉄の国中の者ども。ぶぎ。
いいか、音に聞け。夜に泣け。――俺様は、この大軍団を預かっているオークの〝ヨードフ〟って者だ。蹂躙されたくなけりゃ、はやく泣きべそかいて両手を挙げて投降すりゃいいんじゃねえか? ―――ぶひゃーひゃっひゃっひゃ!! 俺様が助けるとは限らねえがなあ!」
「…………なんの冗談アルか。これは」
そして、言う。
この魔物は西の砂漠に出現する『旅人喰らい』『貿易隊商喰らい』とも言われる魔物だった。その大型の個体である。各地を旅する旅人、その中でも――灼熱の砂の上という過酷な旅をする旅人を、さらなる脅威として襲いかかる。
商人・ランシャイも知っている。
…………いや、商人の彼女だからこそ、その〝恐ろしさ〟は身に染みて知っているのかもしれない。なにせ、何名もの同業者が食われたという話を聞いたことがある。〝砂鯨〟というのは砂漠の魔物の中でも特に凶暴で知られていた。もし領域に旅人が足を踏み入れようものなら、横に裂けた大きな口で食べてしまう。
――だから、普通は人間が飼い慣らすことなんかできやしない。
……というか、不可能だった。もしそんなことが可能なら〝魔物〟の問題だって解決する。《冒険者》などはいらない。魔物を退治する専門家と、その聖剣なんて、必要ないことになってしまうではないか。
(…………なのに、)
その魔物を、見る。
ランシャイの目の前で、その〝砂鯨〟の大きな個体は――軍馬で操るような手綱をかけられ、そして鐙まで独特の形状のものを用いて、〝オーク〟を背中に揺らせているのである。
……竜騎兵、ならぬ。
……魔物の『砂鯨』の騎兵である。
こんなの、悪夢以外の何者でもなかった。
「―――〝魔物〟は、人を襲う――そう私は聞かされて育ったし、実際にこの目で見てきたアル。だが、どうも、私が聞かされてきた魔物とお前たちのところにいる魔物は違うみたいアル。……どういうことか、説明してもらおうか」
「…………んん?」
すると。
その一夜の騒ぎの〝代弁者〟をした顔のオークの首領が、やっと目の前の小娘に気づいたように、『おんやぁ?』といかにも気怠そうな顔でしたランシャイを見る。
群衆の中で、臆せずに自分と《砂鯨》という魔物を見上げてきている。
「なんだぁ、お前。お前みたいな娘がいるなんて、手下の報告になかったぞ。ぶぎ」
「…………私は、《商天秤評議会》の頭取り、『ランシャイ・ムー』。商人は堂々と名乗るもの、そして利益を生み出す〝正義〟の代弁者であるアル。だから、隠れもしないし、臆しない。
私はランシャイ。そして――お前は、この一夜の〝バカ騒ぎ〟で、取り返しのつかない失態を犯している。王国の民が、三千人はゆうに食べていける硬貨価値を破壊している。自覚はあるアルか」
「ぐ、ぐふふ」
そして。
獣の上に跨がる〝オーク〟は、それで負けたように体を曲げたのかと思いきや、これでもかというほど愉快そうに上を向いて哄笑を上モールのだった。
「―――ぶひゃーひゃっひゃっひゃ!! なんだあ、そのバカ口調は。あるあるある? どこの商人だか王サマだか知らねえが、それだけ俺様たちが周りを傷つけて、里に被害をもたらしているんなら愉快じゃねえかぁ! なにせ、日頃から俺たちを疎み、日陰者として厄介扱いしていた俺たちなんだぜ」
「…………」
「盗賊をお前達は好きじゃないだろうが、俺様達だってお前達が一緒のモンだとは思えねえぜ。―――盗賊には、盗賊の価値がある。俺様たちはお前達『フツーの奴ら』が傷つき、苦しむ苦痛に歪んだ表情が最高に愉快って感情がな!
だから説教も無駄。無駄無駄無駄―――! 食われる前の〝可哀想な、可哀想な、魔物の餌ちゃん〟が何を言っても―――響いてこねえぜぇ。普通の庶民の暮らしをぶっ壊して、盗み、殺し。――こんなに愉悦なことはねえだろ。お前らも仲間に入れてやってもいいぜ。―――ぶひゃーっひゃっひゃ!!」
「…………………………………。『アル』が一個多いアルね」
全ての言葉を飲み込み、ランシャイ一つだけ訂正する。睨んだ。
――対話は終了。
あとは、戦闘あるのみ。
ランシャイは、思う。
この平和な世界で、ここまでの狼藉を働いていいはずがない。
―――〝魔物〟は、人を襲う――生き物のはずだった。
――だから、人間は必死に領土を守ってきた。
人と魔物は、決して相容れない。……これが昔からの法則。魔物との戦いは人類の歴史でもある。壁画に描かれているような昔から人は魔物と戦い、そして何名もの犠牲を生み、喰われるか、倒すか――そうやって綱渡りをしてきた。
《聖剣》が生まれて安定しているとはいえ―――《熾火の生命樹》の輝きの恩恵を受けられる地域が限られていた。だからこそ諸王国は《剣島都市》という島を囲むように〝侵略・支配をしない〟ことを約束していた。
《冒険者》たちを遠くの国でも招聘できるようにし、魔物と戦うためにどんな小国でも希望が持てるようになった。
しかし、この盗賊『ヨードフ』と名乗る男は、無視している。
「お前を、許せない。アル。……〝オーク〟のヨードフ。巨大な〝砂鯨〟を操る力なんてものを持ちながら、魔物と一緒に人々を苦しめるなんて。商人の〝利益〟を生み出す信条に反する」
「だから、なんだぁ? ―――商人の小娘。
もっとほざいてみろよ。俺様と『一角魔獣鯨』は最強だ。気性も似ている。誰からも潰されることなんかねえし。誰からも奪われることなんかねえ。しょせん、生きることは奪うか奪われるか、ってことだろ。―――じゃあ、やることなんて決まってるよな?」
号令が下されるように、その残酷な笑みと声が重なる。
――魔獣が、笑っているようだった。
そして、動き出す。
『砂鯨』が突撃姿勢に入る。――不遜な〝小娘〟の存在を殺し、その価値を分からせるように。
地面を腹這いし、音を鳴らしながら怪物が動く。凄まじい土煙を上げ始めた。四つ足歩行で〝突撃〟を開始した砂鯨・『一角魔獣鯨』であったが、その身体は半ば砂に埋まりながら突撃してくる。
――目標は、ランシャイ・《獣人傭兵団》であった。
この〝魔物〟は――人を丸呑みにするために砂を猛然と泳いでいた。ぶち当たったときには、衝撃で視界が震える。
火山地帯だった《クルハ・ブル》の土の地面がいつの間にか砂に変わっていた。つまり、魔物を防ぐための《エリア》が存在していない。
(…………食われる……。マズい…!)
――思考を放棄したら、終わる。
ランシャイの『盟主呼鈴』がとっさに音色を放った。魔獣が向けてくる目の方向へと弓矢を放ち、そして剣をもって突撃を防いだ。魔物自体には〝回避〟と〝鉄壁の大楯〟で防御をするしかないが、目の前で押し寄せてくる《盗賊軍》に対しては、剣で道を切り開かなければならない。
防御しながらの、前進だった。――しかも、《砂鯨》はまだいるようであった。
中型の砂鯨から、首領級が扱う大型のものまで。まるで狩りのように獣人傭兵団を囲みながら、《噴流》を放ってくる。大きく地面がめくれる。
「――ら、ランシャイ様!!」
「どう動けばいい!」
傭兵たちが、異口同音叫ぶ。
混乱が広がっていた。
―――普通、こんな《魔物》となんか彼らは戦わない。
戦いにすら、なっていなかったのだ。それは一方的な蹂躙劇である。盗賊側は優位な狩りを楽しんでいる。囲まれそうになれば反転し、どうにか《里》を目指そうとしていた。
「…………お、終わりではないですか……? ランシャイ様」
「…………」
「……我々は、誤ったのではないですか? 選択をあやまり、無謀な戦いに首を突っ込んでしまったのでは…………。だ、だって。この里はあまりにも脅威に対して、終わりかけています。あらゆるものが不足し、王国の最上位の軍隊でも動かないと…………何もできません」
傭兵は、言った。
震える声だった。火の消えそうな目で、統率者を見ている。
「救援を……。どこかの王国が動くのを、待っているべきではなかったのではないですか……?」
「…………」
「我々は、助からないのではないですか。逃げ道など、希望などないのでは……ないですか?」
要するに、それだった。
前線を支配する絶望が、傭兵の全ての顔についていた。
『死』が隣にきたような顔だ。
この夜の魔物を全て倒すことなどできない。なぜなら、魔物を倒すための戦力がない。勇気も……ない。
どう立ち向かって、どう戦えばいいのか。誰も見せてくれない。誰かが見せてくれるとは思えない。光明の見えない長く暗いトンネルのことを、人は絶望と呼ぶのではないか。
その絶望の中で、人は何をすればいいのか。
…………なにを、考えればいいのか。
「―――いや」
しかし。
首を振った。商人は統率者としての顔だった。
「――違う。この里はこれだけなら終わるだろうアルね。だからこそ、私はここにきた。……ここに降り立った」
……これで終わりではないことを知っているから。
……この大陸で、求められていることが何なのか知っているから。
そのために布石は打っておいた。
たとえこの局面が変化しなくても、戦場は無数にある。そこで戦う存在たちがいる。ランシャイはそれを知っている。
…………どんなに、苦痛を覚える状況でも。
…………どんなに、絶望的な状況でも。
―――変えていける『存在』を。知っている。
ランシャイは思った。それは最後まで希望を見いだして戦う存在だった。負けはしない。自らの勇気をふりしぼって前進し、自らの手でしがみつく存在だった。自らの光りで、輝きで放つような存在だった。
それは、暗い夜空を染める星のような存在。
星は、この戦場に二つあった。――一つは、《里》の戦場で戦いを繰り広げている。骸骨を相手に食らいつき、引きずり回しながら状況を乱暴すぎるほど強引に変えていこうとするだろう。囲碁の盤をひっくり返すように。
――そして、もう一つは。
この鉄の国――《クルハ・ブル》の外。
ランシャイの知るところでこの状況を変えられる、あらゆる局面で最強の冒険者だった。この傾ききった状況を、覆す。
それは、《剣島都市》側が用意した――
(…………頼む、アル。そのために私は〝島〟に根回しして、ここまで準備を整えていたアル。ここで、志が折れるわけにはいかない)
振り返る。
燃え上がる鉄の里で――その背景を前に戦いを繰り広げていた。いつ尽き果てるか分からない体力と《獣人傭兵団》は戦い、大地が割れるように顔を出した魔物が彼らを丸呑みにしようと砂を泳ぐ。
―――その最後の希望を、《冒険者》といった。




