09 悔しくて
「お帰りーって。おや。ひどい顔」
マザー・クロイチェフ。
先日と同じように僕たちを出迎えた寮母さんは、カウンターでひらひらと手を振ってから僕たちの違いに気がついた。
特に酷いのが。どんよりとした負のオーラを漂わせる僕だった。僕はその下で黙り込んで。涙も飲み込んで、飲み下して、赤い目は屈辱で腫れ上がっていた。それで、この寮母さんは察したらしい。
酒瓶を振りながら、事情を聞いてきた。
僕らは説明した。主に、ミスズが喋った。帰り道で終始無言だった『空気』に絶えかねて、この剣の御子は、ようやく喋ることを許されたように。喋りまくった。
そして。
「ふーん。なるほどねぇ」
その寮母さんは、口元をつり上げていた。
酒瓶を振り。その、寮の玄関の天井から注ぐか細き《ランプ》の火に中身の琥珀色の液体をうつしながら。静かに、ゆっくりと口の中の言葉を転がすように、話した。
やがて、
「いや-。正直、いつこうなるかと思っていたよ。あんたたちは冒険者。剣士の前に―――この《剣島都市》で学びながら『魔物』を倒す〝冒険をする者〟--だもんね。ということは、強い冒険者と、弱い冒険者がいるってこと。瓶の中の水と油が、キレイに分かれるみたいにね」
「…………」
「どこまで続くかわかんなかったけど。何ヶ月も続いているんだから。十分、十分。よくやってるほうと思ってた。最底辺のわりには―――ね。あっはっっは。そんな険しい顔をしなさんな。褒めているんだよ、これでも。普通は何ヶ月たっても何の進展も変化もなかったら、モチベが続かないもん。
賢い人間だったら、すぐに限界を悟って故郷に帰っている。《剣島都市》を出て行っている頃だよ」
「……………………」
それは冗談になっていなかった。
僕は笑いまくるマザー・クロイチェフから先ほどの上級生たちにも感じた、『どす黒いもの』を感じてしまう。胸をドロリと流れる、負の感情の塊。
特に、今の僕にとっては残酷な言葉だった。今の僕は余裕がない。いつものように『寮母・クロイチェフ』の冗談を戯言と聞き流したり、調子に乗った言葉に突っ込みを入れたりする気力がない。余裕がない。精神にゆとりがない。受けた言葉を、そのままに真に受けてしまう。
だから。だろうか。
その寮母さんは、さらに鋭い舌鋒を向けてきた。
「――――でも、泣いているだけで強くなるんだったら、世話はないよね?」
その言葉は。
確実に、僕の心を停止させた。
刺さった。抉った。曖昧で定まっていなかった心を貫いて、虫の標本のように縫い付けた。あやふやだった僕の感情を、確実に―――。悪いほう。憎悪のほうに―――押しやった。
「――泣いて悔しがるだけでいい。その理屈だと、剣各都市で修行する20.000人の学徒たち、みんながそうなっちゃうよね。ううん、泣き虫の弱者だらけになっちゃう。―――すごいよね、泣き虫の同情家って。それだけでこの世の正義になっちゃうんだもん。弱いくせに、努力が足りないくせに、一人前の冒険者になれないことを天に向かって嘆いている」
「…………、待て」
「みんな頑張っているのにね。《獲物の大きさ》の争いに負けて、逃げて帰ってくるだもん。悔しがっちゃってさ。弱いくせに」
「…………黙、れ」
だまれ。黙れ。
だまれ。だまれ。だまれだまれ。
だまれ…………!!
僕は。生まれて初めてかもしれない。
人に悪意……いや、明確な殺意をもったのは。
――――人を、憎いと思った。
《剣島都市》に来てからの全ての挫折、そして上手くいかなかったことすべてを目の前の寮母さんに向ける。睨みつける。
その顔に「お、いい目になった」という寮母さんは、なぜかカウンターで身を乗り出していた。僕は、その顔に。黙ってなんかいられなかった。
「……分かっている…………いや、分かっているんだよ!!! そんなことは!!」
寮の玄関が、吹き飛ぶほどの大声。
他の生徒の姿はない。ただ、一緒にいた剣の御子のミスズだけが、ビクッと肩をふるわせていた。大音量の怒声に、カウンターの洋燈が震える。
「僕は弱いよ。―――あぁ、弱いよ!! 分かっているさ。アンタに言われなくてもな! ずっとずっと前に僕は気づいていた!! 気づいていたんだ!!
………今までずっと人のせいとか、農家育ちだからとか、剣を握り慣れてないとか、言い聞かせてきたよ!! ああ、そうだよ。ミスズが弱い御子で、疫病神だとか《剣島都市》が僕にとって向いていない場所だったんだとか―――いままで、さんざん理屈をこねくり上げて、塗り固めて、今まで―――ずっとずっと人のせいにしてきたんだ!! 周りのせいにしてきたんだよ!!」
そう、気づいていた。
―――なれない、って。
でも。
認めたくなかった。自分がなれないって。あの時に見た上級生のように、生徒たちの群れに見守られながら冒険の凱旋がしたいって……。いつか、願ってた。当然だ。サルヴァスの学徒なのだ。
なりたいと思って、この島に来た。
「―――だけど僕自身はダメだった。ああ、悔しいよ。ハッキリと『僕自身が悪い』っていう言い逃れのできない理論を突きつけられたから。自分がダメだって、分かってしまったから、どうしようもなくて、悔しいんだ!! 何もかも! 僕には―――」
僕は叫んでいた。
僕には、才 能 がない。
誰よりも、僕自身が知っていた。
そう、誰も。泣いて同情を引こうとかしちゃいない。誰かにどうにか便宜を図ってもらいたいとか、《剣島都市》で立ち回りたいとか。慰めてもらいたい、島から出ていくのを止めてもらいたい。そんなこと微塵も思っちゃいない。思えない。
いわば、無計画だ。何の意図もない。
黒いヘドロのような汚れが胸を支配して、その何かが涙となってあふれてくるんだ。どん詰まりの最底辺だった。何もできない。何の希望も、すがりつく打開策もないから、泣いている。泣くしかなかった。
「…………ま、ますたー」
ミスズは。
ミスズは、そんな僕を横で見て。呆然としていた。
生まれて初めて僕が見せた激情。故郷の田舎農家では、そこそこ要領が良くて、怒られることもなく、うまく立ち回っていた僕が―――《剣島都市》という殺伐とした剣の世界に飛び込んで、そして『最底辺』という烙印を押されて。逃げ場なんてなくなって、叫んでいた。追い詰められていた。
人が見たら、醜いかもしれない。
人が見たら、呆れるかもしれない。
でも、もういい。がむしゃらに泣いた。僕が今まで見せてこなかった、純粋な―――『強くなりたかった』という気持に。後悔に。嘘はつけなくなった。精霊のミスズは、その気持を聞いてしまっているのだ。
そう。
僕は今まで、『競争心が無い』って誤魔化してきた。かっこつけていた。『他人はそれでいいさ』とか、『自分はそんなガラではない』とか。言い訳はいくらでもあった。怠慢という柔らかいソファーの上で、胡座をかいていた。
でも、羨ましかった。レベルが欲しかったのだ。討伐がしたかった。聖剣で冒険したかった。
ただ、純粋に魔物を倒して冒険していることが―――。活躍していることが。羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。後頭部が熱くなるほど妬ましくて、気が狂いそうだった。
僕だって冒険したかったんだ。
…………強い冒険者になりたかった!
その気持を声にして叫んだ。思いっきり叫んだ。羨ましかったこと。しかし、この寮母は最後までそれを聞いてから、ぎらりと瞳を輝かせ、
「そう。だからこそ言ってるんだ。少年。…………泣いていたんじゃ、誰も少しも強くならない。って」
「…………くっ!!!」
まだ、言うか!
僕が睨みつけると、その寮母は首を振って、
「勘違いするんじゃない。わたしは、アンタのそういった馬鹿正直な性格はいいと思っているよ。嫌いじゃない。ハッキリ言うと好きだ。…………お世辞じゃなく、本当だよ。これほど正面切って、大人である私にぶつかってきてんだから」
「……?」
「とっても貴重なものだと思っている。アンタの性格。……でもね、それでもやっぱり世の中には通用しないし、上がいるのさ」
寮母さんは、話ながら酒瓶に栓を締めた。
つまり、飲まない。これ以上は。語気が弱まる何かを受けつけないというサインだった。大人として逃げないで、真剣な、本気の話し合いをする。そんな寮母さんの表情は、僕は今まで見たことがなかった。
「考えてもみてごらん? 〝彼ら〟はいきなり強くなったと思う? 上級の剣士の学徒たちは、唐突に天与の力を与えられ、奇跡みたいに神懸かった才能を発揮したと思っているの? 暴力的ながらも爽快なその力を振るって、魔物たちを縦横無尽に刈り尽くしていく。気持がいい、爽快だ。………ただ、それだけ?」
「………………それは」
「―――それこそ、前にアンタが苦戦したような〝グリーン・ドラゴン〟クラスの大物を、最初からなんの修行も準備もなく一刀両断! 見事に討伐して、その莫大な経験値を得ていると思う? なんの挫折もなく? 冒険は全て成功した?」
「…………」
「……違うよね? たぶん、全然違う。彼らは彼らなりに、アンタの知らない裏で鍛錬を繰り返していて、地獄を味わってきたんだと思う。日頃から〝レベルアップ〟に勤しみ、地道な修行なんてなんのその。明日にでも、すぐ成果が出るわけじゃないのに、ずっと鍛錬に励んできたんだよ。
明日への橋頭堡を作っていくためにね。〝レベルアップ〟は、そんなに甘い仕様じゃない」
「……!」
「もう一度いうよ。〝レベルアップ〟は、そんなに甘い仕様じゃない!」
それは。
それは僕にとっての、不意打ちだった。
〝レベルアップ〟は甘い希望で、手っ取り早い近道。
今まで前提とした理論が崩壊する。何の努力も無しに―――。最初から与えられた力を使って、彼らは強くなったわけではない。分かっているようで、全然見ようともしなかった、当たり前の知識だった。
いや。怖くて、見られなかった現実なのかもしれない。
―――〝周りだって、みんな努力している〟―――。
その事実を、噛みしめた。
本当は、心のどこかで分かっていたのかもしれない。
分かっていたのに、見ようともしなかった。拒否反応は脳にストレスを与えないように、とても便利に〝その情報〟をもみ消していた。僕が《剣島都市》という都市に帰還して、街の広場で『鍛錬』している上級生を見ても、何も感じなかった。何も思わないようにしていた。見ないために。
その、人間としての弱さに。自分でも見たくなかった、卑怯さに。
この寮母さんは、容赦なく切り込んできたのだ。それこそ、剣士が細剣で相手の喉元を狙うように。
………まるで、そう。
まるで僕の本心に気づかせるために。
「―――対して、アンタは何をしていたと思う? クレイト? ただ毎日他の冒険者と同じように過ごして、他の冒険者との〝天与の才〟―――そればかりを見比べていたんじゃない? 見比べている時間にも、他の誰かが修行をしているかもしれないのに」
「…………」
「〝スタート地点〟からの差は大きい。でも、逆にいうとそこからまた始めることが出来る。他の冒険者との差を埋めるための努力もせず、ただ〝自分には力がない〟〝才能がなかったんだ〟と自嘲と諦めのセリフで、言い訳するのは簡単だよ。でも、その結果に泣いても、誰もアンタに同情なんてしてくれない」
「……っ、」
「――〝自業自得〟という言葉をわたしはあんまり好きじゃない。けど、それでも、こと自分に限っては厳しい目を向けて、その言葉を使ってもいいと思ってる。だから、あえて言わせてもらう。今日のあんたの姿は、自業自得の負け犬だよ」
「…………」
僕は、強く拳を握って。
今度こそ、その言葉を正面から受け止めた。
言い逃れはできる。実際今までそうやって言い訳しながらきた。でも、今は違う。受け止められる気がした。
隣では、『そ、そんな言い方って……!』とミスズが悲しそうに言っている。僕のために怒っている。きっと、寮母さんにも立ち向かおうとしている。でも、僕はそれを止めるべきだった。
今だけは、拳を握って。
その悔しさを、否定しない。…………悔しくて悔しくて。全力で屈辱と悔しさを噛みしめつつ、その辛さから逃れない。胸が潰れてしまいそうなほど苦しくて、すぐにでも逃げ出したい。
その〝気持ち〟を、今ここで封をするんだ。両足を踏ん張った。向き合うべきだ。
そう。―――この言葉を投げかけているのは、普段からの〝僕自身〟からではないか。寮母さんは少しも偽っていない。
「でも、だからこそ。言う―――アンタは、もっと強くなれる!」
「……!!」
寮母さんは。
そんな僕を、正面から見つめて。ふと、優しい声になった。
微笑んだ。僕は。目を見開いた。
今まで厳しい声をかけていたその人は、穏やかな姉のような顔をしていた。今まで、誰も僕にそんな言葉をかけてくれなかったのに。
劣等生、落ちこぼれ。ろくでなし。冒険者の失敗者。いつも言われていた。慣れていた。慣れているからこそ、身構えていた。
―――でも、その人は。
「―――アンタに覚悟があるなら、一緒に強くなれる稽古をつけてあげる。明日から。毎朝七ノ刻! この寮の裏庭にやってきなさい。わたしが、自分ができる限りの稽古をつけてあげる」
「…………!」
「あっはっは、気にすることはない。私はあんたを気に入っているのよ。それに、これでも私は昔は凄腕の冒険者だったの。…………まぁ、そう言っちゃうとテンプレ通りの弱そうな引退老人だけど、本当だよ。本当に強かった。だからこそ、誰にでもは教えない。
夢も希望も、全部諦めて〝島〟を後にするにはまだ早い―――。その辺りの、生半可な実力で威張り散らしている『上級者』ぶっているガキが気に入らないのよ。クレイト、アンタが私の代わりに奴らをぼっこぼっこにやっつけちゃいなさい!!」
「…………」
「代金は……そうね。寮の掃除の範囲拡大と、『お酒代』。ここ重要。アンタの故郷の母親が送ってくれた『人のお金』じゃなく…………ちゃんと自分で稼いだお金で、自分のために肉体に投資しなさい。
最初は、《剣島都市》で飲食店のバイトが見つかるまで、寮の床掃除と、壁磨きに報酬金をつけてあげる。たっぷりと、色をつけてね。それで余ったお金は…………アンタの代金………お駄賃になさい。
心配しなくてもいい。わたしは、ちゃんと頑張っている子には、頑張った対価を用意するから。…………ホントだよ? 約束する」
と、寮母さんは。
約束のために小指を出してきて、もう片方の手で自分の豊かな寮母服の胸元を叩いている。弱小冒険者と、その寮母のはずなのに。この人は、完全無欠の最強の笑みで頷いて見せていた。
僕は呆然とした。呆然としてしまった。
『ま、マスター!』と。
隣のミスズが。その言葉にぴょんぴょんと跳ねながら、僕の腕を掴んでくる。僕はしばらく思考が停止してしまっていた。ただ、じわりと脳に血が行き渡っていくように、その言葉が意味として頭に浸透してきた。
僕がただ呆然とし。そして、パートナーのミスズを振り返る。目を合わせた。
『…………僕が、強くなる………?』と。その嘘のような言葉を口の中で転がす。不思議だった。でも世界が変わるような言葉だ。先ほどまで馬鹿にされていたじめつく雨の天気も、嵐の日のようにグチャグチャになった天気もない。全て、圧倒的な力で吹き飛ばしてしまっていた。
気分は、青一色の晴天。単純明快。その事実が頭に強く残る。
「約束できる? クレイト・シュタイナー?」
「…………」
見つめる。寮母さんは、じっとこちらの瞳を見つめていた。
少しずつ固まっていた時が動き出すように、僕はその寮母さんの手に指を伸ばしていた。小指を絡める。《冒険者の王国世界の旅》のスケールから考えると、とても小さな約束に思える光景だったが。
でも、僕の世界でのそれは大きかった。
――約束する。ただ、それだけの言葉に、胸が高鳴った。




