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三十と一夜の短篇

ギャシュリークラムの逆回転(三十と一夜の短篇第3回)

作者: 実茂 譲

三十と一夜の短篇、初投稿です。

恐れ多いことですが、今回から参加することになりました。

よろしくお願いします。

1.

二〇一六年七月一日 〇〇時〇五分

イギリス ロンドン


 ダリング通りの家並みは右クリックでコピー・アンド・ペイストしたようにありふれている。ロンドン中流階級で手の届く一軒家を作るとなると、どうしても同じ家を同じ建材で大量に作ってコストを削減しなければいけないからだ。

 ダリング通りは別に面白いところのある通りではない。夜中になれば、住民の九割は寝る。起きているのは世界じゅうのゲーム愛好家を相手にネットゲームにのめりこんだ青少年――まれに中年――くらいのものだ。

 ダリング通りが少し東寄りに曲がるところにウェルスレイ通りが西から交わってくる。その三叉路のダリング通り一五二番地に住む十二歳の少年サミュエルは眠れずにいた。彼は自分の自転車に鍵をきちんとかけたかどうか思い出せず、悶々としていたのだ。

 半分眠っているようなものなので、ベッドから出るのはめんどくさいし、この心地良い状態を放棄してわざわざ外に出るほどあの自転車に価値があるものだろうか。近所のフリーマーケットで十ポンドで買った代物だ。錆びたチェーンはたるんでて、立ちこぎしようとするときに限って、チェーンは外れてサドルに股間を思いっきりぶつけるといった具合なのだ。

 チェーンを交換すればいい?

 チェーンは十五ポンドもする。これが新品の自転車なら十五ポンド払っただろうが、十ポンドの自転車では払う気になれない。自転車そのものよりもチェーンのほうが高いなど馬鹿げている。ロンドンの中流家庭に住む十二歳の少年にとって、十五ポンドはおいそれと出せるお金でもない。

 とは言っても、自転車はあれ一台きりしかない。それに自転車を惜しむわけではないのだが、ちゃんと鍵をかけたのかどうかが気になって眠れないのだ。

 あのポンコツめ。

 サミュエルはベッドがらのそのそと起き上がるとまず下半身を、そして上半身を未練がましくタオルケットのなかから引き抜いた。

 両親も既に就寝していて、居間もキッチンも電気はついていない。

 なにちょっと外に出て、ダイヤル式のキーチェーンがしっかり家の前の鉄柵にかけてあるか見るだけだ。着替える手間もない。

 外の出ると、向かいに自分の家をまったく同じ造りの分譲住宅が見える。まるで家ごと鏡で見ているようだ。こんな大量生産品でもダリング通りの大人たちはひいこらローンに苦しめられ、不機嫌になったり、落ち込んだりする。自分は将来住宅ローンで家は買うまい。サミュエルはそう決意する。現金で一発。百ポンド札の山を不動産屋に叩きつけるようにおいてやる。

 壮大な夢と対峙するみじめな現実。彼の愛車。たるんたチェーンと錆びついて動かせないペダル。だが、黄色いダイヤル式のキーチェーンはきちんと家の前の鉄柵にかけてあった。

 これで一安心。

 そのとき、ウェルスレイ通りから飛び込んだ酔っ払い運転の自動車が時速六十キロでダリング通り一五二番地に突っ込んで、サミュエルと彼の自転車をひき潰した。



2.

二〇一六年七月一日 〇二時一四分

シリア ジャラブルース


 国境さえ越えれば、保護される。

 ジャラブルースに住む人間ならば誰でも知っている常識だ。

 問題はジャラブルースから国境までの道のりだ。イスラム国の兵士たちがパトロールをしているし、地雷を埋めているかもしれない。町と対トルコ国境のあいだには隠れられる物影がないので、イスラム国の兵士に見つかれば、皆殺しにされるし、九歳のカリマはレイプされるだろう。

 カリマの幼い目から見ても、世界はどう考えても不公平につくられているようだった。もちろん、偉大なるアッラーが世界を不公平につくったなどと公言すれば、すぐに処刑である。

 だが、おかしいではないか?

 イスラム国の兵士たちは平気でトルコの国境検問所を越えて、トルコの町のトルコの市場で好きに買い物ができるのだ。イスラム国の兵士たちは最近プロテインにご執心らしく、マッチョな褐色の男の写真をでかでかと見せつけるプロテイン食品の箱をピックアップ・トラックで買い漁っている。

 それなのに、カリマのような民間人たちは国境検問所に近づくことすらできない。

 やっぱりおかしい。

 九歳の少女は思考でもって、世界の矛盾に立ち向かおうとしたが、どうも要領を得た回答は望めなかったらしい。

 それにカリマの父親と母親は最近、めっきり苦労が増えて白髪だらけになっている。カリマの父親は食料雑貨店を経営していたのだが、ジャラブルースがイスラム国に占領された日に略奪に遭い、店を失った。それからカリマの両親はゴミ漁りをして生きてきた。とにかく金属片があれば、それを拾い、アブドゥルじいさんの店に持ち込んで、食料に替えるのだ。

 だが、それも限界だった。アブドゥルじいさんが何の落ち度もないのに射殺され、カリマたちが住んでいた掘っ立て小屋がシリア軍の砲撃で吹き飛び、本当に全財産を失ってしまった。

 おまけにタイミングが悪いことにカリマは九歳の少女にしては早熟な体の形をしていて、それを眺めるイスラム国の兵士たちの目に不気味な潤みが現われるようになった。

「とにかく国境を越えて、難民キャンプまで行けばいいんだ」

 真夜中にカリマの父親はそう言ったが、それは家族に言ったというよりは不安に震える自分自身に言っているようにも聞こえた。

 そして、今、カリマは這いつくばった状態でじりじりと北へ、国境へと進んでいる。カリマの父親が先頭で二番目にカリマ、一番後ろはカリマの母親だ。だが、三人の進み具合は亀のごとく鈍いので、このままでは国境に着く前に夜が明けてしまいそうな気がした。母親はこんなときアッラーのお慈悲にすがるくらいしかできない人だったので、ときどき祈りの文句を唱えようとするのだが、そのたびにカリマの父親が黙っていろ、静かにしろと命令した。

 イスラム国の連中に見つかったら、どうするんだ、というのだ。

 まるで父親の懸念が的中したように突然、銃声が聞こえた。タタタ、タタタと小刻みに連射される銃声の数瞬後には弾丸がカリマたちの頭上をブゥンっと気味が悪い呻りを残して、飛んでいく。

 カリマもカリマの父親もカリマの母親も狂ったように土にしがみつきながら、這いずっていった。ブゥンという音が耳のそばで聞こえるとカリマは泣きたくなった。きっと今度、タタタと銃声が鳴ったら、その銃弾で自分は死ぬに違いない。

 もう、こんな怖い思いはしたくない。全部終わりになればいい。

 カリマはそうアッラーに祈った。



3.

二〇一六年七月一日 一〇時三八分

インド ジャイプル


 太陽が月のように一定の周期で削れてくれればいいのに。

 十一歳のパンディは中央公園沿いの道で缶入りのバヤリースを売るたびに何度もそう思った。気温は四十八度。年寄りがバタバタと倒れて死んでいく気温だ。五十度になると元気な若者でもバタバタと死んでいく。車のボンネットに生卵を落とすと目玉焼きができるほど熱いのだから、そりゃあ人もバタバタ死ぬだろう。

 そんな熱い日を生きるには飲み物が必要だ。だから、パンディは一本十ルピーのバヤリースを売っている。みな飲みたいと思うはずなのに、ちっともバヤリースは捌けない。実はパンディの売っているのはバヤリースのコピー品であり、化学薬品の奇跡でオレンジ果汁なしでオレンジの味を再現することに成功した奇跡のバヤリースなのだ。パンディはそれをラジーの工場から一本六ルピーで買う。本物のバヤリースの卸値は一本八ルピーだから、偽バヤリースを売ったほうが二ルピーほど儲けが大きい。もっとも、それは売り物を捌ければの話だ。

 だが、パンディのバヤリースが売れないのは偽バヤリースだからではない。パンディの家に製氷機付きの冷蔵庫がないためなのだ。アクシャヤおじさんの家には冷凍庫があるから、いつも偽バヤリース五本を渡して氷を買うのだが、よりにもよって、このクソ暑い日に限って、アクシャヤおじさんの冷凍庫が壊れてしまった。下町の便利屋で機械にくわしい男に見せてみたが、アクシャヤおじさんの冷凍庫はインドの経済と同じくらい手遅れな状態だと言われたそうだ。

 そのため、気温四十八度の熱波のなか、パンディはぬるい偽バヤリースを売り歩かなければいけないのだ。汗は止まらない。もうこれ以上は搾り取れないだろうと思えるくらい汗をかいたが、それでも止まらなかった。

 歩道で売り歩いていると、何度か十ルピー札を手にした客がやってくることはくるのだが、パンディのクーラーボックスに氷の一かけらもないことを見ると、十ルピーを引っ込めて、冷たい偽バヤリースを売るスタンドを探しに行ってしまう。

 朝から一本も売れないまま、頭にかんかん照りの陽を浴びすぎて、めまいがしてきた。パンディはよろめいて、国立公園内にあるラジャスタン・ポロ・クラブの前でへたり込んだ。金持ちのポロ愛好家たちがこのクソ暑い日にポロをやるとも思えないし、たとえやったとしても、ぬるい偽バヤリースのために金を払うとも思えない。金持ちはみなラングース・パレス・ホテルにあるラウンジでキンキンに冷えた本物のバヤリースを飲むに違いない。いや、そもそも金持ちは真贋を問わず、バヤリースを飲まない。やつらはドール・オレンジを飲むのだ。

 ここにいても、偽バヤリースは捌けない。だが、もうこれ以上は歩けなかった。パンディはポロ・クラブの競技場の柵にもたれて、クーラーボックスを腹に抱えた。

 喉が渇き、何度も偽バヤリースを飲んでやろうかと思ったことがあったが、商品に手をつけてしまったら、その損を取り戻すのに何週間もかかる。とはいえ、吐き気を伴うめまいに幻覚が加わった。誰もいないはずのポロ・クラブの競技場にクラシック・カーが走って、後部座席からミス・ラジャスタンが手をふっている。

 こんな幻覚を見るようではいよいよ自分は駄目らしい。

 気温は五十一度を超えていた。



4.

二〇一六年七月一日 一三時五五分

日本 東京


「今日はひどい天気だ」

 痩せた刑事が言った。相棒らしい太った刑事がうなずいた。

「空は鉛色で一面雲。小雨もパラついてる。カッパを着ないと風邪をひくぞ」

 痩せた刑事が優しく言った。

 これまで目黒区の都立桜台高校に勤める教師の数人がこの校舎の屋上の欄干があまりにも低すぎると言ったことがあった。欄干はアルミ製で生徒の腰くらいの高さしかない。普通なら高さ二メートルを越える金網を張り、その上を忍び返しのように内側に折り曲げて登れないようにするものだ。

 何度もこの話は取り沙汰されたのに屋上に通じるドアは施錠してあるから大丈夫だと言われ、そのままにされていた。

 だから、優一が手すりの向こうに立って、校舎の玄関前のアスファルトを見下ろしていると、大人たちは大騒ぎになった。警察と消防がすぐに駆けつけて、教師と刑事が説得に当たった。

 少年の顔には殴られたような青あざが見え、口も切れているようだった。だが、実際にはその青あざはアイシャドーであり、切れている口は乱暴に塗られた口紅だったことが分かった。

 優一はゲイだった。

 特にスポーツは得意でもなく不得意でもなく、勉強はまあ中の上、取り立てて目立ったところのないこの少年がゲイだと知られたのは一ヶ月前。メイク道具を持っているところを見られたのだ。いじめグループは優一がゲイであることを面白がって口外し、男子生徒たちは気味の悪いものを見るような目で優一を見て、女子生徒たちは取り立てて目立つことのない少年の性的傾向をちょっとした噂話と悪趣味なジョークのネタにした。

 教師は性的マイノリティに対してどう接すればよいか分からず、両親もそれは同様だった。転校を本気で考えて、それで誰も息子の同性愛傾向について知らないところでやり直せばいいと思っていたようだ。

 優一もそれを唯一の助かる道だと思い始めていた。

 そして、今日、優一はいじめグループに、おかまにふさわしいメイクをしろと言われて、小突かれ、蹴飛ばされながら、こっそり持ち歩いていたメイク道具で自分の顔をぐちゃぐちゃに描き乱された。いじめグループの一人がそれをスマート・フォンで撮って、動画投稿サイトに上げた、もう日本じゅうの人間がお前がホモだと知っていると聞いた瞬間、優一のなかで何かが壊れた。

 モウドコニモ逃ゲ場ハナイ。

 いや、逃げ場はある。

 四階下のアスファルト。

 そこに頭から落ちればいい。

 それだけ。ただ、それだけで誰にもいじめられずに済む。

 この苦しみが終わる。



5.

二〇一六年七月一日 一四時五九分

アメリカ ハワイ


 南キヘイ通りのアイランド・サーフ・ショップ前のコーブ・パークの砂浜からサラはロングボードに腹ばいになって、沖へと進んでいた。サーフィンを始めたのが四歳のときだから、サーファー歴はもう十二年ということになる。コーブ・パークでサーフィンをする同年代の少年や少女は水着で海に出るが、サラは四十代を越えてから肌がひどいことにならないようウェットスーツの一番薄いやつを常に身につけておくことにしていた。

 ビーチから沖へ一二〇か一三〇メートルほどのところで波を待った。もっと沖のほうでは風が波を打って白波が立ち、時おり水が期待できるレベルまで盛り上がるのだが、波頭は崩れることなく、静かにへこんでしまう。

 もう少し、沖に出てみるか。

 サラは沖合い一六〇メートルまで進んだ。ただ、十分ほど浮かんでいるうちに実際は二〇〇メートルの位置にいることに気づいた。沖に出すぎた。こんなところではどうあってもいい波は来ない。

 サラはもう少しビーチのほうへ戻ろうとして、足で水を打とうとした瞬間、激痛が走り、そのまま水に引きずり込まれた。

 四メートルほどのホオジロザメがサラの左脚を噛みついたまま、まるで飛行機から落とされた爆弾のように海底を目指していた。

 パニックに陥って、息が泡になって逃げていく。苦しさと噛まれた傷の痛みで気を失いつつあった。サラはどんどん遠ざかっていく水面の光のきらめきと自分のボードを見た。そして、サメの目を見た。

 血の匂いで興奮しきった丸い黒真珠のような目を。



6.

二〇一六年七月一日 一五時〇五分

ブラジル リオ・デ・ジャネイロ


 ゴミと違法な電線をかき集めてできた町ロシーニャの丘陵で十一歳のジョセは〈ペンキ屋〉が出てくるのを待っていた。〈ペンキ屋〉はジョセよりも四つ年上のマリファナの売人で、ジョセは以前から売人としてデビューを飾るには〈ペンキ屋〉を殺して縄張りを乗っ取るのが手っ取りばやいと思っていた。ドイスイルマンの山の斜面には似たようなことを考えているガキが百人はいるはずだ。やられてからでは遅い。まずやらなければ。平地の金持ちたちがオリンピックのことで頭がいっぱいなのと同様に、ジョセはロシーニャでいっぱしの男になることで頭をいっぱいにしていた。

 そして、出た結論がマリファナの売人である。いずれはコカインも扱うが、それはもう少し先の話だ。

ジョセは父親がこっそり密造している蒸留酒を一ヶ月にわたって少しずつくすねて、五〇〇ミリリットルのペットボトルに溜め込んで、それをペギエロという酔っ払いに渡し、かわりに銃身の長い警察用の古いコルトをもらった。三十八口径は決して大口径ではないが、それでも人を殺すんなら十分な大きさだ。酔っ払いはそう言って、コルトを渡してきた。ろくに手入れもしていないようだったが、リヴォルヴァーだから何とか撃てるかもしれない。残念だが、試し撃ちをしている暇はない。ジョセが銃を手に入れたことが知れ渡ったら、彼の父はどうやってジョセが銃を手に入れたのか、その元手は何かと考え始める。そして、自分の酒をジョセが少しずつくすねていたことを知れば、ジョセは父親まで殺さなければいけなくなる。そうでないと、ジョセが殴り殺されるのだ。

〈ペンキ屋〉が家から出てきた。出来損ないのポーチと破れた網戸から出てきたその姿はさえない。何かのソースで汚したランニングとカーゴパンツ、手にゴミ袋を持っていたが、銃はないようだった。

 なぜ〈ペンキ屋〉という仇名がつけられたのかは誰も知らない。本人だって知らない。まあ、〈犬のクソ〉とか〈ホモ野郎〉とかそんな仇名をつけられていない限りは仇名のことは気にしないのが、ロシーニャの流儀だ。

〈ペンキ屋〉の後ろからジョセは銃を取り出して、体の真ん中を狙った。そして、体全体に来るであろう反動に対抗すべく体に力を入れた。ジョセの人差し指が引き金をゆっくり絞り――



6.

二〇一六年七月一日 一五時〇六分

ブラジル リオ・デ・ジャネイロ


「おい、ジョセ! なにやってんだよ?」

 突然後ろから名前を呼ばれて、驚き、銃を落としてしまった。

 振り向くと、友達のロビーニョがいた。歳の割りに背が高く、運動神経抜群の少年だ。

「あれ? それ、銃じゃねえのか?」

 ジョセは銃を拾ってズボンのベルトに挟み、Tシャツで隠した。

「何のようだよ?」

「それが聞いてくれよ。〈サヴァンガ〉のやつらがいばりくさってよ――」

〈サヴァンガ〉とはジョセやロビーニョが住んでいるよりも上の山肌に住んでいる連中のことで、その〈サヴァンカ〉のガキどもがロシーニャで一番サッカーのうまいのはおれたちだと吹聴しているらしい。

「は? 〈サヴァンカ〉のやつらが?」

 これにはジョセも驚いた。〈サヴァンカ〉はロシーニャ一サッカーが下手クソなノロマの集まりなのだ。

「〈偉大なるレアンドロ〉の自慢をしてやがるんだ」

 ロビーニョが言った〈偉大なるレアンドロ〉とは今年、フラメンゴとプロ契約したレアンドロ・ルイスのことだった。ロシーニャでは伝説化された人物であり、ロシーニャの誇りともいっていい。

 確かに偉大なるレアンドロは〈サヴァンカ〉の出身だし、レアンドロがいた時代、〈サヴァンカ〉は負け知らずだった。

 だが、それは〈サヴァンカ〉がすごいのではなく、レアンドロがすごいのであって、その名声を傘に着ることはロシーニャっ子に言わせれば、

「そりゃあ、ひどくクソむかつくことだな」

 と、言うことになる。

 ロビーニョが言った。「これをほったらかしてちゃ男が廃るぜ。今、メンバーを集めてんだ。〈サヴァンカ〉のクソノロマどもをケチョンケチョンにやっつけてやろうぜ」

「おう。百点差で負かしてやる」

 ジョセは麻薬王としての立身出世の物語も忘れて、ロビーニョを追いかけて走った。

 銃は途中で捨ててしまった。走るのにもサッカーをするのにも邪魔だし、だいたい持っているところを見られたら、ジョセの父親に変に勘繰られるだろうから。



5.

二〇一六年七月一日 一五時〇八分

アメリカ ハワイ


 ウェットスーツのおかげでサラは気を失ったまま浮かんで、水面へ顔を出すことができた。すぐに意識が戻ると脚の傷の痛みと流血でまた意識が遠のきかけたが、このまま気絶したら、間違いなく死ぬと思い、自分のサーフボードに捕まって、声を上げた。

「助けて!」

 ホオジロザメは水面から背びれを出して、サラを中心にぐるぐるまわっている。サラが出血多量で死ぬことを待っているのだ。

「お願い! 誰か!」

 そのころには異変に気づいた救助隊のモーターボートが真っ直ぐサラの元に向かった。サメの出現と少女が襲われたことでビーチはパニックに陥っていたが、救助隊は焦らず冷静に対処した。ホオジロザメは一度で食い殺すのではなく、一度噛みついてから放して、獲物が弱っていくのを待つ習性がある。だから、落ち着いて現場にかけつけることさえできれば、少女を助けることができると確信していた。

 間もなくサラは救助ボートに引き上げられた。

「大丈夫だ」救助隊員が言った。「もう大丈夫だ。きみは助かったんだ」

 ホオジロザメはもういなかった。サメはモーターボートが近づくと、用心深く、沖のほうへ泳ぎ去っていった。



4.

二〇一六年七月一日 一六時〇三分

日本 東京


 優一はぶら下がっていた。二人の刑事が優一の腕をしっかりつかんでいて、屋上に引き戻す。

 優一は叫んでいた。この世の全てが自分に襲いかかってくるのに、どうして生きながらえるのか。わめき散らし、泣きじゃくり、首をふりまわす。二人の刑事は優一を取り押さえながら何度も何度も繰り返した。

「生きてくれ、生きてくれ、生きてくれ」

「きっときみが生きることのできる場所がある。場所がある。場所があるんだ。必ず絶対に」

 力が抜けて、呆けたようにドアのほうへ目をやると、両親がいた。

 泣いている。

 優一はがっくりと頭を垂れた。涙がポロポロこぼれ落ちた。

「生きたい」拳を握り締めた。「必ず幸せに生きてやる」



3.

二〇一六年七月一日 一七時三〇分

インド ジャイプル


「今日は暑いな」

 パンディがよりかかった柵の上から、ポロの格好をした男が覗き込むような姿勢で話しかけて来た。

 めまいが止まらず、男の顔がぼやけて、よく見えないが、どうも紙幣を一枚手にしているらしかった。

「ジュースをくれ」

 どうせ引っ込められるのだと思って、パンディが言った。

「氷が入ってないからぬるいんだ」

「それでもいい」

「偽のバヤリースだよ」

「いいから。一本よこしな」

 パンディは紙幣を受け取って、クーラー・ボックスから一本、ぬるい偽バヤリースを取り出した。

 男は首をふった。

「それは取っておけ。飲んでいい。じゃあな」

 パンディは紙幣と偽バヤリースを手にしたまま、ぼうっとしていたが、このままでは頭がパアになるなと思って、偽バヤリースのタブを起こした。オレンジ果汁が入ってなくて、ぬるま湯のようでしつこい甘さだったが、それでも喉の渇きはあっという間に取れて、めまいが少しおさまった。まるで生き返ったようだった。

 そして、少しはっきりした頭で紙幣を見ると、なんと十ルピー札ではなくて、五百ルピー札だった。

 パンディは驚いて、男を探したが、どこかへ行ったらしく、もう影も形もなかった。

 パンディは唾を飲み込んだ。

 そして、クーラーボックスを開けると偽バヤリースを飲みたいだけ飲んでやった。



2.

二〇一六年七月一日 二〇時五六分

シリア? ジャラブルース?


 砂が服のなかに入りこんで、じゃりじゃりと不快だった。カリマと両親も黙っている。本当に北へ進んでいるのかも分からなかった。確かに左手へ陽が沈んだはずだが、カリマは何か邪悪な意志がはたらき、その邪悪な意志が太陽を使って、カリマと両親を騙しているような気がした。

 自分たちはトルコの難民キャンプの代わりにイスラム国の陣地へ向かわせている気がしてならなかった。そして、あのケダモノたちに捕まって、公開処刑される……。

 斜面を上がろうと這っていた父親が突然動きを止めた。斜面の向こうから銃と懐中電灯を持った男の黒い影が現われたのだ。

 やっぱりそうだった! 悪魔が太陽を使って、お父さんをだました! そのせいでわたしたちは死ぬんだ!

 すると、悔しくて悔しくて涙がポロポロ流れそうになった。

 だが、そのかわりにカリマの父親は立ち上がって、ポケットからパスポートを取り出した。

 そして、慣れない英語で「ウィー。レフュジー」と繰り返した。

 父親は後ろを向いて、母親とカリマに登ってくるよう手招きした。カリマは母親にくっついて、銃を持った男のそばを通り過ぎた。斜面のてっぺんへ登ると、兵士に懐中電灯で顔を照らされた。思わず目を閉じた。

 まぶたを開けたとき、カリマの目に砂色のテントが何十、何百、何千と並んでいるのが飛び込んできた。

 カリマの父親が膝をついて、アッラーは偉大なり、と唱えた。

「助かった。助かったんだよ、カリマ」

 カリマは父を、母を、テントの列を、そして、銃を持った兵士の顔を見た。

 空色のヘルメットをかぶった兵士は優しく笑いかけた。これまで銃を持った大人を見る機会はいくらでもあったが、こんなふうに笑う大人は初めて見た。



1.

二〇一六年七月一日 二三時五八分

イギリス ロンドン


 プルハム・パレス通りのチャリング・クロス病院。

 ドクター・ヘイゲンが集中治療室から出てきた。

 ベンチから立ち上がったダンフォード夫妻に、ドクター・ヘイゲンはサミュエルが奇跡的に一命を取りとめたこと、リハビリが必要だが、障害が残ることはないことを告げた。

「サミュエルに会えますか?」

「今日はまだ。でも、じきすぐに」

 夫妻は何度もドクター・ヘイゲンの手を握って、ありがとう、と繰り返した。ドクターが去ると、ダンフォード夫妻は一人の家族も失わなかったことを実感しようと身を寄せ合った。

 ダンフォード氏の腕時計は二三時五九分五九秒を指していた。



0.

二〇一六年七月一日 二四時〇〇分


全世界における子どもの死亡数 〇名

タイトルはエドワード・ゴーリー作の絵本「ギャシュリークラムのちびっ子たち」にヒントを得ました。

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