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新作ですが、今回は短編です。短いですが、シンプルに年齢とともに移ろう女のメランコリーを切り取ってみたいと思いました。
今回もどうぞ最後までお付き合いください。
山科亜季は朝起きたときからメランコリーな気分にさいなまれていた。今日は休日だというのに。
亜季はシャワーを浴びて、トーストにスクランブルエッグとコーヒーで簡単な朝食を済ませた。そうしてクローゼットの前に立ち、三十歳を前にして増え始めた、落ち着いたデザインのドレスを物色した。
ウェブデザインを手がける会社で総務部に配属の事務職、それが亜季の今の職業である。横浜の山下町にあるその会社には、都内の女子大を卒業してすぐに入社した。もう七年になる。会社の事務職としてはすでにベテランの部類に入っており、時折「お局」という揶揄も耳にすることがある。直接面と向かって言われたわけではないが、会社の給湯室や女子トイレを通りがかったときに耳にして、年下の女性社員が本人を見かけて慌てて俯くシーンも何度かあった。
――ああ、私ももうお局か。
チャコールグレーやアイボリーの洋服の中で、ひときわ目を引くターコイズブルーのドレスを手にして、亜季は大きなため息を吐いた。そのドレスは亜季が持っている服で、唯一といってもよいカラフルな服だった。
同じ部署には亜季より三つ年下の山下彩音がいた。彩音はもともと営業部に配属され、営業事務を任されていたが、昨年亜季のいる総務部の女性が一人退職したため、その代わりとして一年前に総務部に配置換えとなった。彩音は若手女性部員の親分といったポジションにいた。彩音が亜季を揶揄することもあったが、彩音が他の社員から揶揄されることはなかった。着ている洋服のせいもあろうが、彩音は実際の年齢より若く見えた。若手社員が彩音に下す評価も、亜季のそれとは対象的だった。
「彩音さん、その服どこで買ったんですか?」
「いやねえ、安物よ。買ったお店なんて、恥ずかしくていえないわ」
そんな他愛もない会話を通して、彩音は若い女性社員にとって身近な存在であることをアピールすることに成功していた。そうしてどちらかといえば地味ないでたちを好む亜季には、そのような言葉をかける者はいなかった。
山下彩音が結婚式の案内状を亜季に持ってきたのは、二週間前のことだった。相手はシステム開発部の彩音と同期で入社した坂下雅彦である。後から聞いた話では、二人は入社当時から付き合い始めていて、結婚も時間の問題だったという。だが亜季はその噂をほんの十日前に始めて知った。
その結婚式が今日である。
昨日から亜季は憂鬱だった。式そのものはチャペル式にせよ、神前式にせよそれなりに荘厳である。しかしそのあとに続く披露宴を考えると、亜季はメランコリーが心の中にたちこめるのを抑えることができなかった。
主賓や親族のいたずらに長いだけの挨拶や友人代表として紹介された人たちの余興。そんなものを見ながら食事をしなければならない数時間のことを思うと、そのために費用をかけて披露宴を行なうことが、亜季にはとんでもなく無駄なことに思えるのだった。
ふと時計を見ると十時を回っていた。結婚式は十二時から予定されており、案内状には十一時半までに集合してほしい旨が書かれていた。結婚式と披露宴が行なわれる、横浜の元町にある「迎賓館」の名前を持つ式場までは、東横線沿線の亜季の家からは四十五分くらいかかるだろう。逆算すると準備の時間は三十分そこそこしか残されていない。
――いけない、式に間に合わなくなってしまう。遅刻したら、会社に行ってから、また何をいわれるかわからないわ。
急いでターコイズブルーのドレスに着替え、その色に合わせたメーキャップを始めた。鏡に映った亜季の目には、いつしか細かい皺が入っていた。またため息を吐きたくなった。全体に肉付きが良く、丸い顔はまだまだ張りを保ってはいたが、鏡の中の亜季の目元には確実に彼女の年齢が反映されていた。亜季は目の周りに入念なメイクを施し、昔から自慢だったくっきりとした二重まぶたにもターコイズブルーのアイラインを引いた。
首にまだ二回ほどしか使ったことのないブラックパールのネックレスを飾り、同じ材質でできたピアスを耳に着けた。あらためて鏡に向かって立つと、一応自分でも満足できる程度の出来栄えだった。
ふっと一つ息を吐いて、黒いハンドバッグに一度はしまったヴァージニアスリムを取り出し、細い煙草の先に火をつけた。ゆっくりとメンソールの香りのする煙を胸いっぱいに吸い込むと、ため息とともに煙を吐き出した。晴れた空からの陽光が窓から射し込んで、その光の筋に煙草の煙が絡みつき、不規則な模様を浮かび上がらせていた。
時間を気にして、半分ほど吸ったヴァージニアスリムをテーブルの上の灰皿にもみ消した。吸い口に付いた深紅のルージュの跡が艶かしかった。
煙草の箱を再びハンドバッグにしまうと、亜季は席を立った。三月半ばの陽気では、ドレスだけで外に出るのはやや肌寒いと思い、白いスプリングコートを羽織ると駅に向かった。コートの前からのぞく鮮やかなターコイズブルーの服に、道行く人たちの視線が向けられて、亜季はややこそばゆいような気持ちで駅までの道を歩いた。
道すがら、亜季は学生時代に出逢って、ちょうど彩音と同じ歳の頃に別れた泉川卓也のことを思い出していた。
――卓也は今頃、どうしているだろう?