恋愛の定義
「馬鹿らしいと思わない?恋愛って」
無意識に出ていた言葉だった。特に何も考えず、ふと頭に過ぎった言葉を、一文を、口にしてしまったのだ。恋人の前で。
「え、なんで…?お、俺、何かしたか…?」
何を勘違いしたのか、あたふたとする彼は何だか可愛らしかった。私は目の保養に満足してから、彼の誤解を解く。
「違うわよ。別にあなたが要因ではないわ。何となくよ」
「…ならいいけど」
そうね、と私は考えるポーズをとる。左肘を曲げ、右の掌を頬に当てる。いわば、考えている振りだ。
「――愛し合うこと自体は、素晴らしいと思うわ」
そして、彼に持論をぶつける準備をする。
「ほら、人を好きになるなんて、人の短所を含めて好きになるだなんて、難しいじゃない?」
私は、目をぱちくりしている彼を様子見しながらも、言葉を続けた。
「人の長所を好きになるのも、難しいというのに」
「…?長所というのは、好きになるものじゃないのか?」
「場合に依るじゃない。人というのは、人の長所を嫉んでしまうものよ。だから完璧人間は嫌われるんじゃない」
そもそもそんな人間はいないけれど、と私は付け加えた。彼は相変わらずの気の抜けた表情で、私に問う。
「…じゃあ、バカップルはどうなるんだ?あれほど好き合えるというのは、お互い長所しか見えていないように思えるが…」
その言葉に思わず苦笑いを浮かべる。その浅はかな考えにか、またはそのバカップルという存在に対してか。あるいは、どちらに対してかもしれないけれど、鼻で笑ってしまった。
「ああ…あれは論外でいいわよ」
「でも、あのバカップルも、恋人という関係なのだから、考えるべきじゃないかな?」
私は、彼が長話を望んだと解釈し、彼に言った。
「じゃあ、その前に話させてもらってもいいかしら?」
「え?…あ、ああ…」
彼は少し驚きの表情を見せながらも、すんなりと肯定した。コホン、と私は咳ばらいをし、自身の考えを、恋人である一つ上の彼にぶつける。
「恋人がいるのは、素晴らしいと思うの。何十億といるこの人々の中で、愛し合える人がいるというのは素晴らしいと思うわ。確率がとてつもなく低いのに巡り会えるだなんて、素晴らしいと思うわよ、私だって」
一呼吸、時間をおく。
「でも…その割には、人数が多過ぎると思わない?」
そして又、一呼吸。淡々と続ける。
「結婚なんて、奇跡に近いのよ?何十億分の一で、一生一緒に暮らせると出会うのも難しいというのに、更にお互い思い合わなければいけないだなんて。だのに。…多過ぎるのよ、人数が」
声を低くしすぎたか、流石の彼も真面目な表情と化す。
「ま、簡単に言ってしまえば。結局、実際に恋してる人なんて極僅かなんでしょうねっていう、極単純な話よ」
「だったら結婚まで至らないんじゃないか?」
何も考えようとしない彼は、私に問う。
「…呆れた」
彼に聞こえないよう、呟いた。私のことをここまで理解していないのかと、苛立ちが増す。
「だから、勘違いしているのよ、人間は」
淡々と続けていたはずが、投げやりに言葉を放つ。
「感情っていうものは、自分で判断するしかないでしょ?親に教えてもらうこともできない。恋なのか、友人として好きなのかは、自分で判断するしかないの」
「お、おい…里沙…?」
落ち着け、と彼が向ける腕を払い、私は呼吸を整える。
「…つまり、ね。この世には、唯の好きと恋とを履き違えている人が多いのよ。一目惚れなんて論外ね。あんなの恋とは言えないわ」
確か、彼が私を好きになった理由は一目惚れだった気がする。
「何で、そう言いきれる?」
彼が動揺しているのは一目瞭然だった。
「別に。理由なんてないわ」
鼓動が速くなっているのを感じながら、私は彼を見る。俯いてばかりの彼を直視する。
「ねぇ、利久」
と前置きをし、私は話を転換する。
「恋が超えたら、どうなると思う?」
「…いや、考えたことはないけど」
上目遣いで彼は私を見た。何を言ってるんだ、とでも言いたげに。
「人が人に対して思う、単純な感情のレベルよ。簡単にわけると五つ」
そう言いながら、私はポケットに手を突っ込み、メモ帳を取り出す。一枚だけ切り取り、一本の縦の直線を書いた。それを大体に五つにわける。
「それは、さっきから言ってる友人的な意味の『好き』とか、『恋』とかも入るのか?」
「ええ、まぁそういう意味よ」
上から二つ目の所に『恋』、その下に『好き』と書き入れる。彼は上から四つ目の部分を指差しながら呟いた。
「次は…『嫌い』か?そしたら一番下はどうなる?」
「違うわよ」
私はシャーペン走らせながら言葉を返す。四つ目に『憧れ』、五つ目に『嫌い』と。
「憧れ…?」
「ええ、この中に一目惚れを含ませてもらうわ」
余程衝撃を受けたのか、彼の顔が一変する。
「好き以下と…そう言いたいのか」
「まあ、そういうことになるわね」
彼はさっき聞いたばかりの台詞を繰り返す。何でそう言いきれるのか、と。
「じゃあ聞くけれど。貴方は、憧れの人物…そうね、例えば野球選手とか。貴方の場合は剣道かしら?そういう方と、親友、どちらかを選べと言われたらどうする?」
「その質問は流石に――」
「いいから答えて」
彼の言葉を遮り、私は強く言った。彼の目が暗くなっていることは承知の上で、更に追い詰める。しかし、全く答えようとしない彼に嫌気が差し、答えを強要する。
「親友を、『好き』な人を選ぶでしょ?」
「で、でも、俺はお前を選ぶぞ…!」
彼は慌てて立ち上がり、声の震えを気にせず反論した。今にも泣きそうな彼を見て、何故か私は笑みが零れた。
「それは、既に『憧れ』から『恋』へと変化してるからでしょ?別に、私は貴方の『恋』を否定するだなんて、一言も言ってないわ」
静かに彼に微笑みかけると、彼は安堵の表情を見せた。ドサッと椅子に座り直し、吐息混じりに言う。
「…悪い、続けてくれ」
その言葉を確認すると、私は紙をシャーペンで叩く。まだ何も書いていない、一番上の部分を。
「ここは、なんだと思う?」
「何って言われてもね……嫉み、とか?」
無理矢理頭から捻り出したのか、しかめっ面で彼は答えた。その返答に私はばーか、と罵倒する。
「それは『嫌い』にも、『好き』にも、『恋』にも属するわ。だから違う」
そして言い切る。私は断言する。
「『依存』よ」
私は 一番上に、依存、と書き入れ、それにバツ印を重ねた。
「恋を超えてしまった、もはや恋とは言えない、馬鹿げたものよ」
「依存…か。そんなに駄目なものなのか?」
「ええ、相手に迷惑をかけていく一方よ。何も良いことなんてない」
私は言葉を吐き捨てる。紙に、シャー芯を押し込みながら。
「例外はいるけれど」
「例外?恋愛を超えた、依存をして幸せになる奴らがいるのか?」
私は無言で頷いた。
「それがさっき言っていたバカップル共よ」
軽蔑の意味を込め、私は言った。
「あれは依存なのか?」
「ええ。依存し合ってしまってるのよ、お互い」
「ふーん、成る程な」
彼はどこか不満げな、不満足げな表情をした。成る程という言葉に、最早意味など篭っていないように聞こえた。
「…なによ」
「いや、別に」
ふいっと彼は後ろを向き、こちらに背を向ける。そして振り返ると同時に、また話し出す。
「お前の考えはよくわかった」
気味の悪いほどの笑みを浮かべながら、腹ただしいことを。
「お前が馬鹿で餓鬼ってこともな」
「……なんですって?」
静かに言ったとは裏腹に、私はキッと彼を睨みつけた。何も考えを持たず呑気に過ごしている輩に、餓鬼などと言われる筋合いはない。
「恋愛について語るなんて、まだまだ早いよお前には」
「じ、じゃああんたにはわかるっていうの?」
「いーや、わからん。さっぱりだ」
ニッと笑いながら彼は言った。しかし、直ぐに真面目な表情に戻り、私を見る。
「でも、これだけは言える」
「な、なによ…」
見たこともないその表情に、私は何も言えなくなってしまった。
確かに、と前置きをし、彼は言った。
「そうだとは思う。依存は恋愛の内には入らないということには同意する。恋を超えてしまえば、それは恋とは言えない」
彼はそう、明言した。続け、でもね、と反対の論述を提示する。
「始めに里沙が言ってた、恋の勘違い。あれには同意しかねる」
「…何故?」
正論を言ったつもりが、彼は考えることなく述べる。
「君は、世の恋人達を批判するほどに偉くないからだ」
「でも、勘違いしてるのは事実で――」
「ああ、その通り。勘違いしてるだろう。だからこそ、人は別れを何度も繰り返すんだ」
別人かと思うほど、彼は力強く言った。言葉を止めようともしない。
「恋じゃないと気づき、別れ、恋と勘違いし、また付き合う。その繰り返しだ」
「だから私は馬鹿らしいと言ってるのよ」
「でも、何度も繰り返さないといつまでもわからないだろうが!」
「…!!」
あまりの大声に、ビクッと身体を縮こませる。叱られているわけではないのに、何故か怖かった。
悪い、と一言彼は呟き、それでも尚続ける。
「恋なんて誰もわからない。わかりっこない。目に見えないものを説明するなんて、無理だ。俺にだって、里沙にだって」
「だから私は…」
「…でも、それで人の恋を否定するなんて、しちゃいけない。付き合ってる時点でそれが恋かどうかだなんて、判別しようがないんだから」
子供を諭すかのように、彼は私の頭に手をおく。
「感情は自分のもの。他人が口出しできるものじゃない。それが恋がどうか決断するのは自分自身だ」
「でもそれじゃあ、出会って、別れて、また出会って、別れての繰り返しになるじゃない」
「別れの何が悪い?それで恋を学べるのなら結構じゃないか」
私の考えを、悉く壊していく。反論をしても、また反論される。その反論をしても、又しても反論が返ってくる。その繰り返しだった。
彼は表情を変えない。私を馬鹿にしているような、そんな顔つき。
「それこそ、何十億分の一でしかない里沙が、それ故に恋人たちを否定するなんて、馬鹿らしい話しじゃないか」
「じゃあ、気付いてない人たちはいつまでも別れ続けるってことになりじゃない。それはあんまりよ」
「…お前が言ったんだろ、恋は言葉で説明しようがないってさ」
呆れからか、彼は溜息をつく。何回言えばわかるんだ、と。
「説明できないのなら、自分で探さなきゃわかんねぇだろ。体験していかなきゃ。最後にずっと続いた人だけが、出逢うべきだった人。それでいいじゃねぇか」
納得いかない、そんなことを思っていると、彼は置いていた手をポンポン、と叩いた。
「別れが嫌だという気持ちはわかる。人間誰しもそうだ、お前だけじゃない」
力強かった声が、突如優しくなる。いつもの彼だ。
「でも、出逢う為なら、犠牲にしていかなきゃいけないんだよ」
「……わかってるわよ、そのくらい」
いつかきっと、私も犠牲になるのだろう。彼の隣には、違う女がいるのだろう。そんなことを思っていた。
「好きよ」
又もや無意識に、なんとなく、言う。彼のポカンとした表情は、何度見ても可愛かった。
「……いつも言ってなくて、悪かったわね」
「いや…別に気にしてないよ」
言わない理由わかった気がするし、と彼は言った。
「ま、何十億分の一であることを祈るばかりだよ、俺は」
照れ臭そうに微笑むと、思わず私も笑みを零す。
「ええ、祈っておいて頂戴」
そして私は、らしくない満面な笑みで答える。
「恋が何なのか、知りたいもの」