悪役令嬢を国外追放する馬車の御者ですが、寄り道の約束が多すぎます
第一章 追放馬車の三つのお願い
新人御者としての私の初仕事が、まさか罪人を乗せて国境へ向かう追放馬車だとは思わなかった。
しかも、幌付き馬車の後部座席に乗り込んだ元伯爵令嬢は、発車直前の私に向かって、ひどく申し訳なさそうにこう言ったのだ。
「ノエミさん。不躾なお願いなのですが――国境へ向かう前に、三か所だけ寄っていただけないでしょうか」
私は御者台の上で、運送会社から渡された運行指示書と懐中時計を見比べた。
時計の針は午前八時を回ったところ。国境の検問所が受付を閉じるのは夕暮れの六時だ。王都から国境までは、寄り道なしでも五時間半はかかる。寄りたい場所を聞き取り、指示書の到着期限と照らし合わせれば、下町の職人街を抜ける回り道に加え、街道沿いで馬を休ませる時間まで見込んでも、ぎりぎり間に合う計算だった。
問題は時間配分だけでなく、乗客の立場だ。
「アニカ様。私はただの新米ですが、一応は護送の任を負っています。追放処分の対象者をあちこち連れ回すのは、規則上あまり褒められたことではないのですが」
「はい、重々承知しております。私個人の我儘でお手を煩わせるわけにはまいりません。ただ……どうしても今日のうちに返しておかなければならない物と、果たさなければならない約束があるのです」
アニカ・ラングレー様。
数日前まで王都の社交界を騒がせていた、いわゆる『悪役令嬢』である。最近ではすっかり流行しており、みずから悪役令嬢を志願する者までいるらしい。いったい誰が持ち込んだ概念なのか、どんな決まりがあるのかも知らないが、偉いお貴族様方のお考えは、庶民にはさっぱりわからないものだ。
街の噂では、彼女は私利私欲のために公文書を偽造し、素性の知れぬ不審者を王都へ引き入れて治安を乱した大悪人、ということになっていた。貴族裁判の席でも一切の弁明を拒み、関係者の名を頑として明かさず、すべての責任を一人で引き受けて国外追放を受け入れたのだという。
もっとも、御者台から振り返って見る限り、凶悪な犯罪者には到底見えなかった。
濃紺の簡素な旅装に身を包んだ彼女の膝の上には、古びた籐編みのパン籠と、布に包まれた角形の小箱が大事そうに載せられている。足元にある私物も、小さな柳行李がひとつだけだ。身一つで放逐される貴族特有の悲壮感というよりは、夜逃げの最中に隣近所への義理立てを気にしている小市民のような佇まいだった。
「……寄り道ができるのは、日没の検問に遅れない範囲だけです。それと、公の記録に残るような騒ぎは起こさないでください」
「ありがとうございます、ノエミさん! ご迷惑は決してかけません」
ほっと胸を撫で下ろしたアニカ様は、令嬢らしからぬ深々とした一礼を返してきた。
私は手綱を握り直し、相棒の栗毛馬に出発の声をかけた。
その前に、アニカ様が幌の脇から馬へ向かって、ちょこんと頭を下げた。
「今日は長い道のりになりますけれど、どうぞよろしくお願いします」
栗毛馬が、ふすん、と鼻を鳴らす。
「お返事をしてくれました」
「早く出せと言っています」
「まあ。お仕事に熱心なのですね」
褒められた当の馬は、私よりよほど落ち着いた顔をしていた。
この馬車で初仕事に緊張しているのは、どうやら私だけらしい。
車輪が王都の石畳を転がり始める。重罪人の国外追放というには、いささか間の抜けた旅の始まりだった。
第二章 籠を返して約束が増える
一か所目の寄り道は、職人街の外れにある小さなパン屋だった。
朝の焼き立てを求める客の波が引いた直後らしく、煙突からは細い煙が立ち上り、あたりには香ばしい小麦と酵母の匂いが漂っている。
「ここで待っていていただけますか。すぐに戻りますので」
馬車を裏通りの荷降ろし場に停めると、アニカ様は膝の上のパン籠を両手で抱え、足早に店先へと向かった。
国も逃亡などはないだろうと踏んでいるのか、特に護送に気を遣わず、普通に送り届ければいいというお達しだった。追放にしては、ずいぶんとのんきな旅行だ。
アニカ様が戸口の鐘を鳴らすと、奥から粉まみれのエプロンをつけた若い娘が飛び出してきた。
「アニカ様……!?」
「オティリーさん。突然押しかけてごめんなさい。以前お借りしたこの籠、洗ってお返しするのが遅くなってしまって」
アニカ様は丁寧に磨かれた籐籠を差し出し、取り繕うように微笑み、早口で続けた。
「私、急に遠くの親戚のところへ行くことになりまして。もうこの街には戻りませんので、お別れを言いに来ました。短い間でしたけれど、本当にお世話になりました。どうか、お元気で」
丁寧な挨拶だった。
けれど、相手の返事を待つ間がなかった。
店先のエプロンの娘――オティリーと呼ばれた少女は、籠を受け取ろうとはしなかった。
彼女の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まり、次の瞬間には激しい怒りの色が灯った。
「……親戚のところ、ですって? 嘘をおっしゃらないでください!」
「オティリーさん?」
「街の噂を聞きました! 身元証明の件で、今日、国外追放されるって! どうして……どうして私に一言も相談してくださらなかったんですか!」
アニカ様が息を呑み、周囲を気にして声を落とす。
「しっ、声を落としてください。あなたには関係のないことです。あの証明書は、私が勝手に自家の元使用人だと書いただけのもの。あなたの身元に落ち度はありません。役人にもあなたの名前は出していませんから、あなたが咎められることは絶対に――」
「そういうことじゃないんです!」
オティリーの鋭い叫び声に、繋がれた栗毛馬が耳をぴくりと動かした。
「私が怒っているのは、私の立場のことじゃありません! 助けたら、それで終わりですか。私、初めて自分で焼いたパンを、まだ食べてもらっていません!」
その言葉は、路地の石壁に痛切に跳ね返った。
私は御者台の上で、思わず手綱を握り直した。
身元証明書。
この国で、故郷を離れて別の町で定職に就くためには、領主か元の雇い主が発行する証明書が絶対に必要だった。身元を保証し、万が一の際の責任を担保するための制度だが、実態は違った。過酷な領地から逃げ出してきた人々に対し、元の領主が証明書を出すはずもない。結果として、働く意欲も腕もある人間が、ただ『紙がない』という理由だけで門前払いを食らい、まともな職に就けなかったのだ。
アニカ様が犯した罪は、まさにその紙の偽造だった。
逃げてきた人々に、ラングレー伯爵家の元使用人だという虚偽の証明書を書き与え、職に就けるよう便宜を図った。発行枚数の食い違いから不正が露見した際も、彼女は頑として受領者の名を明かさず、一人ですべての罪を被ったという。
「オティリーさん、でも私は……もう罪人ですから」
「罪人だろうとなんだろうと、私の恩人です! 証明書を書いていただいた日、言いましたよね。『いつかあなたが一人前のパン職人になったら、最初の焼き立てを買いに来るわ』って!」
オティリーは厨房へ駆け戻ると、湯気を立てる大きな紙包みを抱えて戻ってきた。
粗い麻紐で結ばれた包みからは、香ばしい胡桃とライ麦の香りが力強く立ち上っている。
「今朝、一番に窯から出したんです。丸ごとの胡桃パン。私の、初めての看板商品です」
オティリーは包みを突き出し、腰に手を当てて胸を張った。
「お代は、きっちりいただきますからね」
「えっ……申し訳ありません、オティリーさん。今はあまり持ち合わせがなくて」
「お金じゃありません。まずは感想をひとつ。職人の目の前でお願いします」
「それが、お代になるのですか?」
「最初のお客様だけの特別料金です!」
アニカ様は目を瞬かせ、持っていた籠をそっと足元に置くと、困ったように微笑んで温かい包みを受け取った。
冷たい風が吹く路地で、湯気がアニカ様の白い頬を撫でる。彼女は躊躇いながらも包みを解き、まだ熱の残るパンの端を小さく千切って口に運んだ。
一噛み、二噛み。
アニカ様の喉が小さく動き、大きな琥珀色の瞳から、雫が一粒、ぽろりと零れ落ちた。
「……とても、美味しいです。外側が香ばしくて、中は……驚くほど、柔らかくて」
「はい。前金、確かにいただきました!」
オティリーは満足そうに頷き、ようやく足元の籐籠を抱え上げた。
そして、アニカ様の顔をまっすぐに見つめ、きっぱりと言い放った。
「籠は返していただきました。でも、残りの代金はまだです。どこへ行っても、次のパンも食べてもらいますからね。これで最後のお客様になったつもりなら、承知しませんから!」
「オティリーさん……」
「私、もっともっと上手になって、大きな店を出して待っていますから。約束ですからね!」
そう言ってオティリーは、泣き顔を隠すように店の奥へ駆け込んでしまった。
残されたアニカ様は、大きな紙包みを抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
私が御者台から「アニカ様、そろそろ」と声をかけると、彼女は慌てて涙を拭い、小走りで馬車に戻ってきた。
「お待たせして申し訳ありません、ノエミさん。あの……このパン、荷台の隅に載せてもよろしいでしょうか」
「構いませんよ。でも、冷めないうちに少し召し上がったほうがいいです」
そう言ったところで、私のお腹が鳴った。
馬の鼻息だったことにするには、少々無理のある音だった。
アニカ様はパンと私の顔を交互に見て、口元を押さえた。
「……道中でひと休みするとき、ノエミさんにも召し上がっていただきたいです」
「お気遣いなく」
「感想が二人分あったほうが、オティリーさんも喜びますから」
そう言われると、断る理由を探すほうが難しかった。
「では、そのときに少し」
「はい。少し、大きめに残しておきますね」
量の決定権は、最初から私にはないらしい。
幌の中に乗り込んだアニカ様は、パンの包みを、まるで壊れ物のように胸元で抱いていた。
返却して関係を清算するはずだった寄り道は、結果として、温かい未来の約束を増やすことになっていた。
第三章 名前入りの試作品
二か所目の寄り道は、職人長屋が密集する裏通りの仕立屋だった。
看板も出していない小さな工房の扉を、アニカ様が控えめにノックする。
「オズモ爺さん、いらっしゃいますか。アニカです」
重い掛け金が外れ、現れたのは、仕立て用のメジャーを首から下げた白髪の老人だった。
深く刻まれた眉間の皺が、訪問者の姿を認めた瞬間に微かに緩む。
「おお……アニカのお嬢さんか。珍しいな、こんな朝早くに」
「工房長、これを。職人街の細工師に頼んでおいた眼鏡の修理が、ようやく仕上がったのです」
アニカ様は持っていた小箱の蓋を開け、中から真鍮の縁で補強された老眼鏡を取り出して手渡した。身分の隔たりを感じさせない穏やかな人柄と、誰の話にも分け隔てなく耳を傾ける姿勢が、皆にアニカ様へ気安く語りかけさせるのだった。
老人は震える手でそれを受け取ると、陽の光に透かしてレンズの傷と蔓の噛み合わせを改めた。
「……蔓の歪みが直っとる。レンズの曇りも、すっかり取れとるな。ありがたい。これがないと、黒い布地の細かな縫い目がまったく見えんで、仕事を畳むしかないかと覚悟していたところだ」
オズモと呼ばれた老職人は、眼鏡を鼻梁にかけ、瞬きを繰り返した。
視界が戻ったのだろう。老人の視線が、アニカ様の顔から、その薄手の外套、そして路地に停まる私の馬車へと移る。
「……お嬢さん。そのなりは、どういうことだ」
「いえ、少し遠出をすることになりまして。眼鏡のお渡しが遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした。これでお仕事が続けられますね。ご迷惑をおかけしました」
ここでもアニカ様は、頭を下げてその場を立ち去ろうとした。
だが、職人の目は誤魔化せなかった。
「遠出だと? ……その馬車、御者台に辻馬車組合の長距離標識がついとるぞ。おまけに、お嬢さんが羽織っているその外套、裏地のない春物じゃないか。これから北の峠を越える気か?」
「それは……」
「待っていろ」
老人は踵を返すと、工房の奥へと引っ込んだ。
戻ってきたその腕には、目の詰んだ厚手の暗緑色のウール布が抱えられていた。
「ほら、こっちへ来なさい」
「えっ?」
「えっ、ではない。襟元の留め具が緩んどる。風が入って凍えるぞ」
老人はアニカ様を工房の土間に立たせると、針山から太い手縫い針を抜き、蠟引きの糸を通した。
眼鏡の奥で、職人の目が鋭くなった。老人の指先が、流れるような手際で外套の解れを掬い上げ、頑丈な二重縫いで留め具を固定していく。
「……オズモ爺さん。私、お代を払えるような持ち合わせがありません」
「誰が代金の話をした。この眼鏡の礼だ。それと、この肩掛けを持って行け」
老人は縫い終えた外套の上から、畳み目の残る大判のウールショールを、丁寧にアニカ様の肩へ巻き付けた。
「前に縫っておいたものだ。試作品だがな」
「でも、丈がぴったりです」
「偶然だ」
「留め具も、私の外套と同じ位置に……」
「よくある位置だ」
アニカ様が、肩掛けの裏をそっとめくった。
「こちらに……私の名前が、刺繍されています」
老人はわずかに視線を泳がせ、それから咳払いをひとつした。
「……御者さんを待たせるんじゃない」
「オズモ爺さん……」
「端切れを集めて縫ったものだが、暖かさだけは保証する。撥水用の油も引いてある」
老人はアニカ様の肩に置いた手に、ぐっと一度だけ力を込めた。
「お嬢さんが繋ぎ止めてくれたこの手と眼鏡は、今もこうして動いとる。……元気で行くんだぞ」
工房の扉が静かに閉ざされた。
馬車に戻ってきたアニカ様は、立派なウールの肩掛けを身にまとい、荷台のパンを見つめて小さく呟いた。
「……用事を済ませて、身軽になるはずでしたのに」
「荷物が増えましたね」
御者台から振り返って私が言うと、アニカ様は小さく身を縮めた。
「本当に、申し訳ありません」
「謝るほどの重さではありませんよ。ちゃんと運びますから」
「ノエミさん……」
私は手綱を留め、御者台を降りた。
「さあ、乗ってください。足を滑らせないよう、手を貸しましょうか」
「あ……はい。ありがとうございます」
差し出した私の手に、アニカ様の細い指先が重なった。
「ノエミさんの手、あたたかいですね」
「手袋です」
「それだけではないと思います」
私は返事の代わりに、車輪の留め具を確かめた。
さっきも確かめた。
「……次は、物をいただくような用事ではありませんから」
座席に乗り込んだアニカ様が、小さく息を整えながらそう言った。
第四章 ポルカの明日とあなたの明日
三か所目の目的地は、王都の城壁を出てすぐ、下町と旧街道を隔てる大橋のたもとだった。
石造りのアーチの下には、荷運び人や船頭たちが寝泊まりする小屋が並んでいる。
馬車を橋桁の影に停めると、元気な犬の吠え声が聞こえてきた。
「わふっ! わふっ!」
小屋の柱に繋がれていたのは、白い靴下を履いたような模様の、足の太い茶色い雑種犬だった。
馬車の気配に気づいた犬は、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。
「ポルカ!」
アニカ様が駆け寄ると、犬は喉を鳴らして彼女の胸元に飛びついた。アニカ様は汚れも気にせず、犬の首回りを抱きしめて頭を撫でた。
「元気にしていましたか、ポルカ。……いい子ですね」
「おう、アニカのお嬢ちゃん。待ってたぜ」
小屋の中から出てきたのは、肩幅の広い革前掛け姿の大男だった。ロドリクという名の下町運送の荷運び頭で、アニカ様の手配した身元証明でこの船着き場の仕事を差配している男だ。
「ロドリクさん。急なお願いを引き受けてくださって、本当にありがとうございます。……私の向かう宿では、どうしても犬を置けないそうで」
「気にすんな。うちの連中も犬が好きだし、夜番の見張り犬が一匹欲しかったところだ。生活が落ち着いて引き取れるようになるまで、責任持って預かってやるよ。……で、これが言ってた引継ぎの紙か?」
「はい」
アニカ様は懐から、几帳面な文字でびっしりと書かれた紙束を取り出した。
「これで全部か?」
「はい。通常のお世話については」
「通常?」
「雷の日と、季節の変わり目については裏面に」
ロドリクが紙を裏返した。
そこにも小さな文字がびっしりと並んでいた。
「……お嬢ちゃん」
「はい」
「犬一匹の引き継ぎが、船着き場の夜番の当番表より詳しいんだが」
「ポルカは繊細なのです」
アニカ様は真顔で指を折った。
「朝は日の出とともに小屋の裏手を散歩させてください。馬車の大きな車輪の音を怖がります。食事は麦粥に肉の煮汁を混ぜたものを好みますが、骨は危ないので必ず取り除いてあげてください。それから、雷の晩は無理に外へ出さず、毛布の隅に潜り込ませて……」
「わかった、わかった。夜番は他の連中に任せる」
「それから、耳の後ろを撫でると喜びます」
「ここか」
ロドリクが分厚い手で撫でると、ポルカが気持ちよさそうに目を細めた。
ロドリクは大きな手を止め、神妙な顔つきになった。
「……ここですね」
なぜ急に犬にだけ敬語になったのか、私は聞かないでおいた。
「ロドリクさん、それと……」
アニカ様は胸ポケットから、端に小さな刺繍の入った使い古しの麻のハンカチを取り出した。
「最初の数日は、寂しがるかもしれません。これを寝床に置いていただければ、少しは落ち着くかと」
「おう、ありがとよ」
ロドリクはハンカチを受け取り、ポルカの鼻先に嗅がせた。犬はふんふんと息を吹きかけ、納得したように前足の間に顔を埋めた。
けれど、アニカ様が立ち上がりかけると、ポルカは片方の前足を彼女の膝に載せた。
アニカ様はもう一度しゃがみ、その足を両手で包んだ。
「……ええ。もう少しだけ」
ロドリクは何も言わず、彼女の裾が水たまりに触れないよう、脇にあった木箱を寄せた。
アニカ様がそこへ腰を下ろすと、ポルカは満足そうに顎まで膝に載せた。
犬一匹にしては、なかなか交渉がうまい。
私は懐中時計を確かめ、蓋を閉じた。もう少しなら、まだ大丈夫だった。
ロドリクは立ち上がり、じっとアニカ様を見下ろした。
「犬の散歩から雷の日の怯え方まで、手抜かりなしだな。……ところで、お嬢ちゃん自身の予定は?」
アニカ様が息を呑んだ。
「……宿は一か月分、手配されています。その先のことは、まだ」
「だろうな」
ロドリクはため息をつき、頭を掻いた。
「パン屋のオティリーも、仕立屋の親父も、俺たちもよ。みんなお前さんに紙を書いてもらって、自分の明日を繋いでもらったんだ。お前さんは犬の明日の寝床まで完璧に人に頼めるのによ……どうしてお前さん自身の明日については、誰にも何も頼まねえんだ?」
「私は、罪人ですから」
アニカ様は、視線を落として言った。
「身元証明の重さを知りながら、嘘の証明書を書きました。その報いとして国外へ追放されるのです。私には、誰かに明日を頼む資格なんてありません。……私が消えることで、皆さんにこれ以上の累が及ばないなら、それでいいのです」
「馬鹿野郎」
ロドリクは短く吐き捨て、小屋の奥からずっしりと重い麻袋を引っ張り出してきた。
「犬の飯はこっちで面倒を見る。お前さんも、ちゃんと食え。腹を空かせて倒れられちゃ、寝覚めが悪い」
どすん、と馬車の荷台に放り込まれたのは、日持ちのする干し肉と燻製チーズの大きな塊だった。
「ロドリクさん……」
「元気で行けよ。ポルカのことは心配すんな」
アニカ様は深々と頭を下げ、馬車へと戻ってきた。
車輪が動き出す。
橋のたもとから、ポルカの鋭い一声が響いた。
「わふんっ!」
振り返らないと決めていたのだろう。アニカ様は背筋を伸ばし、膝の上で握りしめた拳を震わせていた。
私は馬の手綱を握りながら、静かに息を吐いた。
第五章 ひとりで凍えなくていい
馬車は王都を遠く離れ、北へと続く平原の街道を進んでいた。
正午を過ぎ、街道沿いの休憩所で馬に水と飼い葉を与えた後、私たちは緩やかな上り坂へと差し掛かっていた。北から吹く風には、微かに雪の気配がある。
後方の荷台には、オティリーの胡桃パンと、ロドリクの干し肉やチーズが収まっている。オズモ爺さんの肩掛けは、アニカ様の肩で冷たい風を防いでいた。
荷が暴れないよう、私は街道の退避所に馬車を停め、麻紐を解いて縛り直すことにした。
「……ノエミさん。お手を煩わせて本当に申し訳ありません」
座席から降りてきたアニカ様が、萎縮した様子で私に頭を下げた。
「いただいたものは捨てられませんから、私の着替えを減らせば……」
「減らしません」
「でも」
「向こうで着替えがなくなったら困るでしょう。パンも服も、全部運びます。それが私の仕事です」
私の即答に、アニカ様は目を丸くした。
私は荷紐をぎゅっと引き絞りながら、言葉を続けた。
「アニカ様。三つの寄り道を見ていて、よくわかりました。皆さんのことを巻き込みたくないのですね」
「……はい」
「申し送り書には、受領者への追及も処罰もせず、今の仕事も続けられるとありました。あなたが一人で責任を引き受けた結果です」
「皆さんが処罰されないことは、承知しています。でも、私と関わることで、また肩身の狭い思いをなさるのではないかと……」
「罪を償うことと、ひとりで凍えることは、別の話です」
アニカ様が、はっと顔を上げた。
「あなたが届けた眼鏡をかけて、あのオズモ爺さんが最初にした仕事は、あなたの襟元を直すことだったでしょう。パン屋の娘さんも、ロドリクさんも、あなたに温かく生きていてほしいと願っている。……寒いときに寒いと言うことまで、罰のうちにしなくていいはずです」
「ノエミさん……」
「うちの会社はですね、月に一度、王都と国境の町ルーヴェンの間を往復する定期便を走らせているんです」
私は懐の運行計画書を軽く叩いた。
「定期便の荷台には、往復とも、手紙や小荷物を載せるくらいの余裕があります。手紙を混載できるよう、会社と話をつけて正規の運賃を設定すれば、業務として堂々と運べます。安全な届け方も、私が間に入って手配します」
「手紙を……運んでくださるのですか?」
「お礼状も、もちろん運びます。ただ――最後にひとつ、ご自分の望みも書いてみませんか」
「私の、望み……ですか?」
「暖かい靴下が欲しい、とか。美味しいお茶が飲みたい、とか」
私は荷台の枠木をぽんと叩いた。
「手紙のほかにも、ちゃんと載りますから」
アニカ様は立ち尽くし、それから胸元のショールをそっと握りしめた。
その瞳に、戸惑いと、小さく灯る温かな光が見えた。
「……ノエミさん」
「何でしょう」
「あの……もう一口、いただいてもよろしいでしょうか」
彼女は荷台の上の、オティリーのパン包みを指差した。
「アニカ様のパンですよ」
「そうでした」
彼女は包みを見下ろし、それから少しだけ笑った。
「つい、誰かの分を先に残してしまうものですから」
「今日は、ご自分で食べてください」
「では……少し、大きめに」
千切ったパンを頬張るアニカ様の表情は、王都を出たときよりも、ずっと柔らかくなっていた。
私も隣で、朝に約束した分をいただいた。胡桃の香りが鼻に抜け、思わずもう一口かじる。
その様子を見て、アニカ様が嬉しそうに笑った。
「よかった。ノエミさんも、お腹が空いていらしたのですね」
「……馬の休憩だけでは足りませんでした」
笑った拍子に、冷たい風が襟元を抜けた。私が肩をすくめると、アニカ様が自分のショールを外しかけた。
「それは着ていてください」
私に先を越され、彼女は行き場を失った手を止めた。それから、私の外套に目を留める。
「では、襟を。片方だけ折れてしまっています。直してもよろしいですか」
頷くと、細い指がそっと襟を起こした。首筋に入っていた風が止まる。
「これなら、私も寒くありません」
得意そうな小さな笑みに、今度は私の返事が遅れた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして、ノエミさん」
残りのパンは、少しゆっくり噛むことにした。
第六章 いってらっしゃいませ
国境の検問所に到着したのは、空が茜色から深い群青へと移り変わる、日没三十分前の午後五時半だった。
石造りの巨大な門の脇にある詰所で、入出国管理官が羊皮紙の束を改める。
「追放処分対象者、アニカ・ラングレーだな」
「はい」
「書類に不備なし。我が国からの追放を執行する。……隣国の町ルーヴェンの入国窓口へは、当方から追放通行証を送付してある。あちらの町長への引継ぎ手当ても手配済みだ」
管理官は荷台の豪勢な包みを見て少し眉を上げたが、私が正規の運送指示書を提示すると、それ以上は何も言わずに門を開けた。
鉄のゲートが持ち上がる。
門の向こう側には、緩やかな下り坂と、宿場町のあたたかな灯りが広がっていた。
門の向こうで、宿から来た荷車に荷物を積み替えた。柳行李も、パンも、干し肉も、忘れ物はない。
別れの時が訪れる。
私は今夜、国境のこちらの宿に泊まり、馬を休ませてから明日の朝に王都へ引き返す手はずだった。
「ノエミさん。……何から何まで、本当にありがとうございました」
「仕事をしただけです。無事に送り届けるまでが私の責任ですから」
「はい」
アニカ様は微笑み、それから少しだけ恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「あの……ノエミさん」
「はい」
「次の便も、ノエミさんに来ていただけたら嬉しいです」
「配車は、支配人が決めますので」
「……そうですよね。申し訳ありません」
「ただ」
私は手綱を握り直し、少しだけ顔を背けた。
「希望を出すことはできます。王都側の届け先なら、三か所とも覚えましたから」
顔を上げたアニカ様が、この旅でいちばん嬉しそうに笑った。
「待っていますね、ノエミさん」
「ええ。いってらっしゃいませ、アニカ様」
暗緑色の肩掛けを羽織った彼女の背中が、坂道の下へと進んでいく。
不安が消えたわけではないのだろう。それでも彼女の足取りは、王都を出た朝よりも、ずっと確かだった。
第七章 窓辺に用意された席
それから、一か月が過ぎた。
支配人を説得するのは容易だった。定期便の空きスペースを使って運賃を取るという提案に、支配人は頷いた。
手紙を混載するようになった最初の便の御者には、当然のように私が選ばれた。
オティリーの焼き菓子。オズモ爺さんの手袋。そして、ポルカの足形が押されたロドリクの手紙。
『ポルカにも署名させた。荷下ろしより苦労した』
そんな添え書きまでついていた。
それらを載せて国境を越え、ルーヴェンの指定された宿屋へ赴いた私は、帳場の前で足を止めた。
「三号室のお客様は夜明けに出発されます。朝食は包みにして、お湯は先にお部屋へお願いしますね」
きびきびと指示を出し、手慣れた仕草で帳面を閉じたアニカ様は、私に気づくと、さっきまでの仕事の顔をふっと緩めた。
「……ノエミさん!」
駆け寄ってきた彼女は、私の荷物を下ろすのを手伝い、それから湯気の立つカップを差し出してくれた。
「お疲れさまでした、ノエミさん。少し温まっていってください」
「私は、配達に来ただけですから」
「では、配達してくださった方に」
アニカ様は、私の前にカップを置いた。
「ノエミさんのために淹れました」
私はカップを両手で包んだ。
「……いただきます」
腰を下ろして、窓から馬車がよく見えることに気づいた。
「この席でしたら、お馬さんも見えるでしょう。荷降ろし場へ出る扉も、すぐそこです」
「よくご存じですね」
「今日が近づくにつれて、どこなら休んでいただけるか、考えていたものですから」
そこまで言ってから、アニカ様はカップの取っ手を揃えるふりをした。
私のものは、もう持っている。
小さく咳払いをして、私は窓の外を見た。
「……ここ、落ち着きます」
「では、来月も空けておきますね」
私は、まだ聞かれていない配車の話を持ち出すのをやめた。
一口飲むと、温かいハーブの香りが体に染み渡った。
「お口に合いますか?」
「ええ。……好きな味です」
「よかった。覚えておきますね」
アニカ様は柔らかく微笑み、それから届けられた荷物を愛おしそうに見つめた。
「爺さんからです。試作品だそうですよ」
手袋を差し出すと、アニカ様はその内側を確かめ、小さく笑った。
「……今度は、両方に名前が」
アニカ様は荷物を胸に抱きしめ、何度も何度も頷いていた。
そして翌朝、王都へ引き返す私の前に、彼女は一通の封筒を差し出した。
「王都の皆さんに……この手紙を届けていただけますか」
「はい。しっかりとお届けします」
第八章 甘いパンを二つ
王都へ戻った私は、その足で職人街のパン屋へ向かった。
店先のテーブルには、連絡を受けて集まったオズモ爺さんとロドリク、そして足元で大人しく伏せているポルカの姿があった。
皆が見守る中、オティリーが震える手で封筒の蝋を剥がし、手紙を広げた。
宛名は連名だった。『オティリー様、オズモ様、ロドリク様、ポルカ、そしてノエミ様へ』。
便箋には、几帳面な美しい文字で、宿での生活や、オティリーの焼き菓子がいかに美味しかったか、オズモの手袋で手が悴まずに済んでいること、ポルカの足形を見て涙が出たことが、溢れんばかりに綴られていた。
「……ちゃんと、ご飯を食べてるのね」
オティリーが袖口で目元を拭った。
「働きすぎとらんといいがな」
オズモ爺さんが眼鏡を押し上げる。足元でポルカが「くぅん」と喉を鳴らした。
「……まだ、追伸があります」
私はオティリーから便箋を受け取り、最後の一枚をめくった。
本文はきちんと揃っているのに、追伸の最後の一行だけ、文字が少し小さかった。
私は声を澄ませて、それを読み上げた。
『次の便には、甘いパンを二つ、お願いしてもよろしいでしょうか。
今度は、ノエミさんと一緒に食べたいです』
その場が、妙に静かになった。
顔を上げると、三人――と一匹が、じっと私を見ていた。
「御者まで注文されちまったな」
ロドリクがにやりと笑った。
「二つ? 四つくらい焼くわよ!」
オティリーが鼻をすすりながら言った。
「まずは、二つでお願いします」
オズモ爺さんが、当然のことのように腕を組んだ。
「来月も、お前さんが行くんだろうな」
「配車を決めるのは、支配人です」
「じゃあ、頼んでこい」
「……そうします」
私は手紙を丁寧に折り直した。
「これ、少しお借りしても?」
オティリーの頷きを見て、私は封筒を胸ポケットに収めた。
来月の荷物は、甘いパンが二つ。
それから、私の分の約束がひとつ。
どうやら次の国境便も、寄り道の用事が多すぎて、まっすぐ帰るわけにはいかないらしい。
(おしまい)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
ノエミとアニカの寄り道を、楽しんでいただけましたら幸いです。
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