乙女ゲームに転生して婚約破棄されましたが、どのルートにも存在しない王様に溺愛されています
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間は、今夜に限っていつもより眩しく見えた。
王立学院の卒業パーティーは年に一度の晴れ舞台だ。礼装を纏った貴族子女たちが杯を手に談笑し、楽団の奏でるワルツが空気を揺らしている。誰もが笑っていて、誰もが幸福そうで——だからこそ、中央に響いたその声は、余計に際立った。
「リリアナ・ヴェルドール伯爵令嬢。本日をもって、我々の婚約を解消する」
エドワード第一王子の声は、よく通った。
壇上に立つ彼の隣では、淡いグリーンのドレスを纏った少女——聖女イリスが、白い頬を両手で覆って嗚咽を漏らしていた。その周囲には、学院きっての人気者たちが護衛のように立ち並んでいる。まるで、あらかじめ用意された舞台のように。
広間が、静まり返った。
リリアナ・ヴェルドールは、人垣の中央でひとり立ち尽くしていた。
背筋は伸びたまま。視線は前に向けたまま。十九年かけて磨いてきた貴族令嬢としての矜持が、今この瞬間だけは役に立っていた。
(来た。とうとう来てしまった)
心の中で、もうひとりの自分が静かに呟く。
リリアナには秘密があった。生まれながらの貴族令嬢としての記憶の他に、もうひとつ——前世の記憶がある。日本という国で生きた、名もなき女性としての記憶だ。
彼女はかつて、乙女ゲームをプレイしたことがあった。タイトルは『星降る王国の恋物語』。舞台は貴族社会を模した異世界で、ヒロインが複数の攻略対象と恋をするゲームだった。
そして気づいてしまったのだ。学院に入学した十四歳の春に。この世界が、そのゲームと酷似していることに。自分がゲームの悪役令嬢、リリアナ・ヴェルドールとして生を受けていることに。
悪役令嬢の末路は決まっていた。卒業パーティーで婚約破棄され、聖女への虐めの廉で社交界を追われる。どのルートでも変わらない、確定したバッドエンドだ。
だから、リリアナは必死だった。
聖女イリスとは距離を置いた。婚約者であるエドワード王子には常に礼儀正しく接した。虐めと取られかねない言動はすべて慎み、孤立を恐れず清廉に振る舞ってきた。五年間、たった一度も崩さずに。
それでも——ゲームのシナリオは、ここに辿り着いた。
「イリス殿を長年にわたって虐げてきたことは、多くの証言によって明らかだ。君は王太子妃の器にない」
エドワードの言葉が続く。リリアナには、まるで遠い場所から聞こえるように響いた。
貴族たちのざわめきが広がる。同情の視線、軽蔑の視線、好奇の視線。全方位から注がれるそれらを、リリアナはただ静かに受け止めていた。
(証言、か)
誰が証言したのだろう。思い当たる節はない。少なくとも、リリアナは一度もイリスを虐めたことなどなかった。
そのとき、ふと前世の記憶が蘇った。
ゲームの攻略本を読み返すように、脳内でシナリオを追う。ヒロインは聖女で、エドワードを含む複数の攻略対象と結ばれる。悪役令嬢リリアナは破滅する。それは変わらない。
でも——待って。
そもそも、このゲームに「イリス」という名のキャラクターは存在しなかった。
ヒロインの名前は別だった。設定も違う。「平民出身の聖女」など、どのルートにも登場しない。
ならば「聖女イリス」は何者だ?
「リリアナ様……」
横に控えていた侍女が震える声で呼びかける。リリアナは彼女に小さく頷き、口を開いた。
「——承りました、殿下」
それだけ言った。感情を乗せなかった。会場に安堵の吐息が漏れるのを感じながら、リリアナはゆっくりと顔を上げる。
そのとき、広間の端で人垣が静かに割れた。
歩いてくる男がいた。
年齢は二十歳を少し過ぎたほどだろうか。深い藍色の礼服に金糸の刺繍。胸元には見慣れない紋章。隣国テオドール王国——その国王印だと、リリアナは瞬時に認識した。
外交訪問で来賓として招かれていた、ライオネル・テオドール国王陛下。
彼は迷いのない足取りで、まっすぐリリアナのもとへと歩み寄ってきた。そしてさほど大きくない声で、しかし広間のすみずみまで届くような声で、壇上のエドワードに問いかけた。
「王太子殿下。先ほどの告発について、証拠はお持ちですか」
場が、再び静まった。
エドワードが眉を寄せる。「……何の話だ」
「虐めの事実があったとおっしゃる。では、それを示す物的証拠はどこにあるのでしょう。証言だけでは、告発の根拠として不十分です。少なくとも、私の国ではそうです」
穏やかな口調だった。怒っているわけでも、挑発しているわけでもない。ただ、当然のことを当然として問うような静けさがあった。
エドワードが口ごもる。イリスが「で、でも……私は確かに……」と声を上げる。
ライオネルはそちらには目を向けず、リリアナへと視線を落とした。
その目が、やわらかく細まった。
「ヴェルドール令嬢。久しぶりですね」
「……え」
「お会いするのは、十二年ぶりでしょうか。覚えていますか? ハーウェル侯爵家の庭で、七歳の私が木から落ちそうになったとき、手を引いてくださった方」
リリアナの記憶に、遠い夏の午後が浮かんだ。
確かに——あった。七歳か八歳の頃、両親に連れられて行った侯爵家の園遊会で、泣いている小さな男の子に手を差し伸べた記憶が。名前も知らない、外国の子だと思っていた子が。
「……陛下が、あのときの」
「ええ。あのときから、ずっと」
そこで彼は言葉を切った。続きは、後で、という意味に聞こえた。
ライオネルが懐から一通の封書を取り出したのは、それからすぐのことだった。
会場へ向けて、彼は声を上げる。
「皆様にお知らせしたいことがあります。これは我が国の諜報部が、この三ヶ月で収集した記録です。イリス・ローウェル殿——聖女と呼ばれているこの方——が、ヴェルドール令嬢の侍女に賄賂を渡し、虐めの偽証を依頼した事実が記されています」
広間が、どよめいた。
イリスの顔色が変わった。白かった頬が、みるみるうちに赤く、そして蒼白になっていく。
「そ、そんな……嘘よ! 私は何もしていない! 私はただ、このゲームをクリアしたかっただけで——」
その言葉が、すべてを壊した。
「ゲーム」
誰かが繰り返す。
「ゲームとは、何の話だ」とエドワードが低い声で問う。
イリスが口を押さえた。だが遅かった。
リリアナは、全身に震えが走るのを感じた。
理解した。
イリスも——転生者だったのだ。
別の誰かが、同じゲームの世界に転生していた。そしてその人物は「ヒロインとして攻略する」ことを目的に、悪役令嬢であるリリアナを排除しようとした。自覚的に、計画的に。
何年もかけて丁寧に積み上げてきた偽証を、ライオネルの諜報網がたった三ヶ月で暴き出した。
「……なぜ、私のために」
気づけばリリアナは口に出していた。ライオネルが静かに振り向く。
「それは後ほど、ゆっくりとお話ししましょう」
広間はもはや静寂でなかった。貴族たちの囁きが波のように広がり、エドワードがイリスへ問い詰める声が響き、イリスが泣きながら「私だけが聖女なの!このルートは私のものなの!」と叫ぶのが聞こえた。
リリアナには、もうどうでもよかった。
すべてが、遠く聞こえた。
ライオネルに促されて、リリアナはバルコニーへ出た。
夜風が頬を撫でた。冷たくて、清潔で——五年分の緊張が、少しだけ解けていくようだった。
街の灯りが遠くに瞬いている。広間のざわめきが、扉の向こうに閉じ込められていた。
「……先ほどは、ありがとうございました」
「礼には及びません。当然のことをしたまでです」
ライオネルが柵に手をかけ、夜空を仰ぐ。月が明るかった。
「あの庭の話、覚えていてくれたんですね」
「毎年思い出していました。あなたの顔は変わりましたが、目が同じだったのですぐわかった」
「…………」
「令嬢」
彼が振り向いた。その表情は、広間で見せていた冷静さとは少し違っていた。どこか、迷っているような、それでも決意したような——そういう顔だった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「……どうぞ」
「あなたは今夜、何を失いましたか」
リリアナは少し考えた。
王太子との婚約。社交界での地位。五年間積み上げてきた、破滅を回避するための努力。そのすべてが、今夜崩れた。
でも、不思議なことに——泣けなかった。失ったものへの悲しみより、長年抱えてきた重さが降りたような、妙な軽さがあった。
「……わかりません。何かを失った気はするんですが、何なのか、うまく言えなくて」
「では、これからのことは、考えていますか」
「考えていません。今夜まで、先のことを考える余裕がなかったので」
正直に答えると、ライオネルは小さく笑った。初めて見た、力の抜けた笑い方だった。
「正直な方だ」と彼は言った。「では、一つ提案をしていいですか」
「……提案」
「私の隣に来てください」
リリアナは瞬きした。
「この国で傷ついた場所にいる必要はない。私の国は小さいが、あなたを大切にする自信はある。そして——ずっとそうしたいと思っていた」
月の光の中で、ライオネルの表情はまっすぐだった。
演技ではない。政略でもない。そう、直感させるものがあった。
「……信じていいんですか」
「信じてほしいと思っています。でも今すぐでなくていい。あなたが納得できるまで、待ちます」
その言葉を聞いたとき、リリアナの目に熱いものが込み上げてきた。
おかしいと思った。泣く場面なら、婚約破棄の瞬間だったはずだ。大勢の前で指差されて、虐め疑惑をかけられて——あのときは涙など一滴も出なかったのに。
今ごろになって、たった一言「待ちます」と言われただけで、喉の奥が詰まっていた。
五年間、ずっと一人だった。転生者であることも、ゲームの知識があることも、誰にも言えなかった。破滅を回避しようと身を削っても、誰も信じてくれなかった。
それなのにこの人は——会って数時間も経たないうちに、待つと言っている。
「……泣いていいですか」
自分でも驚くような声で、リリアナは言った。
ライオネルが一歩近づき、静かに答えた。
「どうぞ」
それだけで、崩れた。
リリアナ・ヴェルドールは、生まれて初めて人前で泣いた。美しくもなく、品もなく、ただ声を殺してひたすら泣いた。ライオネルは何も言わず、ただ隣にいた。バルコニーの夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていた。
◇
半年後——テオドール王国の王城は、早春の花で溢れていた。
窓の外には白い花の木が並び、廊下には暖かな朝の光が斜めに差し込んでいる。リリアナ——今はリリアナ・テオドールとなった彼女は、執務室の隣の小さな応接室で、積まれた書類を眺めながら紅茶を飲んでいた。
嫁いできてから、六ヶ月が経つ。
最初は戸惑うことばかりだった。慣れない国の習慣、知らない顔ばかりの宮廷、そしてまだ少し照れくさい夫との新しい生活。でも今は——不思議なほど、ここが馴染んでいた。
あの夜のことは、もう遠い記憶のようだった。
エドワード王子はイリスを庇い続けたが、彼女の「ゲーム」発言と偽証の証拠が公になったことで、聖女の立場は失墜した。王家はその後の外交で大きな失点を負い、エドワードは謹慎処分を受けたと、親族からの手紙に記してあった。リリアナはそれを読んで「そうか」と思い、そっと引き出しにしまった。怒りも、安堵も、思ったより薄かった。
庭からの風が窓を揺らしたとき、背後で扉が開く音がした。
「ここにいた」
ライオネルだった。
執務が一段落したらしく、礼服の上着を脱いで手に持っている。くだけた表情で応接室に入ってくる彼を見ると、リリアナはいつも少し可笑しくなる。あの夜の、凛とした外交的な姿とのギャップが大きすぎて。
「日当たりがいいので」
「なるほど。花が見えて気持ちいいですよね、あそこから」
彼は向かいに腰かけ、勝手に彼女の紅茶を一口飲んだ。
「……自分のを頼んでください」
「手間がかかる。それより——」
ライオネルが立ち上がり、リリアナの隣に回った。
窓の外の白い花が、春風に揺れている。彼はその景色を眺めながら、ゆっくりと背後からリリアナの肩に手をかけた。
「後悔している?」
定期的に聞いてくる、いつもの問いかけだ。
最初の頃は答えるたびに胸が締め付けられた。この人がそれを尋ねることの意味を、正確に理解しているから。自分のせいで何かを失ったのではないかと、彼は今でも少し心配しているのだ。
リリアナは少し考える。
失ったものは、確かにあった。生まれた国も、幼い頃から慣れ親しんだ屋敷も、長年の婚約者だった人も。
でも——
「全然」
リリアナは答えた。窓の外に目を向けたまま、穏やかに続ける。
「だって、ゲームのどのルートを思い返しても、今よりいい結末が見当たらないから」
ライオネルが小さく笑う気配がした。
「それは光栄です」
「……ゲームには、あなたが出てこなかったんです。テオドール王国も、ライオネル王も、一切登場しなかった」
「つまり、私はシナリオ外の存在ですか」
「ええ」とリリアナは答えた。「だから、きっと——これは誰かが書いた物語じゃなくて、私が自分で選んだ未来なんだと思います。初めて自分で選んだ」
しばらく、沈黙が続いた。
春風が白い花びらを舞い上げ、窓の外を横切っていく。
ライオネルが、そっとリリアナの肩を引き寄せた。
「私も、同じです」
静かな声だった。
「あなたに手を引いてもらったあの庭から、今日まで——これは私が選んできた話だと思っています」
リリアナは目を細めた。窓の外の花が、また揺れていた。
乙女ゲームのどこにも書いていない結末。シナリオの外にあった、小さな幸福。
それで十分だった。それ以上は、何もいらなかった。
白い花びらが一枚、開いた窓から舞い込んで、二人の間をゆっくりと落ちていった。
(了)




