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乙女ゲームに転生して婚約破棄されましたが、どのルートにも存在しない王様に溺愛されています

作者: カルラ
掲載日:2026/05/03

 シャンデリアの光が降り注ぐ大広間は、今夜に限っていつもより眩しく見えた。

 王立学院の卒業パーティーは年に一度の晴れ舞台だ。礼装を纏った貴族子女たちが杯を手に談笑し、楽団の奏でるワルツが空気を揺らしている。誰もが笑っていて、誰もが幸福そうで——だからこそ、中央に響いたその声は、余計に際立った。


「リリアナ・ヴェルドール伯爵令嬢。本日をもって、我々の婚約を解消する」


 エドワード第一王子の声は、よく通った。

 壇上に立つ彼の隣では、淡いグリーンのドレスを纏った少女——聖女イリスが、白い頬を両手で覆って嗚咽を漏らしていた。その周囲には、学院きっての人気者たちが護衛のように立ち並んでいる。まるで、あらかじめ用意された舞台のように。

 広間が、静まり返った。

 リリアナ・ヴェルドールは、人垣の中央でひとり立ち尽くしていた。

 背筋は伸びたまま。視線は前に向けたまま。十九年かけて磨いてきた貴族令嬢としての矜持が、今この瞬間だけは役に立っていた。


(来た。とうとう来てしまった)


 心の中で、もうひとりの自分が静かに呟く。

 リリアナには秘密があった。生まれながらの貴族令嬢としての記憶の他に、もうひとつ——前世の記憶がある。日本という国で生きた、名もなき女性としての記憶だ。

 彼女はかつて、乙女ゲームをプレイしたことがあった。タイトルは『星降る王国の恋物語』。舞台は貴族社会を模した異世界で、ヒロインが複数の攻略対象と恋をするゲームだった。

 そして気づいてしまったのだ。学院に入学した十四歳の春に。この世界が、そのゲームと酷似していることに。自分がゲームの悪役令嬢、リリアナ・ヴェルドールとして生を受けていることに。

 悪役令嬢の末路は決まっていた。卒業パーティーで婚約破棄され、聖女への虐めの廉で社交界を追われる。どのルートでも変わらない、確定したバッドエンドだ。

 だから、リリアナは必死だった。

 聖女イリスとは距離を置いた。婚約者であるエドワード王子には常に礼儀正しく接した。虐めと取られかねない言動はすべて慎み、孤立を恐れず清廉に振る舞ってきた。五年間、たった一度も崩さずに。

 それでも——ゲームのシナリオは、ここに辿り着いた。


「イリス殿を長年にわたって虐げてきたことは、多くの証言によって明らかだ。君は王太子妃の器にない」


 エドワードの言葉が続く。リリアナには、まるで遠い場所から聞こえるように響いた。

 貴族たちのざわめきが広がる。同情の視線、軽蔑の視線、好奇の視線。全方位から注がれるそれらを、リリアナはただ静かに受け止めていた。


(証言、か)


 誰が証言したのだろう。思い当たる節はない。少なくとも、リリアナは一度もイリスを虐めたことなどなかった。

 そのとき、ふと前世の記憶が蘇った。

 ゲームの攻略本を読み返すように、脳内でシナリオを追う。ヒロインは聖女で、エドワードを含む複数の攻略対象と結ばれる。悪役令嬢リリアナは破滅する。それは変わらない。

 でも——待って。

 そもそも、このゲームに「イリス」という名のキャラクターは存在しなかった。

 ヒロインの名前は別だった。設定も違う。「平民出身の聖女」など、どのルートにも登場しない。

 ならば「聖女イリス」は何者だ?


「リリアナ様……」


 横に控えていた侍女が震える声で呼びかける。リリアナは彼女に小さく頷き、口を開いた。


「——承りました、殿下」


 それだけ言った。感情を乗せなかった。会場に安堵の吐息が漏れるのを感じながら、リリアナはゆっくりと顔を上げる。

 そのとき、広間の端で人垣が静かに割れた。


 歩いてくる男がいた。

 年齢は二十歳を少し過ぎたほどだろうか。深い藍色の礼服に金糸の刺繍。胸元には見慣れない紋章。隣国テオドール王国——その国王印だと、リリアナは瞬時に認識した。

 外交訪問で来賓として招かれていた、ライオネル・テオドール国王陛下。

 彼は迷いのない足取りで、まっすぐリリアナのもとへと歩み寄ってきた。そしてさほど大きくない声で、しかし広間のすみずみまで届くような声で、壇上のエドワードに問いかけた。


「王太子殿下。先ほどの告発について、証拠はお持ちですか」


 場が、再び静まった。

 エドワードが眉を寄せる。「……何の話だ」

「虐めの事実があったとおっしゃる。では、それを示す物的証拠はどこにあるのでしょう。証言だけでは、告発の根拠として不十分です。少なくとも、私の国ではそうです」


 穏やかな口調だった。怒っているわけでも、挑発しているわけでもない。ただ、当然のことを当然として問うような静けさがあった。

 エドワードが口ごもる。イリスが「で、でも……私は確かに……」と声を上げる。


 ライオネルはそちらには目を向けず、リリアナへと視線を落とした。

 その目が、やわらかく細まった。


「ヴェルドール令嬢。久しぶりですね」

「……え」

「お会いするのは、十二年ぶりでしょうか。覚えていますか? ハーウェル侯爵家の庭で、七歳の私が木から落ちそうになったとき、手を引いてくださった方」


 リリアナの記憶に、遠い夏の午後が浮かんだ。

 確かに——あった。七歳か八歳の頃、両親に連れられて行った侯爵家の園遊会で、泣いている小さな男の子に手を差し伸べた記憶が。名前も知らない、外国の子だと思っていた子が。


「……陛下が、あのときの」

「ええ。あのときから、ずっと」


 そこで彼は言葉を切った。続きは、後で、という意味に聞こえた。


 ライオネルが懐から一通の封書を取り出したのは、それからすぐのことだった。

 会場へ向けて、彼は声を上げる。


「皆様にお知らせしたいことがあります。これは我が国の諜報部が、この三ヶ月で収集した記録です。イリス・ローウェル殿——聖女と呼ばれているこの方——が、ヴェルドール令嬢の侍女に賄賂を渡し、虐めの偽証を依頼した事実が記されています」


 広間が、どよめいた。

 イリスの顔色が変わった。白かった頬が、みるみるうちに赤く、そして蒼白になっていく。


「そ、そんな……嘘よ! 私は何もしていない! 私はただ、このゲームをクリアしたかっただけで——」


 その言葉が、すべてを壊した。

「ゲーム」

 誰かが繰り返す。

「ゲームとは、何の話だ」とエドワードが低い声で問う。

 イリスが口を押さえた。だが遅かった。

 リリアナは、全身に震えが走るのを感じた。

 理解した。

 イリスも——転生者だったのだ。

 別の誰かが、同じゲームの世界に転生していた。そしてその人物は「ヒロインとして攻略する」ことを目的に、悪役令嬢であるリリアナを排除しようとした。自覚的に、計画的に。

 何年もかけて丁寧に積み上げてきた偽証を、ライオネルの諜報網がたった三ヶ月で暴き出した。


「……なぜ、私のために」


 気づけばリリアナは口に出していた。ライオネルが静かに振り向く。

「それは後ほど、ゆっくりとお話ししましょう」


 広間はもはや静寂でなかった。貴族たちの囁きが波のように広がり、エドワードがイリスへ問い詰める声が響き、イリスが泣きながら「私だけが聖女なの!このルートは私のものなの!」と叫ぶのが聞こえた。


 リリアナには、もうどうでもよかった。

 すべてが、遠く聞こえた。


 ライオネルに促されて、リリアナはバルコニーへ出た。

 夜風が頬を撫でた。冷たくて、清潔で——五年分の緊張が、少しだけ解けていくようだった。

 街の灯りが遠くに瞬いている。広間のざわめきが、扉の向こうに閉じ込められていた。


「……先ほどは、ありがとうございました」

「礼には及びません。当然のことをしたまでです」


 ライオネルが柵に手をかけ、夜空を仰ぐ。月が明るかった。


「あの庭の話、覚えていてくれたんですね」

「毎年思い出していました。あなたの顔は変わりましたが、目が同じだったのですぐわかった」

「…………」

「令嬢」


 彼が振り向いた。その表情は、広間で見せていた冷静さとは少し違っていた。どこか、迷っているような、それでも決意したような——そういう顔だった。


「一つ、聞いてもいいですか」

「……どうぞ」

「あなたは今夜、何を失いましたか」


 リリアナは少し考えた。

 王太子との婚約。社交界での地位。五年間積み上げてきた、破滅を回避するための努力。そのすべてが、今夜崩れた。

 でも、不思議なことに——泣けなかった。失ったものへの悲しみより、長年抱えてきた重さが降りたような、妙な軽さがあった。


「……わかりません。何かを失った気はするんですが、何なのか、うまく言えなくて」

「では、これからのことは、考えていますか」


「考えていません。今夜まで、先のことを考える余裕がなかったので」


 正直に答えると、ライオネルは小さく笑った。初めて見た、力の抜けた笑い方だった。


「正直な方だ」と彼は言った。「では、一つ提案をしていいですか」

「……提案」

「私の隣に来てください」


 リリアナは瞬きした。

「この国で傷ついた場所にいる必要はない。私の国は小さいが、あなたを大切にする自信はある。そして——ずっとそうしたいと思っていた」


 月の光の中で、ライオネルの表情はまっすぐだった。

 演技ではない。政略でもない。そう、直感させるものがあった。

「……信じていいんですか」

「信じてほしいと思っています。でも今すぐでなくていい。あなたが納得できるまで、待ちます」


 その言葉を聞いたとき、リリアナの目に熱いものが込み上げてきた。

 おかしいと思った。泣く場面なら、婚約破棄の瞬間だったはずだ。大勢の前で指差されて、虐め疑惑をかけられて——あのときは涙など一滴も出なかったのに。

 今ごろになって、たった一言「待ちます」と言われただけで、喉の奥が詰まっていた。

 五年間、ずっと一人だった。転生者であることも、ゲームの知識があることも、誰にも言えなかった。破滅を回避しようと身を削っても、誰も信じてくれなかった。

 それなのにこの人は——会って数時間も経たないうちに、待つと言っている。


「……泣いていいですか」


 自分でも驚くような声で、リリアナは言った。

 ライオネルが一歩近づき、静かに答えた。

「どうぞ」


 それだけで、崩れた。

 リリアナ・ヴェルドールは、生まれて初めて人前で泣いた。美しくもなく、品もなく、ただ声を殺してひたすら泣いた。ライオネルは何も言わず、ただ隣にいた。バルコニーの夜風が、二人の間を静かに吹き抜けていた。


    ◇


 半年後——テオドール王国の王城は、早春の花で溢れていた。

 窓の外には白い花の木が並び、廊下には暖かな朝の光が斜めに差し込んでいる。リリアナ——今はリリアナ・テオドールとなった彼女は、執務室の隣の小さな応接室で、積まれた書類を眺めながら紅茶を飲んでいた。


 嫁いできてから、六ヶ月が経つ。

 最初は戸惑うことばかりだった。慣れない国の習慣、知らない顔ばかりの宮廷、そしてまだ少し照れくさい夫との新しい生活。でも今は——不思議なほど、ここが馴染んでいた。

 あの夜のことは、もう遠い記憶のようだった。

 エドワード王子はイリスを庇い続けたが、彼女の「ゲーム」発言と偽証の証拠が公になったことで、聖女の立場は失墜した。王家はその後の外交で大きな失点を負い、エドワードは謹慎処分を受けたと、親族からの手紙に記してあった。リリアナはそれを読んで「そうか」と思い、そっと引き出しにしまった。怒りも、安堵も、思ったより薄かった。


 庭からの風が窓を揺らしたとき、背後で扉が開く音がした。


「ここにいた」


 ライオネルだった。

 執務が一段落したらしく、礼服の上着を脱いで手に持っている。くだけた表情で応接室に入ってくる彼を見ると、リリアナはいつも少し可笑しくなる。あの夜の、凛とした外交的な姿とのギャップが大きすぎて。


「日当たりがいいので」

「なるほど。花が見えて気持ちいいですよね、あそこから」


 彼は向かいに腰かけ、勝手に彼女の紅茶を一口飲んだ。


「……自分のを頼んでください」

「手間がかかる。それより——」


 ライオネルが立ち上がり、リリアナの隣に回った。

 窓の外の白い花が、春風に揺れている。彼はその景色を眺めながら、ゆっくりと背後からリリアナの肩に手をかけた。


「後悔している?」


 定期的に聞いてくる、いつもの問いかけだ。

 最初の頃は答えるたびに胸が締め付けられた。この人がそれを尋ねることの意味を、正確に理解しているから。自分のせいで何かを失ったのではないかと、彼は今でも少し心配しているのだ。

 リリアナは少し考える。

 失ったものは、確かにあった。生まれた国も、幼い頃から慣れ親しんだ屋敷も、長年の婚約者だった人も。

 でも——


「全然」


 リリアナは答えた。窓の外に目を向けたまま、穏やかに続ける。

「だって、ゲームのどのルートを思い返しても、今よりいい結末が見当たらないから」


 ライオネルが小さく笑う気配がした。


「それは光栄です」


「……ゲームには、あなたが出てこなかったんです。テオドール王国も、ライオネル王も、一切登場しなかった」


「つまり、私はシナリオ外の存在ですか」


「ええ」とリリアナは答えた。「だから、きっと——これは誰かが書いた物語じゃなくて、私が自分で選んだ未来なんだと思います。初めて自分で選んだ」


 しばらく、沈黙が続いた。

 春風が白い花びらを舞い上げ、窓の外を横切っていく。

 ライオネルが、そっとリリアナの肩を引き寄せた。


「私も、同じです」


 静かな声だった。

「あなたに手を引いてもらったあの庭から、今日まで——これは私が選んできた話だと思っています」


 リリアナは目を細めた。窓の外の花が、また揺れていた。

 乙女ゲームのどこにも書いていない結末。シナリオの外にあった、小さな幸福。

 それで十分だった。それ以上は、何もいらなかった。


 白い花びらが一枚、開いた窓から舞い込んで、二人の間をゆっくりと落ちていった。



(了)


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