第五話 口に出せない言葉
それから一月の間、私は祀の島に行く準備を進めた。
お父様や司祭たちが話し合って、『献身の儀』をするべきだということになったのだそうだ。
『献身の儀』とは、かつてツェツィーリアがアルノー様に身を捧げる際に行った一連の祭事の総称。初代国王となったツェツィーリアの兄、イーヴォが記録し、伝えたと言われている。
そもそも毎年行われる『託宣の儀』は、この『献身の儀』の一部を簡略化して行っているものだそうで、祝詞などはほぼそのままなのだという。
こうして私は連日王宮の一角にある祈祷室で、祈祷を捧げ魂を清らかに磨き、祀の島で行うべき神事の作法を一から全て身に付けることとなった。
祀の島に足を踏み入れられるのは、アルノー様に指名された私ただ一人。だから誰に頼る訳にもいかない。
これまで何か「やるべきことをやる」という経験をしたことがなかった私には、非常に多忙な時間が過ぎていった。
ある日、最早日課となった長時間の祈祷の後、自室に戻ってテラスで絵を描いていた。
相変わらず無口なヨゼフィーネはいいとして、私に同情しているのかイザークはすっかり口数が減ってしまったから、それまで以上に私は絵に集中していた。
祀の島に行くことが決まってから、私は記憶の中のオスカーと自分自身を並べて絵に描き始めた。
残念ながら私の画力では全く上手く描けはしないけれど、どうしても、二人の絵を残しておきたかったのだ。
「パトリツィア」
相当に集中していたからだろう。
すぐそばで名前を呼ばれるまで、一切人影に気付いていなかった。
驚きに肩を跳ねさせて顔をあげると、そこにはクラウスお兄様が立っていた。
「クラウスお兄様! ごめんなさい。全然気付かなくて……」
「いや、構わない。集中しているところ悪かったな」
そう言いながら、クラウスお兄様は私の描いている絵をじっと見つめると、一瞬眉間に皺を寄せた。
「これは……オスカーか?」
「そうよ! 分かってくれるのね!」
「いや……この髪の色は、そうかと思ってな」
裏を返せば、髪の色でしか判断が出来ないということかもしれないが、きちんと人だと認識してもらえるだけでも成長したと言えるだろう。
私が半ば上機嫌で絵を眺めていると、クラウスお兄様はふっと笑った。
「お前は本当にずっと変わらないな。私はこんなにも、動揺しているのに」
言いながら声を震わせると、お兄様はギュッと目を瞑り、まるで涙を堪えるような表情をした。
実を言えば、家族の中で一番、クラウスお兄様が辛そうにしている。
元々口数が多い方ではないし、他の家族と比べると私との距離が近いとは言えない。
だからだろうか。これまで以上に、私への接し方を躊躇っているように感じられる。
「そんなことないわ。祀の島に行った後どうなるのか分からないし、正直怖い。でも、私の存在がみんなのためになるって考えたら、この運命も受け入れられるわ」
「すまない……」
一体何に対する謝罪なのか分からない言葉を口に出した後、クラウスお兄様は黙ってしまった。
何か話があって来たはずなのに、一体どうしたのだろう。
首を傾げながら、立ったままのクラウスお兄様を見上げると、一瞬視線がかち合った。けれどすぐ、お兄様は苦しそうに視線を外した。
「お兄様、どうかなさったの?」
「パトリツィア……お前は、お前の運命をどう思う?」
そう問いかけて、お兄様はまた口を噤む。
私は再び、首を傾げた。
「どう、とはどういうこと?」
「お前は、これまで幸せだったか?」
「パトリツィア様、王太子殿下。第三王子殿下がお越しになっております」
取り留めのない話に思わず困惑していると、いつの間にそこにいたのか、ヨゼフィーネがテラスの入り口でそう告げた。
一瞬、クラウスお兄様の顔が青褪めた、気がした。
しかしすぐにいつもの王太子然とした顔に戻ると、背筋を伸ばして、私をしっかりと見つめる。
「パトリツィア。絵、完成するといいな。じゃあまた」
クラウスお兄様はそう言って、さっとテラスを出て行った。
私は思わずぽかんとして固まってしまった。
結局、一体何が言いたかったのだろう。
クラウスお兄様と入れ違いに入ってきたエルンストお兄様は、入り口の方を見ながら首を傾げた。
「クラウス兄上と何の話をしてたんだ? 何だか兄上、様子が変だったぞ?」
「それが分からないの。よく分からない話をしたかと思ったら、さっさと出て行ってしまって」
「ふーん、変な兄上だな」
不思議そうに入り口を見ていたエルンストお兄様は、気を取り直したように私に向き直ると、パッと笑顔を作った。
「厨房からお前の好きなオレンジケーキ持って来た。一緒に食べよう」
「まあ本当⁉︎ 嬉しいわ!」
ヨゼフィーネに濡れたタオルで手を清めてもらっていると、そう言ってお兄様は私の向かいに腰を下ろし、両手に持っていたケーキをテーブルの上にことりと置いた。
エルンストお兄様は私が祀の島に行くことが決まってから、こうして度々甘い物を持ってきて話をしてくれる。きっと、お兄様なりに私のことを気遣ってくれているのだろう。
逆に、これまでよく尋ねてくれたディーディリヒお兄様はあまり足を運んでくれなくなった。寂しいけれど、きっとディーディリヒお兄様は私に同情しているのだ。そう思えば、仕方ないと諦められる。
「美味しい! ありがとうエルンストお兄様」
「パティの笑顔が見られて良かった。……どうか、最後の日まで笑顔を見せてくれ」
切なげに顔を歪ませて、エルンストお兄様は呟いた。
その表情に、私は何だか泣きたくなってしまう。
けれど精一杯の笑顔で、私は頷いたのだった。
エルンストお兄様が去り、自室に一人になる。
ヨゼフィーネももう下がらせたし、イザークは部屋の外で立哨中だ。
広い部屋に、ぽつんと佇む。
夕陽の光がテラスの窓から自室に入り込んで、部屋全体をオレンジ色に染めていく。
本当は。
クラウスお兄様にはああ言ったけれど、本当は全然大丈夫じゃない。
まだ死にたくはないし、王宮の外でやりたいことだってたくさんあった。
覚悟は決めている。それは本当だ。
でも、だからって何も思わない訳じゃない。いっそ、今すぐにでも祀の島に連れて行ってくれたらいいのに。
この一月という時間が、逆に私にとっては残酷だった。
ベッドに全身を投げ出して、声を殺して涙を流す。
私にできることは、それくらいしかなかった。
時は流れ、ついに出発の朝を迎えた。
空が白み始めた頃から全身を水で清めた後、まるで王宮の壁のように白く輝くローブを身に纏う。
そして祈祷室で祈祷を捧げた後、柘榴の果実を一口だけ口にする。これはただ儀式的に口にするだけのものだけれど、今日私が食べられる最後の食事でもあった。
祈祷室から、漆黒のローブを纏った司祭たちに囲まれて、本宮を通り出口へと一歩一歩向かっていく。
本宮の階段を下りると、そこには一体の白馬と、その隣に家族が全員、並んで立っていた。
祀の島に辿り着くまで、何も会話を交わしてはいけないことになっている。
だから私は、じっと家族一人一人の顔を見つめた。
昨晩、寝る前に私の部屋に家族が集まった時のことを思い出す。
「お前を誇りに思う。私の愛する姫よ」
そう言って、頭を撫でてくれたお父様。
「あなたと一緒に過ごした時間が、最高の幸せだったわ」
私の手を握り締めて、涙を流したお母様。
「必ずやこの国を守ってみせる。お前の献身を、決して無駄にはしない」
頼もしく騎士の誓いのように跪いて、指先にキスをしてくれたクラウスお兄様。
「僕の可愛いお姫様。愛しているよ。ずっとね」
震える声でそう言って、抱きしめてくれたディーデリヒお兄様。
「お前の勇気は、決して忘れない」
相変わらずそっぽを向いて、肩を震わせたエルンストお兄様。
その一つ一つを、じっくりと、脳裏に焼き付けるように思い出した。
なんとか、オスカーと私の絵も完成した。やっぱり出来は散々なものだけれど、きちんと完成できて満足だ。心残りは、最早ない。
一瞬胸元に手をやって、今は翡翠のペンダントをしていないのだと気付き、手を下ろした。ローブの下には、何も身に着けてはいけないのだ。
これまでずっと肌身離さず身に着けていたからどうにも心許なくて、不安が過ぎる。
それを察知したのか、ディーディリヒお兄様が泣きそうな顔で笑って、私の手を握り締めてくれた。ディーディリヒお兄様の手に、エルンストお兄様の手が重なる。続いてお母様の、お父様の、最後にクラウスお兄様の手が重なった。
視界が滲んで、みんなの顔が見られない。それが嫌で、反対の手でごしごしと顔を何度も拭った。
『みんな、愛してる』
声を出さないように、口だけを開けてそう言った。
そんな私に、みんな泣きそうな顔で頷く。
クラウスお兄様は、パッと視線を外してしまった。右腕で顔を隠している。肩を震えさせて、必死に堪えているように見えた。
ヒヒンと馬の鳴き声が響き、振り返ると、ローブで顔の見えない司祭たちが馬に乗るようにとゆったりとした手の動きで伝えてくる。
私はもう一度涙を拭って、こくんと頷く。
みんなの掌からそっと手を離し、司祭の手を借りて、白馬に跨った。
馬に乗ったことはない。しかし司祭と一緒に乗るから心配はないのだと聞いていた。
思いの外視線が高く、一瞬恐怖を感じるものの、すぐにそれを忘れてしまった。
だって、そんなことよりも。
私を見つめる家族の顔を、最後まで見ていたかったから。
カーン、カーンと、先頭の司祭が持つ小さな鐘のような楽器が打ち鳴らされる。これが出発の合図だった。
ゆっくりと、馬が歩を進める。
私はもう一度だけ振り向いて、家族に向かって口を開いた。
『さようなら』
私の声にならない言葉は、彼らにきちんと届いただろうか。
馬の歩みはゆっくりなのに、あっという間に遠ざかって、みんなの顔が見られなかった。
正面広場を進み、王宮を囲む塀の門が開かれる。
そして馬はゆっくりと、門を潜り抜けた。
初めて、王宮の外に出た瞬間だった。
そのままゆっくりと海岸まで坂を下っていく。
行く道には誰もいない。家々の窓もぴったり雨戸で閉じられて、一切の気配が感じられない。
きっとこの儀式のために、誰も外に出ないよう言われているのだろう。
夢にまで見た王宮の外の景色だというのに、心の中には虚しさが広がっていた。
海の沖合に、本の挿絵で見たことがある船が停泊しているのが見えた。大きく帆を張っていて、私は思わず声を出しそうになってしまった。
実際、これが大きな船なのかは分からない。ただ私にとっては、想像よりもずっと大きい船だった。
浜辺に、一艘の小舟が置かれている。これに乗って、沖合の帆船まで行くのだそうだ。
事前に聞いていた話を思い返し、私は迷わず、小舟に乗り込んだ。
一緒に乗り込んだ司祭が、ゆっくりとオールを漕いでいく。
そこで初めて、私は王宮を見上げた。
海辺に沿った断崖絶壁の斜面に張り付くように広がる王都。全ての家々は白壁で、まるで一つの大きなオブジェのようだ。
その頂上に立つ、白亜の宮殿。真ん中に聳える尖塔の天辺では、レーベン王国の国旗が風にはためいている。
私がずっと過ごしていた本宮の屋根が、蒼いドーム状になっていることを、生まれて初めて知った。
まるで、オスカーの瞳の色みたいだ。
「きれい」
思わず小さく呟いて、慌てて口を噤む。
きっと会話ではないから、これくらいはアルノー様も許してくれるだろう。
しかしつい声に出てしまうほど、外から見る王宮は美しかった。
私が王宮を外から眺められるのは、これが最初で最後。
私はその光景を目に焼き付けるように、瞬きすら惜しんで眺めていたのだった。
昨日は公開できず申し訳ありませんでした。
体調はようやく落ち着いてきましたので、また公開を始めます。




