第二話 世界の揺らぎ
「……なんてこともあったわね。もう、エルンストお兄様とのことは諦めているけれど」
自室のテラスでハーブティーを飲みながら、頬杖を突いて私は呟いた。
エルンストお兄様に意地悪なことを言われて、大泣きしてから早六年。私は十三歳になっていた。
あの頃と同じ初夏の風が、白いレースのベールからこぼれる私の髪を揺らしている。
十歳を超えた頃から、私はお母様や他の女性たちと同じようにベールを被り始めた。ベールを被るのは大人の女性の証。といっても成人まではあと四年もあるけれど、昔ながらな風習なのだそうだ。
「まさかあそこまで露骨に無視するようになるとは思わなかったわ。ほんと、エルンストお兄様って子供」
最初のうちは、お兄様から謝られるまで絶対に許さないと決めて、私の方から無視をしていた。
けれど、それから数週間、数か月経っても、エルンストお兄様は私に謝るどころか、碌に顔を合わせることもなくなってしまった。
時折目が合っても、なんだかバツが悪そうに視線を逸らすだけ。
つい先ほども、廊下でばったり会ったから、仕方なく朝の挨拶をしようとしたのに、さっと視線を外して去ってしまった。
どれだけお父様やクラウスお兄様に叱られたのか知らないけれど、あんな風に無視をしてくるなんて、いくらなんでも大人気ない。
そんなエルンストお兄様も、数年前から時折お父様の代わりに地方の視察に行くようになって、月単位で王宮から離れることも多くなってきた。
そのせいもあってきっかけが掴めないのかもしれないけれど、とはいえ実の妹と六年もまともに会話をしないのは、流石にどうかと思う。
「王妃殿下が仰っていたではないですか。エルンスト様もかなり反省していらっしゃると。時間が空いてしまって、どう話せばいいか分からないのではないでしょうか」
律儀にテラスの入り口で立ったままのオスカーが、淡々と言う。
もうすぐ二十歳を迎える彼は、立派な騎士になっていた。
身長もすごく伸びて、子供の頃はどちらかというと中性的な顔立ちだったのに、すっかり男らしくなったと思う。
騎士として日々訓練しているからだろうけれど、体もがっしりしていて、濃紺地に緋色の襟が映える騎士服がよく似合っている。もう完全に大人の男性だ。
あんなに剣の腕の立つクラウスお兄様も、オスカーには一度も勝てないのだと言うのだから、余程の実力の持ち主なのだろう。
最近はそんなオスカーを見るとドキドキして胸が騒がしくなるから、つい視線を逸らしてしまうのだった。
「だからって無視することはないと思うわ! すごく嫌な気分よ」
「ですが、エルンスト様もパトリツィア様のことを大事に思われていることは間違いないと思いますよ」
「……そうかしら」
心なしか優しげな声でオスカーに言われ、なんだかむず痒い気持ちになる。
照れ臭さにも似た感情を飲み込むように、私はまたハーブティーを一口こくりと飲んだ。
「そういえば、ヘレナってば遅くない? 朝には帰ると言っていたのに、どうしたのかしら」
話題を変えるように私がそう言うと、オスカーは軽く首を傾げて考えるような仕草をした
ヘレナは私の専属侍女だ。私の五つ年上で、まるで姉妹のように仲が良い。
ヘレナが遅れるなんて初めてのことで、心配になる。
「確かに遅いですね。彼女、昨日一昨日は休んでましたよね。家族の葬儀でしたか」
「そうなの。何でも、お父様が急に亡くなってしまったのですって。大変よね……」
もしも私のお父様が亡くなってしまったらと考えるだけで、震えてしまうくらいに恐ろしい。
しかもヘレナにはまだ幼い弟妹も居たはずだ。
ただでさえ女性の身で働きに出なければならないほど困窮しているというのに、大黒柱が居なくなってしまったとあっては、きっとヘレナはこれまで以上に苦労するだろう。
もう少しゆっくりしてきてはというパトリツィアの言葉を固辞し、必ず今日には戻ると言っていたはずだが、何か余程のことがあったのだろうか。
そう考えていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
はいという返答にドアの影から顔を出したのは、二番目のお兄様、ディーディリヒお兄様だった。
「僕のかわいいお姫様〜? ご機嫌はどう〜?」
「お帰りなさいディーディリヒお兄様! 式典はどうだった?」
急いでお兄様に駆け寄って、その胸に飛び込む。
ディーディリヒお兄様もぐんと背が伸びて、とても格好良くなった。
優しく甘い顔立ちが女性に大層人気なようで、王宮で働く女性たちはみんなディーディリヒお兄様に夢中だ。
類に漏れなくヘレナも夢中なようで、よく頬を紅潮させてはどれほどディーディリヒお兄様が素敵かという話をしている。
私に良く似た波打つ金髪を綺麗に右から左に流して、折に触れて前髪をかき上げる仕草がどうにも気障っぽく、妹からするとかなりむずむずする。
それでも私を誰よりもお姫様扱いしてくれるし、公式行事に出られない私の代わりにいつも色々な話を聞かせてくれる。だから、私はディーディリヒお兄様が大好きだ。
「今日の父上は本当に格好良かった! 式典に現れたゲーグナーを一網打尽にしてさ、国民たちも熱狂してたよ!」
「まあゲーグナーたちが現れたの⁉︎ みんな無事だった⁉︎」
ゲーグナー。
それはここ数年で名前を聞くようになった集団で、現王政に異を唱える武装組織だ。
地方領主との間で何度も小競り合いを繰り返しており、最近では王族が参加する公式行事で攻撃を仕掛けてくることもあるという。
王宮から出たことのない私は出会したことはないけれど、お父様やお兄様たちは何度も対峙したことがあるらしい。
「大丈夫だよ。なんて言ったって、父上はアルノー様の絶対的守護下にあるしね。ゲーグナーなんて屁でもないさ」
そう言ってディーディリヒお兄様は優しく微笑むと、私の頭を優しく撫でた。
分かっている。アルノー様の守護がある限り、レーベン王家の治世は絶対。それは間違いないのだ。
アルノー様とは、この国の国教であるアルノー教が崇める絶対神の名だ。
アルノー教は他の宗教とは全く違う。何故なら、アルノー様は実際に「存在する」からだ。
そもそも我が王家の始まりは、アルノー神との契約から始まっている。
争いが絶えず混沌としていた時代に終止符を打とうと、とある少女が神に祈った。
その祈りにこたえたのが、アルノー神だ。
少女の命と引き換えに、彼女の兄イーヴォに国を統べる力を授けた。
これが、レーベン王国の王家の始まり。全ては少女……ツェツィーリアの献身から始まったとされている。
王都の海岸線から出航して数刻の場所に、アルノー様の御座す島――『祀の島』がある。
その名の通り、島全体がアルノー様を祀る神殿なのだという。
歴代の王は毎年、祀の島に向かって、『託宣の儀』という祈りの儀式を行う。その際に、アルノー様から神託を授かるのだ。
良い神託も悪い神託もあるけれど、アルノー様の御言葉は、絶対。逆らうことは許されない。
その代わり、王には特別な力を授けられている。治安を乱す者を粛清する力だ。
だから、ゲーグナーたちがどんな凶行に出ようと、お父様が負けることはない。
分かっている。分かってはいるけれど、心配なものは心配なのだ。
「パトリツィアは本当にいい子だね。そんなお姫様に、これをどうぞ?」
そう言ってディーディリヒお兄様は、装飾の美しい小さな小箱を取り出した。
「まあ! また何か下さるの?」
「僕の可愛らしいお姫様を飾るのに、宝石はいくつあっても足りないだろう?」
ぱかりと箱を開けると、美しく透き通った翡翠がはめられた、金のペンダントが収められていた。
「綺麗! 私たち王家の色ね!」
レーベン家の王族たちは、歴代美しい翡翠色の瞳を持っている。
プラチナブロンドの髪に翡翠の瞳。それが王家の証。
お父様もクラウスお兄様もディーディリヒお兄様も、エルンストお兄様もそう。
国内の侯爵家から嫁いできたお母様だけが銀髪にラベンダー色の瞳だ。
だからこのペンダントはまさしく、王女である私の為に作られた逸品だと言える。
「翡翠には魔除けの効果もあるんだ。どうか肌身離さず着けていてね」
ディーディリヒお兄様はまた私の頭を一撫ですると、自らペンダントを手に持って、私の首に腕を回した。
かちりと留め具がはまると同時に、ちゅっと音を立てて額に口付けが落とされる。
「もう! お兄様ったらまた子供扱いして!」
「いいじゃないか。いつまで経っても君は可愛い僕のお姫様さ」
そう言うや否や、これからレディーとお茶の約束があると言って、ディーディリヒお兄様は颯爽と部屋を出ていってしまった。
「全く。ディーディリヒお兄様にも困ったものだわ。もう私のジュエリーボックスはぱんぱんよ」
「いいではないですか。愛されている証拠です」
それまで置物か何かのように静かにしていたオスカーは、言いながら小さく笑った。
なんだか、オスカーにも子供扱いされている気がする。
オスカーやディーディリヒお兄様から見れば子供には違いないかもしれないが、その扱いは不服というものだ。
「しかし、まだヘレナは来ないですね」
「確かにそうね。もう昼前じゃない。どうしたのかしら」
二人で話していると、コンコンというノックの音が響き、再び部屋の扉が開いた。
噂をすれば、当のヘレナがドアの影から顔出す。
「ゲホッゲホッ……遅くなってしまい、申し訳ありません……ゲホッゲホッ」
「まあヘレナ大丈夫⁉︎ とっても体調が悪そうだわ!」
「すみません……。今朝方から急に体調が……でも、大丈夫でゲホッゲホッ」
「ヘレナ。パトリツィア様にうつしては事だ。良くなるまで休んだ方がいい」
オスカーがヘレナの肩を後ろから抱くようにして支える。
そんな様子に嫉妬の気持ちも湧きようがないほど、ヘレナの顔色はみるみる悪くなっていく。
「ヘレナ、酷い顔色だわ。早く部屋に戻って休んで。後でお医者様を向かわせるから」
思わず私もテラスから部屋に戻り、ヘレナに駆け寄る。
その瞬間、ヘレナは更に激しく咳き込み、口を押さえていた手から赤い液体が溢れた。
「えっ⁉︎ 血⁉︎ 大丈夫ヘレナ⁉︎」
「近寄ってはいけませんパトリツィア様! 毒かもしれない!」
オスカーの静止にぴたりと足を止める。
オスカーは大きな声で他の騎士を呼ぶと、ヘレナを抱えて部屋を出て行った。
その時にはもう、ヘレナは意識を失っているのか、だらりと四肢が投げ出されていた。
「大丈夫かしらヘレナ……」
私は心の底からヘレナのことが心配で、一人部屋で呟いた。
まさかその夜、彼女の訃報を聞くことになるとは知らずに。




