第一話 この国で一番大切なもの
はぁはぁと息を切らしながら、私は駆け足で国王執務室へと向かっていた。
王宮の中庭に面した回り廊下を、初夏の日差しが明るく照らし出し、爽やかな風がそよそよと私の波打つ金髪をなびかせているのを感じる。
頬に熱が集まって、きっと紅く火照っていることだろう。
地方の視察に行っていたお父様とお兄様が、やっと帰ってきたのだ。居ても立っても居られない。
白いシルクドレスの裾を足で必死に蹴り上げながら、王女として恥ずかしいと言われないように十分注意して、けれど大急ぎでお父様の執務室へと急いだ。
「パトリツィア様。そう急がずとも、陛下やクラウス様はまだしばらく執務室にいらっしゃると思いますよ」
背中に、まだ高い少年の声がぶつかる。私は立ち止まって振り返ると、声の主に目一杯頬を膨らませてみせた。
「だって三週間ぶりにお父様とお兄様が帰ってくるのよ! 早く会いに行きたいじゃない!」
「だからといって、パトリツィア様が転んで怪我をしてしまっては、元も子もありません」
淡々とそう言うのは、幼馴染にして従者のオスカー・シュトルツだ。
青みがかった黒髪と青い三白眼が、少年らしくない彼の冷静な性格をより際立たせている。
まだ十三歳の彼は、単に私の話し相手でしかない。けれど将来的には、騎士団長である彼の父のように、剣を極めて、私の専属護衛になる予定だ。
今も濃緑の騎士服に似た衣装を身に付けており、腰に巻いた緋色のサッシュベルトには、いつものように子供用の剣が下げられている。
剣の腕はかなりいいらしいとクラウスお兄様に聞いたけれど、剣さばきを見ても私にはよく分からない。でも訓練中のオスカーがかっこいいのは確かだ。そう、本当にかっこいい。
いや、今はそれはどうでも良くて。
「すぐにお仕事が忙しくなってしまうかもしれないでしょう? だから急がないといけないの!」
「それを言うなら今も忙しいことと思いますが……」
「もう! 大臣たちが来たらもっと忙しくなるってこと!」
再び小走りしながらオスカーにそう叫んで、私はノックもそこそこに、お父様の執務室に足を踏み入れた。
「お帰りなさいお父様! クラウスお兄様!」
「おお! これは可愛い可愛い私の姫ではないか! おいで、パトリツィア」
そう言ってお父様はわざわざ席を立ち、腰を屈めて両腕を広げてくれた。
私は勢いよくお父様の胸に飛び込んで、ぎゅーっと力を込めて思い切り抱きしめる。
まだ正装のままのお父様は肩章や頸飾を身に付けているから、それらが顔に刺さって痛いけれど、そんなことは気にならない。
ただ、お父様が帰ってきたことが嬉しくて仕方ない。
宰相のゲオルグや騎士団長のフリッツと、何やら書類を見て真剣な話をしていたようなのに、当の書類はデスクの上に投げ捨てられている。
お父様と一緒に視察に行っていたフリッツは、まだ金色の甲冑を脱いでもいない。本当に帰って来たばかりなのだろう。
「また随分重たくなったんじゃないか? 姫の成長は目覚ましいなあ」
「まあ重たくなったとは失礼ですわ! 私もう七歳よ! 立派なレディなんだから!」
「ははは、そうだな可愛いレディ」
お父様は笑いながら、私の髪よりも幾分くすんだ金色の髭を、ぞりぞりと私の額に擦り付けてくる。
その感触が痛いと同時に、嬉しくて仕方がない。
「父上、パトリツィアが痛がっていますよ」
お父様の横に立ってオスカーと話していたクラウスお兄様が、そう声を掛けた。
長男であるクラウスお兄様はオスカーと二つしか違わないけれど、今回初めてお父様に付いて地方の視察に行ってきたのだ。
お父様の服に似た濃紺の正装で、肩から斜めに掛けている白いサッシュは、このレーベン王国の王族の証だ。
まだ立太子はしていないけれど、多分それも時間の問題。
今回の視察の前、クラウスお兄様は王子として初めて正式な仕事をするのだとかなり意気込んでいた。
そのせいだろうか。かなり疲れているのか、目の下に隈が覗いて見える。
「お、そうか? すまないパトリツィア」
「大丈夫よお父様。気にしないで! じゃあクラウスお兄様、お兄様も抱っこしてください!」
「もうレディなんだろう? 無理言うな」
笑いながら軽くいなしたお兄様は、やはりとても疲れているようだった。
せっかく私を抱っこさせてあげて、癒してあげようと思ったのに。
むすっと膨れる私を見てお父様とゲオルグが声を立てて笑っていると、コンコンとノックの音が響いた。
執務室に入ってきたのは、お母様とディーディリヒお兄様、そしてディーディリヒお兄様の後ろにくっ付いたエルンストお兄様だった。
「あなたお帰りなさい。クラウスも、無事でよかったわ」
お母様がお父様を抱きしめ、次にクラウスお兄様を抱きしめる。
「兄上! 初めての視察はどうでしたか!」
その横でディーディリヒお兄様がきらきらした瞳でクラウスお兄様に迫っている。
あまりの勢いに、クラウスお兄様は後ろにのけ反っているようにさえ見えた。
「ああ、かなり有意義な視察だったよ」
「いいな兄上は! 僕たちも大きくなったら父上の仕事に付いていきたいな! エルン!」
「はい!」
「いつかな。それまでしっかり勉強しろよ」
クラウスお兄様は、ディーディリヒお兄様とエルンストお兄様の頭を両手で撫でながら言う。
その言葉が嬉しかったのか、ディーディリヒお兄様とエルンストお兄様は、また瞳を輝かせた。
その様子に、私はまた頬をぷくりと膨らませた。
「ずるいわ! 私もお父様たちと王宮の外に行きたい!」
私がそう言った途端、お父様を始め、大人たちは困ったような顔をした。
お父様は小さく咳払いをすると、私の頭に大きな掌を置いて、腰をかがめて私と視線を合わせる。
「言っただろう? お前は女の子じゃないか。いいかい、女の子はどんな宝よりも大事なものなんだ。だから家から出さずに、大事に大事に育てる。それは貴族も平民もみんなそうだ。しかもお前はこの国で唯一の王女じゃないか。この国で一番大事なものだと言っても過言じゃない」
「でもお母様はよくお父様とお外に出てるわ。公式行事にも出てる!」
「だからそれはね、結婚した女性は違うのよ」
お母様も隣に並んで、私の肩に手を置いた。
それでも私は納得ができず、口をへの字に曲げたまま腕を組む。
「じゃあ侍女やメイドたちはどうなの! 結婚してない子も多いけれど、みんな家から離れて働いているわ!」
それを聞いたお母様とお父様は顔を見合わせ、再び私に向き直ると眉を下げてみせた。
「パトリツィア、彼女たちにそんなことを言っては駄目よ。彼女たちはね、お金に困っている子たちなの。女の子を大切に育てる余裕がないから、働きに出されているのよ。未婚の女の子が働くというのは、つまり貧しいということ。それなのに『何であなたは働いてるの?』なんて面と向かって言われたら、彼女たちが可哀想でしょう? だから言っては駄目。優しいパトリツィアになら分かるわね」
お母様にそう諭されて、私はしょんぼりと頷くしかなかった。
幾度となく聞いた話だ。
女の子は働く必要はない。勉強もする必要はない。何よりも大切な宝だから。大事に大事に家の中にしまっておくのが普通だと。
家長が見つけた結婚相手と結婚するまでは、家の外に出ない。
何度も聞いたし、頭では理解している。それが、自分が大事にされているからだということも分かる。
けれど、いくら王宮が広くても、自由に外に出ていける家族が羨ましかった。
まだお父様とお母様は仕事があるからと、クラウスお兄様を除く子供たちは皆執務室を出ることになった。
ディーディリヒお兄様とエルンストお兄様はこれから家庭教師と勉強だから、私だけ特にやることはない。
最近は暇つぶしも兼ねて刺繍を習い始めたから、今やりかけの図案を完成させてしまおう。
オスカーを伴って自室に帰る途中、急に「おい!」と声を掛けられた。
声で、エルンストお兄様であることは分かった。
でも正直振り返りたくない。エルンストお兄様は、この王宮で唯一、私に意地悪だから。
「おい! 聞こえてるのかパトリツィア!」
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるわ。どうしたの? エルンストお兄様」
「なんで能無しのお前が、一番最初にお父様の所に行くんだよ。おかしいだろ」
キッと私を睨みつけて、お兄様は言う。
お兄様は私の三つ上で身長も高くないし、別に怖くはない。けれど、毎度毎度こんな風に悪意をぶつけられたら、いくらなんでも嫌になってくるというものだ。
「エルンスト様、少々お言葉が過ぎるかと思われます」
オスカーが私を背中に隠すように、エルンストお兄様の前に立ちはだかる。
それに更に気を悪くしたのか、オスカーの背中越しに、お兄様がより眉間の皺を深くするのが見えた。
「うるさいぞオスカー! パトリツィアの犬の分際で……! クラウス兄様と仲が良いからって、何か勘違いしてるんじゃないのか!」
「お兄様! 酷いわ言い過ぎよ!」
「そもそもお前のせいだろう! 何も学ばず、訓練もせず、お前のような女がこの王宮でのうのうと暮らしているなんて、金をドブに捨てているようなものじゃないか!」
じりじりと私に迫りながら唾を飛ばすエルンストお兄様の顔には、憎悪が浮かんで見える。
興奮して、完全に頭に血が昇っているようだ。
「そんな風に思っていたの……? そんな、私だって好きで女に生まれ訳じゃないのに! 酷い……」
じわじわと目頭が熱くなり、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
拭っても拭っても涙は止まらず、ついにわんわんと声を上げてしまう。
「ひどい‼︎ エルンストお兄様の意地悪! 悪魔‼︎ 私能無しなんかじゃないもん‼︎」
「うるさい‼︎ そうやって泣けば許されると思ってるんだろう! だからお前は嫌いなんだ‼︎」
「うるさいのはお前だぞ、エルン」
不意に、低い声が聞こえた。
視線を上げると、エルンストお兄様の後ろに、お父様が居た。その横には、お母様とクラウスお兄様、それにディーディリヒお兄様も居る。
「妹に対してなんて言い草なんだ。それでもお前はレーベン王国の王子かッ!」
お腹にどすんと響くような声で、お父様が叱責する。
思わずエルンストお兄様は肩を跳ねさせて、一歩足を引いた。
「……お前にはきちんと話をしなければならないな。来い」
「エルン、行くよ」
お父様とクラウスお兄様の後を、エルンストお兄様が肩を落としてとぼとぼと付いていく。
二人に怒られるのが怖いのか、体を震わせているように見えた。
「ああパトリツィア、悲しかったわね。大丈夫、お父様とクラウスがきちんと話してくれるわ」
「本当にあいつは馬鹿だよな。気にするなよ」
お母様は私を抱きしめてくれて、頭の後ろに腕を組んだディーディリヒお兄様は、呆れたようにエルンストお兄様が去っていた方を見つめる。
二人の言葉が嬉しくて、私はお母様の腕の中でわんわん泣いた。
「エルンストお兄様なんて嫌い! オスカーにも酷いことを言って! エルンストお兄様なんてもうお兄様じゃないわ!」
「そんなこと言わないで可愛い子。あなたとエルンは年も近いし、女の子であるあなたのことを羨ましいと思うこともあるかもしれないわ。でも、きっとエルンも理解してくれる」
「じゃなきゃ、困るのはあいつだもんな」
何度もお母様とディーディリヒお兄様に慰められて、私はやっと涙が引いた。
鼻をぐすぐすさせながら、ディーディリヒお兄様に手を引かれて自室に帰った。
自室のソファーに寝そべって、オスカーに泣きすぎて腫れてしまった瞼の上に濡れたタオルを置いてもらう。
その間も、エルンストお兄様の悪口をずっと言っていた。
どんなに仲が悪くても、数日経てば仲直りするものだと思っていたこの時の私の予想は、見事に外れることになる。
エルンストお兄様とはこの後六年の間、まともに言葉を交わすことがなくなるのだから。




