3 行き先が同じ
「テメエ……ッ!」
さっきまでヒナの近くにいた乗客達はすでに逃げていて、遠巻きにヒナ達のことを見守っている。なかにはスマホを取り出して写真や動画を撮影している者もいた。
チンピラの男がジュウゴの襟を掴んだ。
「どうやら殺されてえらしいな⁉ お望み通りブッ殺してやるよッ!」
男が再び拳を握り、ジュウゴへと振りかざす。迫るその拳を、ジュウゴは首を少し傾けるだけで回避した。
直後、男の顎がガゴンッと、まるで天井を見上げるように上に反り上がった。
「……てめーから隠してくれたのはありがたいぜ、ブタヅラ」
ジュウゴが小さな声でつぶやいていた。あまりにも小さい声であり、近くにいたヒナにしか聞こえず、遠巻きに見ていた乗客達には聞こえていない。
また男とジュウゴの身体が邪魔になって乗客達には見えなかったし、スマホのカメラにも写っていなかったが、男の顎を反り上がらせたのはジュウゴのアッパーだった。すぐそばにいたヒナだけが、一瞬のうちにおこなわれた彼の反撃に気づくことができた。
顎に衝撃を受けた男がジュウゴから手を離し、その場で二、三歩たたらを踏む。それから目をグルンッと白く剥いて、その場に倒れ込んだ。完全に気絶していた。
(……脳震とう……っ)
以前読んだ漫画のなかに同じように敵が倒れる描写があり、ヒナは目の前のチンピラの身に起きた症状がすぐに分かった。同時に、それをいとも簡単に引き起こすことができたジュウゴに驚いてもいた。
(……素人がそんな簡単にできることじゃないはずなのに……)
その漫画のなかで説明されていた知識を、ヒナは思い出していた。脳震とうを意図的に起こすことは武術の心得がある者でも難しいと。
口を少し開けて驚いた顔をしているヒナへと、ジュウゴが振り向く。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「へぁ、あ、ふぁいっ」
いきなり声をかけられたので声が裏返ってしまった。ジュウゴが頭に小さなハテナを浮かべていた。
「ふぁい?」
「あ、その、大丈夫ですっ」
とっさに言い直す。ジュウゴは納得したらしい。
「そうですか、良かった」
彼の口ぶりからして、ヒナが学校のクラスメイトだとは気づいていないらしい。ヒナは内心で少しがっかりしてしまう。
(……気づいてないんだ……わたしのこと……)
……確かにわたしは陰キャだし、見た目も地味だし……可愛くないほうだし……存在を認知されてなくても仕方ないよね……。
チンピラがさっき言っていたブサイクという罵倒を思い出して、ヒナはいっそう、ずーんと落ち込んでしまう。しかしジュウゴは彼女の様子に気づいているのかいないのか、無事であることを確認すると今度は老婆のほうを向いて近寄っていった。
その老婆へと身を少し屈めるようにして、手を差し出しながら。
「大丈夫ですか、おばあさん? 立てますか? 手を貸しましょうか?」
「ありがとうねえ、おにいさんや」
老婆がジュウゴの手を取る。ジュウゴはもう片方の手で老婆の身体を支えるようにして、負担がかかりにくいようにゆっくりと立ち上がらせた。
「怪我はありませんか? 骨折とかしていませんか?」
「あはは、してたら立てないけどねえ。でも、ありがとう。おにいさんも怪我は大丈夫かい?」
「俺なら平気です。あっちの女の子も無事です。ちょうどそこに席が空いてるので、座りましょう。優先席ですし」
そこはチンピラが座っていた席だった。老婆を座らせたあと、ジュウゴは近くを転がっていた杖を拾って老婆へと渡す。
「いろいろとありがとうねえ。若いのに勇気があって偉いねえ」
「褒めるなら、あっちの女の子を褒めてください。最初におばあさんを助けようとしたのは彼女なんですから」
「そういえばそうだったねえ」
老婆がヒナのほうへと顔を向ける。
「お嬢ちゃんもありがとうねえ」
「あ、いえ、わたしは……」
……結局なにもできずに、逆に助けられただけなのに……。
お礼と笑顔を向けてくる老婆に対して、ヒナは申しわけないやら情けないやら、そんな気持ちを抱いてしまう。
電車内にアナウンスの声が響き渡る。次の駅にまもなく到着するらしく、窓の向こうに駅のホームが見えてきていた。
ジュウゴが老婆に言う。
「それじゃあ、俺はここで降りるんで」
「そうかい。それじゃあねえ。本当にありがとうねえ」
「……じゃあ。お元気で、おばあさん」
手を振る老婆に片手を少しだけ上げて応えて、ジュウゴは開いたドアからホームへと出ていった。
急ぐように走り去っていく彼の背中を見送って……ヒナも、あっと思い出す。
(わたしもここで降りるんだった……)
笑顔を向けて手を振ってくる老婆に会釈を返して、ヒナも急いで駅のホームに降り立っていく。
偶然にも、ジュウゴが走っていった方向と行き先が同じで、彼のあとを追うようにしてヒナも急いで走っていた。
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