2 由仁重護
オフ会のみんなからちやほやされる妄想を頭のなかに描いていたとき、ヒナの耳に粗雑な男の声が聞こえてきた。いまにもケンカをふっかけそうな暴力的な声だ。
「オラッ、ババア! ぼーっと突っ立ってんじゃねえ!」
「あいたっ」
ドタッと鈍い音がした。ヒナが思わずそちらを見ると、高齢の老婆が床に手をついて倒れていて、その前の座席に若い男がドッカと腰を下ろしているところだった。
男が老婆を押しのけて座席に座ったらしい。男の声が大きく、老婆が倒れたこともあって、ヒナ以外にも周囲の乗客達がそちらへと顔を向けていた。
周囲の視線に気づいて男が声を上げて威嚇する。
「アアッ! 何見てやがんだ⁉ ブッ飛ばされてえか⁉」
さっと周囲の者達が視線を逸らし、ヒナもとっさに顔を背けてしまう。『ユートピア』のなかでは最強のヒナだが、現実ではただの普通の女子学生でしかないのだから。
(……くやしいな……)
ついそんなことを思ってしまう。もしここが『ユートピア』であれば、いくつもある激レアスキルのうちのたった一つを使うだけで、あのようなチンピラなんか瞬殺できるというのに。
現実ではただの女の子である自分が悔しくて、情けなくも思ってしまう。そんな思いからか、ヒナはちらりと、男に気づかれないように様子を伺った。
おそらくは他の乗客達もちらちら見ていたかもしれない。老婆は持っていた杖を床に落としてしまっていて、それを拾うこと、および立ち上がることに手間取っているようだった。
そんな目の前でもたついた様子の老婆に苛立ったのだろう、男が再び声を張り上げた。
「ババア! いつまでもそこにいるんじゃねえ! 邪魔なんだよ!」
そして片足を上げて老婆の丸まっている背中を蹴り飛ばそうとしているのを見て……ヒナは声を振り絞っていた。
「や、やめてください!」
「ンア⁉」
片足を空中で止めて、男がヒナを見る。睨みつけてくる視線に、ヒナは頭から爪先まで小刻みに震えてしまっていた。
「何だブス⁉ すっこんでろドブス!」
……ぶ……っ。
自分は陰キャだしクラスでも可愛くないほうだと、ヒナ自身も自覚しているつもりではある。しかしこうして直接言われてしまうと、やはりショックは受けてしまう。
が、いまはそんなことよりも。ヒナはショックを振り払って続けて言った。自分の精神的ショックなんかよりも、おばあさんの身体が怪我させられようとしているのだから。
「や、やめてくださいって言ったんです! おばあさんが怪我しちゃうじゃないですか!」
「ハア⁉ こんなババアなんかどうでもいいだろうが! 死んでも誰も困らねえよ!」
「そんなことありません!」
「ウッセーんだよ! ドブスが!」
ヒナが歯向かってきたからだろう、男は老婆へ上げていた足を下ろして、座席から立ち上がるとヒナの元までズカズカと近づいてきた。
「さっきからムカつくガキが! 二度と口答え出来ねえように黙らしてやる!」
「……っ⁉」
男が拳を振り上げる。
もしもこの場が『ユートピア』であれば、防御系のスキルを使ってノーダメージに抑えることも、回避系のスキルで簡単に避けることもできるだろう。
しかしここは現実であり、ヒナの身体能力は平均的な女子学生のそれとたいして変わらない。目の前の男の殴りかかってくる拳に対して、とっさに対処することはできなかった。
ヒナにできたことといえば、ぎゅっと目をつむることだけだった。
そしていまにも男の拳がヒナの顔に直撃しようとしたとき、ばちんっと固く高いような音が響いた。それとともに男の声。
「グアッ⁉」
「だまんのはテメーだよ、ブタヅラ」
同時に、別の若い男の声。ヒナが目を開けて声のほうを見ると、そこには見知っている顔があった。
「由仁くん……?」
それはヒナのクラスメイトの男子だった。由仁重護。男の振り下ろしていた拳を、ジュウゴの足がハイキックの要領で蹴り上げて弾いていたのだった。