藤原邸①
章一郎が鎌倉駅を降りたのは初めてだった。駅前からバスに乗って藤原邸の近くまで行けると聞いていたが、時刻表を見たところまだ時間があったので少しうろつくことにした。
和輝から「竹下通り並みに混雑している」と聞いていた小町通りも、平日の午前中なので人通りはまばらだ。駅からそう離れていない場所に、「喫茶店」という名がよく似合うレトロな趣の店があり、章一郎はそこで時間つぶしをすることにした。
ウエイトレスにアイスコーヒーとホットケーキを注文し、待っている間に鬼島から渡された地図をポケットから出して開いた。
青いインクで「鎌倉駅下車」、の文字のあとに十二所バス停と書いてあり、その下に鉛筆の線でぐねぐねと曲がった道が記されている。ぐねぐね道の終了地点には二重丸があり、どうやらそこが藤原邸の所在地のようだった。
――藤原鉄線とはどんな先生、いや人間なんだろうか?
突然自分には不向きな部署へ移され、担当する事になった先生のもとへ挨拶に行く。事前に情報を調べようにも相手は正体不詳の作家。手持ちの知識は代表作のタイトルと噂だけ。業界内の噂では、どんなおべっかも差し入れも通用しない、気難しく威圧的な風貌の中年男性だと聞く。だが生来相手の態度など気にならない章一郎は、本を読まない人間としてそれほど人を夢中にさせる文を書く人物とはどんなものなのか、ただ気になった。
想像以上に分厚かったホットケーキを食した後バス停に戻ると、喫茶店でのんびりしすぎたせいでバスを目前で見送る羽目になってしまった。
力落ちしていると他の路線バスを待っていた老人に、どこへ行くのかと尋ねられた。章一郎は十二所へいきたいんです、と告げると老人は十二所ね、そこなら歩いても行けるよ。と言い、
「鎌倉は歩いた方がいい。若者、歩きなさい」
と言った。
若宮大路を鶴岡八幡宮方面に歩いて突き当ったら右折、金沢街道という所を往けば着くからと。
章一郎は老人の言うとおり歩く事にした。暑さの厳しい昼間、普段なら交通機関を利用したいと思う所だったが、この初めて訪れた有名な街を散策してみたい気持ちもある。
鶴岡八幡宮に突き当たって右に曲がったあたりで、老人の言葉が真実ならおそらく金沢街道と思われる道に入った。道ではカメラを手にした人と何人かすれ違う。趣味で古都の風景などを撮っているのだろうか。無趣味な章一郎には不思議な人種に映った。
沿道には進むたびにバス停があり、この道で間違いないなと安心して歩いていると、どんどん歩道の幅が狭くなってきた。いつの間にか人通りも減り、目に入る緑も多くなってきた気がする。
しかしそんな道にも時より目を引くセンスをもったカフェやレストランがあるので油断がならない。きっと自動車だったら通り過ぎてしまうだろう。そのどれもが呆れるほど簡素な看板なのだ。元情報誌のグルメ班としては思わずメモってしまいそうである。
老人の真意は分からないが、なるほど、鎌倉は歩いたほうがよいというのは確かなようだった。
どこまで歩けば着くのだろうかと気になり始めた頃、緑はさらに濃くなっていて、道の横にはいつの間にか川が流れていた。覗き込むと流れは見えないくらい穏やかだった。
額の汗を拭いながらさらに歩くと次のバス停があり、誰も待っていないバス停には十二所の文字があった。
鬼島から貰った地図を再び開く。十二所、の文字の横に続く道らしき線はどうやら川を挟んだ向こうに続いているらしい。
短い橋を渡ると狭い路地が一本続いていて、路の両側の塀には蔦が覆い庭木が迫り出し、緑が歩道を往く者を人家のある世界から遮断しているようだった。路地を進むたびにぼうぼうと藪に覆われた暗い水面の川が現れては消え、蛇行して流れているのか別の川なのか分からなくなる。鬼島の地図に目をおとしてもただ灰色の線がうねうねと描かれているだけで、いま自分がいる場所が正しい地点にいるのか確信が持てない。
やがて人家が途切れ途切れになってからもさらに歩みを進めると、見知らぬ紫色の花と竹藪に覆われた崖に突き当たった。
「行き止まり……?」
いや、よく見ると崖の脇には左に向かってカーブした石の階段があったが、崩れかかっているうえに段と段の間にも雑草が茂っていて、あまり使われている階段とは言い難かった。階段の途中から先は木々の闇で鬱蒼としているせいでよく見えない。
この道で合っているのか鬼島に聞こうと思い電話をかけたが、会議中なのか留守電に繋がってしまった。
「うーん、とりあえず行ってみるかな」
階段を上ってみると下からは雑草でよく見えなかったが、足元にはソーラー式の常夜灯が打ち込まれていた。朽ちかけてはいるが誰かが使っている道な事は確からしい。木々に囲まれた暗い階段は暑い昼下がりにも冷涼な風が通り抜けて心地よかった。
階段を上がりきると、あまり予想していなかった場所に出た。章一郎はなんとなく金持ちそうな和風の邸宅地に出るかと思っていたのだが、そこに広がっていたのは崖に挟まれた小さな谷の田園風景だった。都心から僅かな距離の土地の風景とは思えない秘境のような趣に思わず棒立ちになったが、一本だけ先へと道が延びていたので進むことにした。もはや鬼島からの地図を当てにするのは止めた。
崖のカーブに沿って波線を描く畑を横目に眺めながら往くと、しばらく手入れをされていないであろう荒れた笹林が正面に広がっていた。笹達はみっしりと詰まって生えていて、まるで蜘蛛の子一匹通すつもりもないようだった。少し笹林に沿って左へ移動すると人が一人通れるくらいの小路があって、まるで笹のトンネルの様なそこからは向こう側の明るい日差しが見えている。
章一郎は革靴じゃなくてスニーカーで来れば良かったと思いながら笹林を抜けると、空き地のような原っぱに出た。原っぱの右の方には一体いつの時代からあるのか分からないような古井戸があり、よく見ると茶色のかえるが井戸の淵にじっと座っている。章一郎がしゃがんで見つめているとふいにびよん、びよん、びよんと飛んで林の中に入って行ってしまった。立ち上がってかえるの消えた方に歩いて行くと、林の合間から何か建物の様なモノが見えた。
「あれは……?」
林道を抜けて近づいてみると、それは――恐ろしく古くて威圧感のある木造の門だった。
門の屋根の上は苔がむしていて小さな植物も生えてしまっている。黒々とした門の扉は閉じられていたが、どうも妙なのはただ門だけがそこに立っていて、門の横に続くはずの塀が無いのでどこからが家の境界線が分からない。どこからでも敷地に侵入できるので門が閉じている意味は全くないように思われる。
まるで寺院のような門に近づいて見上げてみると、右上に掲げられた板に塗装は落ちてしまっているが「藤原」の二文字が彫られているのを見つけた。
「うわー、もしかしてここが藤原先生のお宅?」
勝手に入るのは憚れたがインターホンも塀も無いので「お邪魔します」とだけ一応言って中へ入る事にした。
門の脇から中に入っても苔むした石畳の道が続くばかりで家屋がなかなか見当たらない。とても広い敷地のようだ。庭園というよりは樹木に好き放題覆われていて、これではなんだかさっきまでの道とそう変わらないような気がしてきた。誰かに尋ねたくても誰も見かけない。本当に家の中に入れているのだろうか?なにぶん塀という境界線が無かったのでそれすらも分からなくなってきた頃、ようやく能舞台のような建物を見つけた。こちらも門と同じく随分と歴史を刻んでいるようで、装飾を施されていない簡素な造りだが非常に頑丈そうな建築物だった。舞台から左側に渡り廊下が延びていて、時代劇の撮影所の様な屋敷と繋がっている。
思えばここまで随分と歩いたような気がする。章一郎は舞台に上がるきざはしに腰かけてペットボトルの水をいっきに飲み干した。汗を拭った後、葉擦れの音といくつかの種類の蝉の声にまぎれて人の話し声が聞こえないか耳を澄ます。
(先生は留守なのかな。)
奥の屋敷には居るのだろうか。そう思いながらも、とりあえず少し休みたかった。ちょっとだけならいいだろうと、舞台の上に上がらせてもらう事にする。大の字になって寝そべると、そこはよく風が通って気持ちがよかった。一応勤務中である事はすっかり忘れ章一郎の瞼はだんだんと下りていき、知らないうちに時間が過ぎて行った。
「嫌だわ。勝手に人の家に上がって寝ているだなんて。」
突然頭上から聞こえた声に驚いて飛び起きると、そこには濃紺の剣道着に身を包んだ凛々しい女性が立っていた。