腑に落ちない日々③
藤原鉄線は数々の賞を受け、長年人気が落ちることなくベストセラーを出し続けている大物作家だ。本を読まない章一郎にもその名はあたりまえに知っている。唖然としている章一郎をよそに木島は続けた。
「藤原鉄線の担当をしていた滝沢というヤツが先日病気で倒れてしまったんだよ。代打を送ろうにも部内の連中は手一杯なのでね。……というのは建前で」
章一郎は鼻で大きく息を吸って言葉の続きを待ち受けた。
「キミ、藤原鉄線が公にプロフィールを公開していないのは知っているね?式典には一切顔を出さない。顔写真も存在しない。あの先生は自分の認めた担当者としか一切コンタクトを取らないんだ。連絡先を知っているのも編集長の僕と担当者だけ。今はウチでだけ書いているが、他社で書く場合においても同様だったそうだ。藤原鉄線という作家は、原稿を書くにあたって自分の全ての情報を非公開にし、漏らさないことを絶対条件に書いてくださっている」
木島はそこで言葉を切って組んでいた腕をほどき気だるく髪をかきあげた。章一郎はそのしぐさを見、なるほど、女性にモテるはずだと場違いながら思ってしまった。
「だから、分かるね?何よりも君に求められるのは秘密を厳守する事。例えばもし君が担当編集として知り得た先生の情報をうっかりネットでつぶやきでもした場合、ウチは唯一無二の人気作家を失ってしまうという事だね」
「その辺は大丈夫だと思います。自分、口は固い方だと人には言われてるんで。それよりもそんな大先生に俺なんかが担当として務まるのかが疑問です。俺、情報メディア学部出でこの業界入ったんですけどブンガクとかからきしダメで。小説とか全然読まないんですよ。」
「まぁまぁ。畑違いの編集部へ異動なんてめずらしくもないよくある話だよ。それに担当だからといって君は先生にアイデアを提案したり、プロットに口出ししようなどとは思わなくていい。そう、君に求めている事は先生と編集部のメッセンジャーになって欲しいんだ。」
鬼島は少し小声になり続けた。
「なにしろ藤原先生は締め切り前によく自宅から姿を消しぷっつりと音信不通になる。そして締め切りギリギリにふらりと戻ってくるんだ。さすがというべきか原稿を落とした事は今まで一度もないのだけれど、並みの神経の担当では肝を冷やすどころか胃潰瘍やメンタルの病になってしまう始末でね。メールもFAXも無い、入稿も手書きの原稿用紙なので本人に直接会えなければアウト。だから何よりもまず神経が太くて先生と確実に連絡が取れて、口が堅い人材が必要だったんだよ。」
章一郎は一呼吸おいてああ、と言い崩れていた姿勢を正した。今の説明できれいに腑に落ちた気がする。
「それなら全然OKです。とにかく先生と連絡を取っていればいいんですね」
鬼島はにっこりと笑うと嬉しそうに小さく折りたたんだ紙を渡してきた。
「そう。さっそく明日先生のお宅にご挨拶してきてくれないかい。」
紙には地図らしき図と青いインクで鎌倉駅下車、と書いてあった。
「病んでいるな」
ジャノヒゲの青い実が見事に垂れ下がった模様のステンドグラスから、夏の強すぎる日差しが青色に染められて部屋に差し込んでいる。この館の主は仕事の合間をぬって昼下がりによくこの部屋で読書をする。読み終えたばかりの本を閉じ水差しに手を伸ばしたところでダン、ダン、ダンと渡り廊下から遠慮のない足音が聞こえた。
「よくもこのクソ暑いのに冷房も扇風機も無い部屋で読書ができるもんだなァ」
「人の闇を描くよりも人の光を描く方が難しいと思うのだがなあ、源次郎」
源次郎と呼ばれた男は、館の主が手元に置いていた本(夏輝賞受賞作品!の帯がかかっている)をちらと見、頭をぼりぼりと掻いた。
「最近の文芸傾向を俺に聞かれたって分かんねえよ。それよりほら、鬼島の旦那から手紙が来てたぜ」
館の主は座ったまま手紙を受け取るとすぐにその場で開封した。そして藤色の和紙で綴られた手紙を開くなり思い切りしかめっ面をしてフンと鼻を鳴らした。
「どうしたい」
「鬼島の阿呆がまた新しい担当をよこすだと。あれほど必要ないと言ったのに!」
「そりゃあ鬼島の旦那にも立場があるんだろうよ。だがしかしなぁ…」
ふいに沈黙がおりた部屋では蝉の声がよりうるさく聞こえた。
「こういっちゃなんだが気の毒だ」
館の主はしばし目を閉じると大きなため息をついた。
「鬼島はとりあえず新しい担当の男を向かわせるから、そちらで合否を決めるようにと言っている。合否だと!あの男は本当に鬼畜生のようなヤツだな。使い捨てでもする気か。いままでの担当がどんな目に会ってきたか知らないわけではないだろうに」
「まぁな。で、どうするんだい。」
「源次郎、私は会わないぞ。同じ事の繰り返しはもう御免だ。新しい担当など要らん。源次郎には負担をかけさせてしまうが……」
「なに、俺の事は構わねえよ。今までどおりにやりゃいいんだろ?」
源次郎は笑うと頭に巻いていたタオルを取って顔から滴る汗を拭った。それにしても暑い日だ。「冬の間」と名のつけられたこの部屋は正反対の季節をひたすらじっと耐えているように思える。
源次郎が熱中症に気をつけろよ、と言い残し部屋を去った後、館の主は再び藤色の便箋に目を落とした。
「優秀な人材を確保しました、だと?あの男は自分の部下を生贄にでもするつもりか」