第5話「交差する矢と声」
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夜明け前。空はまだ青とも灰ともつかない色をしていた。
兵舎の外では、靄が地を這うように漂っている。
焚き火は既に消えかけ、兵士たちの吐く息が白く、地面に落ちては消えた。
「……やけに静かだな」
誰かが、ぼそりと呟いた。
その瞬間、遠くで、**“ヒュッ”**という音がした。
風を切る音。……弓だ。
「伏せろッ!!」
斥候の叫びが飛ぶと同時に、数本の矢が一直線に飛び込んできた。
地面に突き刺さる音、肉を裂く音、甲冑を跳ねる音。
「敵襲! 帝国の斥候部隊――接近中!」
そこからは地獄だった。
◆
俺は――アシュレイは、咄嗟に盾を構え、地面へ身を落とす。
周囲では混乱が爆発していた。
誰が誰を押し、どこへ逃げているのか。指揮官の声も混線して届かない。
伍長の姿は見えない。味方の人数すら分からなかった。
「ユリス!」
叫ぶと、背後から駆けてくる足音があった。
「大丈夫か、アシュレイ!?」
「……ああ!」
二人並んで、土嚢の後ろに身を潜めた。
敵影はまだ見えない。だが、弓の精度と数からして、訓練された斥候部隊。軽装で動きも早い。
「来るぞ!」
矢が、また飛んできた。
横にいた兵士の首が裂け、血が噴き出した。
その瞬間、俺の視界が狭まり、時間がわずかに遅く感じた。
恐怖か、集中か――。
だが、それでも俺は、盾を掲げて立っていた。
「アシュレイ!」
ユリスの叫び。
次の瞬間、俺の目の前にユリスが飛び出していた。
鈍い音。
ユリスの肩口に、深く矢が突き刺さっていた。
目を見開き、咳き込む。口元に血がにじむ。
「バカ……ッ、何で……!」
「アシュレイ、動くな、そこは……!」
声が、もう届かないように震えていた。
ユリスの膝が崩れる。俺はとっさに駆け寄り、その体を支えた。
「おい、ユリス! おい……!」
血が手に、服に、腕に広がる。熱いのに、冷たくて震える。
「……や、べぇな、これ……」
ユリスが微笑んだ。死の匂いの中で、冗談を口にする声は、かすかに震えていた。
「アシュレイ、聞こえるか……?」
「ああ、聞こえてる」
「俺……さ、やっぱ、死ぬの怖ぇや……」
「やめろ、まだ……!」
「……でもな、最後に一つ、言っとくよ」
彼の手が、俺の胸を掴んだ。力は弱く、けれど確かだった。
「お前が……俺の“死んでほしくねえ奴”で……良かった」
次の瞬間。
何かが、流れ込んできた。
◆
それは、記憶の洪水だった。
ユリスの幼少期。夜道を一人で歩いた雨の日。
火事の後、ただ焼け跡に座り込んでいた幼い姿。
孤児院で初めて剣を握った時の手の震え。
初陣の夜、震える指先で家族の形見の指輪を握っていた時のこと。
アシュレイと出会った日。
「お前、何考えてるか全然わかんねえけど、なんか気になる」
そう言って笑ったあの顔。
最後の瞬間、ユリスの心には、ただひとつ。
> 「お前が、生きててくれたら、それでいい」
◆
視界が戻った時、斥候部隊の影が、目の前に迫っていた。
弓を放つ準備をしていた兵士の腕の動きが、スローモーションのように見える。
そして、俺の手が勝手に、剣を抜いた。
いや、“抜かされた”。
剣が地を斬り、風を裂き、敵の弓を叩き落とす。
無駄な動きはない。呼吸も、視線の動きすらも、何かが俺を“導いている”。
だが、名前など分からなかった。ただ、確かに“これは俺ではない”と分かっていた。
敵兵が目を見開き、動揺する。
次の瞬間、斬撃がその喉元を裂いた。
◆
戦場の喧騒が、少し遠く感じた。
盾の向こうで、敵の撤退の合図が上がる。
地面に膝をつき、息を吐いた。
俺の横には、ユリスの身体があった。
その顔は、安らかだった。
まるで、もう“怖くない”と言っているかのように。
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