第3話「伍長は命を数で数える」
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朝靄がまだ消えぬ頃。兵舎に怒号が飛んだ。
「集合、五分前だっただろうが! この腐った連邦の怠け者どもが!」
怒鳴り声の主は、伍長――マルヴェック。
仮にも“下士官”であるはずの男だが、その振る舞いはいつも乱暴で、口にする言葉は命令か罵声かのどちらかしかない。
「アシュレイ、お前だ!」
指名された瞬間、頭の中が冷えた。
昨日の斥候掃討任務で、俺は“隊列から遅れた”とされていた。理由は泥に足を取られ、斜面で転倒しただけだったが、そんなことは誰も聞かない。
「前へ出ろ」
無表情のまま、俺は一歩前に出た。
次の瞬間、顔面に衝撃。
ゴス、と拳が頬を捉え、視界が傾いた。地面に膝をつく。
唇の端に、金属の味。
「戦場での判断が遅れるのは、死を意味する! 遅れた奴から順番にくたばるんだよ!」
伍長は吐き捨てるように言った。
まるで、死ぬことが悪だとでも言いたげな物言い。
いや、違う。
“死んでほしい奴が生き残っていること” が、奴には気に入らないだけなのだ。
「誰か文句あるか?」
伍長が周囲を見回す。
兵士たちは、誰も声を上げない。目を伏せ、無言でただ立っていた。
カイルすら、視線を遠くにやっている。
「よし。なら今日も元気に死ぬ気で行け。いいな?」
それが、朝の始まりだった。
◆
顔の腫れは水で冷やしておいた。口元が切れたが、医療班に行くほどではない。
午前中の整備任務で、剣の刃先を磨きながら、俺は考えていた。
なぜ、あそこまで露骨に狙われるのか。
階級は同じでも、伍長に逆らえば制裁が待っている。それは誰もが分かっていた。
けれど、あの時――誰一人として、俺をかばう者はいなかった。
それが、何より痛かった。
「お前、怒んないのな」
声がして振り返ると、ユリスが立っていた。
いつものように、片手で果実の皮を剥いている。
「殴られたのに、無反応。……あれ、逆に怖いわ」
「……怒っても、変わらない」
「それはそうかもしんねえけどよ」
ユリスは笑うでもなく、静かな目をしていた。
「でもさ、何も言わねえってことは、誰かの“やりたい放題”を許してるってことにも、なんね?」
「……」
「お前が怒んなきゃ、あの伍長はまた、誰かを殴るぞ」
正論だった。
だけど、俺にはそれに答える勇気がなかった。
俺が逆らえば、殺されるかもしれない。
それでも、ユリスは俺を責めなかった。ただ、果実を渡して去っていった。
残された果実は、少し酸味が強かった。だが、妙に美味かった。
◆
夕方。
小隊全員が集まる任務前の待機時間。空気が重い。
斥候が何やら慌ただしく本部に出入りしているのが見える。
何かが、起こる。
それを、兵士たちは言葉に出さず察していた。
「なあ、アシュレイ」
また、ユリスが声をかけてきた。
「お前、まだ“死んでほしくねえ奴”って、いる?」
その質問は、前にも聞いた気がした。
「……分からない」
「そうか。……でもさ、俺は、できればお前には死んでほしくねえんだよな」
風が吹いた。
遠くで、野営地の風鈴が鳴っていた。寂しげな音だった。
「お前ってさ。戦場でもあんま他人と喋らねえし、何考えてんのかわかんねえけど。だけどさ、たぶん――」
その続きを、ユリスは言わなかった。
代わりに、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「明日、俺ら、死なねえといいな」
俺は頷いた。言葉にしなかったが、胸の奥で何かが揺れていた。
小さな、だが確かな温もり。
誰かと繋がっている感覚。
それを知った時、俺は初めて、自分が“本当に生きている”と感じたのかもしれない。
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