74.運命の日 ***SIDE母
いま思えば、運命の日だったのでしょう。ルンにとっても、私達夫婦にとっても。それ以上に、世界にとって大きく運命が動いた日だったわ。
家にしている洞窟から見える距離、それがルンに許した行動範囲よ。あの日も、玄関先で遊んでいるのを見かけた。ここは人間の領域が近いため、魔族はあまり訪ねてこない。
夫が竜王位を放棄したため、竜族の子と遊ぶことも難しかった。友人がいなくて可哀想なので、引っ越しも検討した時期なの。そこに不運が重なった。
魔王として圧倒的な強さを得て、竜族を併合する。そう決めて進化に必要な魔力を増やしていた。その矢先、ルンの悲鳴が頭に突き刺さる。声ではなく、膨大な魔力を纏った悲鳴が、攻撃のように届いた。
駆け出した先、ルンが人間に囚われている。何が起きたのか、背中はすでに血塗れだった。助けようとする私を、夫が後ろから止める。
「だって!」
「あの子がこれ以上傷つけられたら」
人質に取られた我が子の泣き顔は、自分の身を切り裂くより辛い。代われるなら私が……ここに魔族の手勢がいたなら。どうして、危険な土地に留まってしまったのか。あの子が生まれてすぐ、人間を排除すればよかった。安全な土地に移動していたら。
激しい後悔と「もし、たら、のに」と仮定が浮かぶ。傷つけられたルンへ伸ばした指先から、思わぬ変化を感じた。興奮状態になったことが引き金か、それとも危険を察知した本能の悪戯か。あれほど待ち望んだ進化が始まる。
封印状態になると察して、叫んでいた。
「今はダメよ、今じゃないのに!」
何とか押し留めようとするも、体内の魔力は荒れ狂う。激痛に膝をついた私を抱き止めた夫が、巻き込まれた。突き放す間もなく、凍りついていく。ああ……このままでは、ルンが!
連れ去られた息子を追いかけることも出来ず、助けを呼ぶことも出来ぬまま。絶望に染まった心を抱いて封印された。あれほど望んだ進化を、こんなに疎ましく思う日が来るなんて。
目覚めた私の前に立つのは、成長した息子ルン。現竜王とその弟を魅了して、その側近までも味方に引き入れていた。あの頃と変わらぬ笑顔で、世界の統一まで果たした息子は愛情を強請る。
恐ろしいほど強い魅了は眩しく、抵抗する意思を奪った。傷付いた背中は、羽が千切れていたと聞いてゾッとする。回復したことに感謝し、まだ痛むと知って治癒を重ねがけしたわ。
人間の領地は大きく削られ、海沿いに小さく残るだけ。それもルンを溺愛する竜王が、魔族を巻き込んで行った虐殺の結果だという。人間の駆除は数が多いため面倒な作業よ。それを自ら動いた。
ルンの報復だと笑うディアボロス王は、心を揺らさぬことで付いた二つ名を裏切る。あの日、もし進化が始まらなければ……世界はこんなに早く統合されなかったわ。ルンが血を流し傷ついたから、怖い目に遭って助けを求めたから、世界は変革した。
未来の魔王はルンに決まりね。他の誰が継ごうと揉めるし、そもそも誰も立候補しないでしょう。
満面の笑みで甘える我が子が愛おしく、どこまでも許せてしまう。これが魅了の結果なのか、親としての本能か。どちらにしても、私の言動に変化はないはずよ。
――愛しているわ、ルン。あなたの愛する世界は、あなたを愛し慈しんでくれる。だから自由に生きて。