今日は君のそば
「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」
慌ただしく年越し蕎麦の準備をする妻に呟く。そっと後ろに立って、抱きすくめるみたいな声音で。
そんな睦言でさえも妻には届かない。
ただ「ふーん」と気のない返事をされるだけ。
「言葉は弓で射られた矢だ」私は些か焦りながら妻に言う。
「どのあたりが?」妻は鍋をじっと睨みつけながら呟く。
細かい泡が断続的に立ち昇る。私のことなんて視界の隅にも入っていない。
「どんなに美しい軌道を描いても、受け入れる的が無いなら永久に刺さらない」
鍋の底からひときわ大きな泡がぼこんと浮かんでくる。
それを見て、妻の握る長い菜箸が獲物を見つけた鷹の鋭さで鍋から昆布を掴み取る。
「私が気にしてるのは初詣のことだけ」
妻は昆布を掴んだままの菜箸をこちらに向けて、やっと私と目を合わせた。
「一年の最初なんていう、とても特別な日だから。出発するのが遅れたらすごく並ぶの」
「どうせ休みなんだから、並ぶくらい良いじゃないか」
「見てる神様だって飽きて休みたがるくらいの混み方でしょ」
そしてこちらに興味を無くしたように、袋を破って麺を鍋にぱらぱらと振り入れる。
それは新しい年の来訪を祝福する紙吹雪みたいだ。
「でもしかし」
「いくら大晦日まで仕事してて疲れているからって」
伝えるべき中身を持たず、取り敢えず発してみただけの私の言葉を見苦しいと遮るように。妻は振り向いた。
それはお玉を取るついでに仕方なく、といった風情だった。
「誰もが何かを抱えながら、次の年へと足を踏み入れるの。望む望まないに関わらず。初詣に行かずに寝るなんていう逃亡行為、許されるはずがないの。」
妻には全て見通されていた。
眠い目をこすると、欠伸はまるで太古の昔から営々と培われてきた反射行為であるかのような図々しさで浮かび上がり、しかも止まらなくなる。
疲れた足で立ち続けるのも億劫になり、テーブルの硬い椅子へ向かって崩れるように座り込む。
「眠いんですけど」
もう本音を隠すこともやめて、半ば懇願のように呟く。
眺める妻の背中。焦げ茶色のセーター。湯きりを一回、二回、そして三回目で丼へと麺は投入される。
「あとちょっとだけ頑張ってよ、ね」
思いがけず妻は振り向いた。「さくっと行って帰ってきて、朝寝をしましょう。三千世界の烏を殺す勢いで」
初日の出見ようとか、そこまでの無茶は言わないから。
再び湯きりを行って、妻はそう言った。
「仕方ないなぁ、初詣までなら」
正直なところ、初詣を許してしまうと、初期微動の後のセカンダリ波のごとき早朝の『初日の出参り』が押し寄せて私は確実にぺしゃりと潰されるという恐怖があったのだ。
それが避けられるならば、多少の犠牲はやむを得まい。私は内心で嘆息する。
「できたわよ」妻は満面の笑みで丼を私に手渡す。
「…あれ。海老天は2本ずつだったはずじゃ?」
何故か丼には海老天が3本乗っていて、見ると妻のほうには1本しかなかった。
「いいのよ。海老にはタウリンがいっぱい含まれているの」
妻もテーブルに着いて箸を取る。「これから体力使うんだから、たくさん食べて元気を補充しないと」
「そうか。ありがとう」妻の心遣いに感謝しながら、海老天に噛り付く。「うん、おいしい」
「三千世界の烏を殺して、一緒に朝寝をしましょう」箸を握ったままで蕎麦に手を付けず、妻は歌うように言った。
「いや、一緒には寝ないでしょ」
私は指摘する。妻の寝相はグラウンド整地用のコンダラのごとく容赦無きため、別の部屋でないと二度と起きなくなる危険がある。
「あなたが私に差し出してくれた睦言、もう忘れちゃったの?」
妻は箸を静かに差し出す。「私は忘れてないよ。一緒にいつの間にか眠ってて、そのまま朝まで寝坊するの」
獲物を追い立てる鷹の鋭さ。ぴたり私に照準を定めた紅色の箸は、確かに猛禽が突き立てる爪のよう。
「いや、あれは言葉のアヤというかなんというか…」
「言葉は弓で射られた矢だよね。確かに私はそう思う」
妻の目は余りにも鋭いタナトスを湛える。それは艶かしくさえある。
「風に流されて、意図とは違うところに刺さるの。そして刺さったら抜けない」
「えーと、海老天返そうか」
「食べかけはいらない」私の言葉に、妻は風を切る矢の早さでぴしゃりと言った。
海老天は汁を吸って重みを増している。それは重いコンダラである。
「えーと、初夢を見る仕事があるから、今日はゆっくり寝ないとまずいんじゃないかな…」
「初夢は1月2日の夜に見るものだよ」
これは夢の中ではない。現実に存在する本物の鷹だ。すなわち、見ても良いことなど無い。
「あんまり来年のことばっかり言ってると、鬼が笑うよ。」
私は言う。完全に白旗である。煮て食うなり焼いて食うなりの心境。
あきらめて蕎麦をすする。妻も満足したように箸を持ち、するすると食べ始める。
蕎麦をすする音だけが部屋に響く。
「……おいしいな、この蕎麦」
私の呟きに妻は大きく頷く。「当たり前じゃない。ちゃんとだしを取った、本物のそばなんだから」
そして再び蕎麦の音。意識して食べてみると、確かに染み渡る蕎麦であった。
「来年もよろしく」そっとそばに紛れこませるように、妻への言葉。
「来年のことを言うと鬼が笑うよ」そう言って笑ったのは妻だ。それは鬼ではないはずだと信じたい。 「まずは今年のことを考えましょうよ」
妻に示されて時計を見ると、すでに12時を回っていた。知らない間に日付が変わっていたのだ。
蕎麦のことを考えている間に年は明けていた。
初詣はもう少し後でもいいかな、と私は妻に言う。「もう少しゆっくりと、味わって食べたい」
あんまり遅くならない程度にね、と妻は言う。
「とても特別な日だから、少しくらい並ぶのも良いかもしれない」
私がそう言う間にも、ひそやかに夜は更けていく。
それはいつもと変わらない夜であり、特別な夜。