武術大会1
3日後、武術大会のその日。エルヴィアは執務室で仕事を裁きながら、パウロを側に呼び寄せた。部屋には例のメイドが控えているが、機密事項があるからと部屋のギリギリ隅まで追いやってある。
「パウロ、少しいいかしら」
「はい、お嬢様」
「ここの事なのだけれど」
机の横に立ったパウロに書類の隅を指し示す。
『あのメイドを少しでいいから外に出して欲しいの。私は行かなければいけない場所があるから』
さっと走り書きに目を通したパウロは一つ瞬きをして、にこりと笑った。
「門は大丈夫ですかな?」
「……ええ、そちらは問題ないわ。任せても大丈夫かしら?」
頼めば門番の方もどうにかしてくれるつもりなのだ。詳しい事は何も説明していないのに。
パウロは私が魔女の森へ行っていることを知っているし、そのための魔道具を使っている事も話してある。ただ「森へ行く」と書かなかったから、万が一に備えて手を貸してくれるつもりなのだろう。
ニコリと微笑むと一旦机に戻ったパウロは、書類を見ながら心底困ったという声で言った。
「あぁ、いけませんね。必要な文献が足りませんでした。お嬢様、取りに行ってきてもよろしいですかな?」
「もちろんよ」
「では……ああそこの君、少し手を貸しなさい。図書室まで行きますよ」
暇そうに立つメイドに声をかけると、彼女は見るからに嫌そうな顔をした。
「いえ、私はここに……」
「この老骨、重い本を運ぶのは些か身体が軋むのです。そこにただ立っているのも暇でしょう。気分転換にでも手伝ってもらえると助かるのですが?」
優しい言い方だけれど、パウロに頼まれるとどうにも断りにくい圧力のようなものを感じるのよね。幼い頃に執務を教わっていた時も、なぜか逆らえない力を感じたものだ。
「……分かりました」
多分実際飽きてもいたのだろう。さっきからあくびを噛み殺していたのも見えていたのだ。手伝いを了承し、パウロとメイドは部屋を出て行った。
時間はさほど無い。自室から持ってきた薬の瓶を手に、エルヴィアはミランダの元へと転移した。
◇
「──ミランダっ!」
「エルヴィア、良かった。来られたのね。時間がないわ、さぁ行きましょう」
監視がついて、森の薬屋へ行かなくなって半月も経っていない。それなのにもうなんだか懐かしくて、「帰って来れた」という気持ちになる。いつのまにかもう、私の帰る場所はここになっていたんだなと胸がムズムズした。
エルヴィアは魔道具以外で転移したことがない。貰った魔道具は森の薬屋と自邸とを行き来する専用のものだし、幼い頃から忙しなく働いていたエルヴィアは王都に行った事もほぼないと言って良い。その唯一の例外があのベルモンド公爵家の茶会だ。
やはりミランダは道具がなくとも、好きなところへ転移できるのだ。
「……ねぇ、なんでミランダはアドルノ領で暮らしてるの?」
「今更急に何? あの森には使える薬草が沢山自生してるからだけど」
かつてエルヴィアの両親のせいで不快な思いをしたというのに、それでも人間の役に立つ薬を作るためにあの森に住み続けているミランダ。
なんてことのない様子で言いながら準備を整える彼女の姿を見て、やっぱり魔女と人間は考え方が違うのかなと思った。そして、違ってくれて良かった、とも。
「さ、じゃあ行くわよ。いつもより距離があるから気持ちが悪くなるかも。目を閉じていて」
「うん、分かった」
内臓がふわっと浮かぶような不快感と共に、身体の寄る辺なさを覚える。
しんとした空間からまず耳が騒めきを捉え、地に足が着いた。
「はい、着いた。あそこに見えるのが会場よ。行けるわね?」
「……ミランダは来ないの?」
「後で行くわ。大丈夫よ、エルヴィア。貴女は美しい。さぁ行きなさい、貴女の大切なものを守って」
背中を優しく押され、人々の熱気溢れる武術大会の会場へと駆け出した。
あそこには、フェーデルがいる。今はただ、彼の無事な姿を見たかった。
会場内はわあわあと凄い騒ぎだ。男性たちは誰が優勝するのか賭けをしている者もいるし、女性たちは逞しい姿の騎士たちに黄色い声援を上げている。
中でもやはり、フェーデルは人気のようだ。ここで声を張り上げるのはほとんどが平民の女性だから、騎士爵のフェーデルは身近でありながらも国内随一の実力を持ち、魅力的に写るのだろう。
会場の隅で身体をほぐす、黒髪で長身の男性。エルヴィアの視線は自然とそちらへと吸い寄せられた。
遠くに見えるその表情は引き締まり、やや厳しい。催し物とはいえ、これから国一番の騎士の座を賭けて闘うのだから気合が入っているのだろう。ふと顔を上げた彼が見たのは観覧席の一番高いところ──王族席だ。つられてエルヴィアもそちらに目をやると、日除けの庇の下、広々としたボックス席には煌びやかな人物が二人座っている。ひとりは見紛う事ないこの国の王だ。壮年だが体躯は引き締まって逞しく、楽しげに階下の会場を見下ろしている。もうひとりは華やかな赤いドレスを纏い、金の髪を少女らしく下ろした美しい女性──王女殿下だ。ぱっちりとした赤い目は猫のようなアーモンド型で可愛らしい。内容は当然聞こえないが、唇をツンと尖らせて隣の国王陛下の肩をぺちんと叩いたりなどしている。仲が良い親子なのであろう。彼女が話をしながら細く美しい手で指差すのは、フェーデルの方向だ。
胸がドキドキと騒ぐ。やはり、フェーデルは王女殿下と結婚するのだろうか。ここで国王陛下に認められて、そして……。
首をひとつ、横に振る。
もう一度フェーデルに視線をやると、やっぱり彼はまだ厳しい表情のままだった。