第3話「孤独な魔神」
ヴィルザハードの名前は、ケネスも知っていた。かつてこのベルジュラックという世界全体を、恐怖のどん底に落としいれた存在――だそうだ。ただ、それは神話の話であって、実話なのかどうかさえもケネスは知らなかった。
神話によると――。
ベルジュラックは、チキュウという世界と交流していた。そして、文化的な発達を遂げた。しかし、ヴィルザハードの出現によって、世界の森羅万象が破壊され尽くした。チキュウとつながる異世界の出入り口も破壊してしまった。人間たちはモンスターに奴隷、ないし、食糧として扱われた。まさに恐怖世界である。
――といった内容だ。
その後、8人の神様が結託して、ヴィルザハードを封印したとされている。ヴィルザハードが封印されたことによって、平和になったのだそうだ。
ケネスは神話をすべて覚えているわけではないし、ざっくりとしている。だが、大筋に間違いはないはずだ。
この神話は、どこの国であろうと、どの宗教であろうと等しく伝えられている。
で――。
今、ケネスの目の前にいる少女が、その魔神の名前を名乗ったのだった。
「ヴィルザハードって、魔神の名前なんだよな
「ああ。そうだ」
「なんでその魔神が、ここにいるんだ?」
相変わらずケネスは、少女に押し倒されているカッコウのままだ。
「私は、8大神によって封印された。いや。正確には存在を消されたのだよ」
主神 ゲリュス
愛の女神 アクロデリア
豊穣の神 デデデル
魔術の神 マディシャン
戦争の神 カヌス
大地の神 アースアース
大海の神 ポテルタン
森林の神 エルフタン
それが、8大神とされている。今も信心深い者は、そういった神に祈りをささげたりしている。農産物の実りを祈る者は、デデデルに手を合わせる。漁師はポテルタンに頭を下げる。
「存在を消されたって、目の前にいるじゃないか」
「私は、ここ数千年という時のあいだ、ずっと誰にもしゃべることが出来ず、接触することもできなかった。誰にも認識してもらうことが、できなかったのだよ」
しかァし――と魔神少女は続ける。
「今ッ。私は数千年ぶりに、他の生物とコミュニケーションをとることに、成功したのだッ」
ビシッとケネスの鼻先に、白くてほっそりとした人差し指を押し付けてきた。
「じゃあ何か? オレだけ君を認識できると?
「おそらくそうであろうな」
「そんなバカな」
周囲から存在を認識されないというのは、まだ信じられる。ケネスにはムリだが、魔法に長けたものであれば可能かもしれない。
しかし。
こんな少女が魔神だとは、とうてい信じられない。
「良かった。それにしても数千年ぶりに人間に触れたぞ。貴様に出会えてホントウに良かった」
と、少女はケネスに頬ずりしてきた。
「うわっ。よせ、やめろって」
あわてて押しのける。
照れ臭いのだ。
つつましい乳房の感触まで伝わってくる。女性特有の花の蜜のような芳烈がたちのぼっている。
押しのけようとするのに、ぜんぜん離れない。
「良いではないか。数千年ぶりに会話をするこの感覚。なんという歓喜か。この感動を名状することは不可能であろうな」
少女は紅色の瞳に涙まで浮かべていた。
さすがに演技とは思えない。
思えないが――。
「オレ以外に認識されないって言うんなら、証拠を見せてくれよ」
「証拠だと?」
「もしも認識されないんなら、簡単なことだろ」
すぐ近くに街道がある。
人通りも激しい。
こんな少女が街道に跳びだして来れば、誰だって認識するはずだ。
「なるほど。たしかに、口で説明するよりか、実際にやってみて証明するほうが良さそうだな」
少女はようやく、ケネスから離れてくれた。ケネスの手を取って、街道まで引っ張ってきた。ケネスは、されるがままになっていた。街道では依然として、帝都へ行くための行列ができていた。
「あそこに跳びこむからな。ちゃんと見ておけよ」
「無茶するなよ。あとで叱られても知らないからな」
「案ずるな」
少女は堂々と街道へと跳びだした。
「あ、危ないって」
少女は馬の目の前に跳びだしたのだ。全力で走っているわけではないとはいえ、不意に馬の前に跳びだすのはさすがに危険だ。少女ぐらいの幼子が蹴り飛ばされるような事態は珍しくない。
しかし――。
次の瞬間に起こったことに、ケネスは唖然とした。馬車は止まることなく、少女を貫通したのだ。轢いたのではない。透き通っていったのだ。あまつさえ周囲にいる人たちも、少女にたいしてイッサイの関心を示すことはなかった。