青薔薇の君(マティアスとエミーリアの場合)上
今から八年前、社交界には青薔薇の君と呼ばれる美しくも棘のある令嬢が、一輪の花の如く咲き誇っていた。
「エミーリア嬢、今夜こそ私と踊ってください」
「いえ私と!」
「私とは以前お約束してくださいましたよね!?」
エミーリア・アーベライン辺境伯令嬢。十七歳の彼女は、社交界にデビューして二年、青薔薇の君と呼ばれていることを知り、多くの貴族達に口説かれ──面倒だと思っていた。
王国の北の国境を守護する役目を仰せつかっている父はとても強く、貴族と言うよりも武人と言われた方がしっくりくる熊のような男だ。見た目は美しい母もまた父と共に常に日々戦っているような人で、二人の兄も父と母に付いて外を駆け回っていた。
そこに生まれた待望の女の子。母に似て幼い頃から美しかったエミーリアは、蝶よ花よと可愛がられ、戦の心得等は知らずに育った。代わりに礼儀作法や音楽、教養をこれでもかと学ばされ、元来──これも遺伝だろうか──負けず嫌いだったエミーリアは、その全てを吸収した。
広い国の北の土地は寒く、色白であるのはその結果だ。美しく引き締まった身体も、こっそりと学び練習した護身術の成果。そのくせ女らしい悩ましい膨らみは、きっと兄達が狩ってくる動物の肉を良く食べてきたせいだろう。誰もが描く理想の貴族令嬢として育ったが、その性質はやはり環境が作っていると言っていい。しかし両親の代わりに兄達と共にやってきた約半年ぶりの王都の社交界は、相変わらずエミーリアを放っておいてはくれない。
「お約束などしましたかしら? そうですわね……最初に声をかけてくださった貴方と踊りますわ。また次の曲でお声がけくださいませ」
つんと言って見せても、それが当然であるかのように頭を下げてくる貴族子息。約束したと言った男は侯爵家の次男だった気もするが──エミーリアにとってはどの男も大差なかった。外見に騙される男達など、全く興味がない。
「共に踊れるとは光栄です。お手をどうぞ、プリンセス」
「まあ、よろしくお願いしますわ」
気障な台詞が地味な顔立ちにあまり似合っていないと思いながらも、エミーリアは微笑みを浮かべて差し出された手に手を重ねた。運動は好きだ。だからダンスも嫌いではない。──相手のリードが下手ではない場合に限るが。
「エミーリア嬢、私は貴女をもっと知りたいのですが……」
会話をしようとするのは良いが、こちらをまっすぐ見つめ続けるのはやめてほしい。お陰で男のステップが乱れて、足とドレスを踏まれないようにするのが大変だ。早くこの曲が終わらないだろうか。そうしたら次はもっとダンスの上手そうな人を選ぼう。
「貴方は、どうして私のことを知りたいとお思いになるのですか?」
「貴女のように美しい方に出会ったのは初めてです! 凛とした姿に華やかな微笑み──私は貴女を」
「申し訳ございませんが……私、そういったことは言われ慣れておりますの。どうか出直していらっしゃって」
曲が終わる。妖艶に見えるように口角を上げ、貼り付けた笑みで礼をした。男はぽかんとした顔でエミーリアを見ている。すぐに背を向けると、また目の前には若い男達が集まってきていた。興醒めして見ないふりで端に寄ろうとすると、今度は歳若い令嬢達がわっとエミーリアの周りに集まる。
「エミーリア様、今日はいらっしゃるとお聞きして、楽しみにしておりましたの!」
「まぁ、キャシー様。相変わらずとてもお可愛らしいですわね」
「私もですわ、お姉様!」
きゃぴきゃぴとした雰囲気には男は近付き辛いらしい。しめたと思いつつ、令嬢達をそっと会場の端の方へと誘導する。
「ふふ、良い子にしていまして?」
「勿論ですわ!」
元気良く返事をした令嬢が、エミーリアを見て頬を染めた。
「夜会でこんなに美しい花を独り占めしていては、私が恨まれてしまうかしらね」
別にエミーリアは誰の姉でもない。集まっている中には、エミーリアよりも歳上の者もいる。しかしそういう問題ではないのだろう。実際エミーリアも、可愛らしい令嬢達を相手するのは好きだ。きゃあっと嬌声が上がる。青薔薇と呼ばれるエミーリアより、彼女達の方が余程華やかではないか。
「ギルバート、今日も退屈そうだね」
「退屈なのは殿下でしょう」
マティアスは王族席の端で小さく嘆息した。共にいるギルバートは、フォルスター侯爵家の嫡男だ。マティアスはパブリックスクールでギルバートと仲良くなった。既にマティアスは卒業したが、ギルバートは在学中である。卒業したら是非自分の側で働かせたいと思っているが、今はまだ友人として側に置いておくだけで充分だ。
「──そうだね。私は今、退屈している。良いんだよ、ギルバートは適当に美しい花でも愛でてきたって」
「また殿下はそんなことを仰る。私は結構です。面倒事は懲り懲りですので」
若く美しい侯爵令息を狙う令嬢などいくらでもいる。特殊な魔力を持ってはいるが、今はまだ一部の者にしか知られてはいない。ダンスの相手など選び放題だ。しかしマティアスにとって、退屈な自身の側にいてくれる友人は貴重だった。
「そうか──つまらないね」
「そう言う殿下こそ、誰かと踊ってくるべきではないですか?」
十九歳でまだ婚約者のいない王太子は、ギルバートよりも更に令嬢達の注目の的だ。なにせ選ばれれば未来の王妃である。最初の挨拶からマティアスに娘を売り込もうとする貴族達は大勢いたし、マティアス自身も見目は整っている。頬を染める若い女がどれだけいたことか。
「──面倒くさいよ」
「そうは仰っても、先程から視線が気になりますが」
「その視線の内には、君の分も含まれてると思うんだがな」
「それこそ面倒です」
ギルバートのばっさりとした回答に、マティアスはくつくつと笑う。
「とはいえ、ここでただ見ているのも飽きてきたね。そろそろ何か──」
面白いものでもないだろうかと会場を見渡して、マティアスは不思議な場所を見つけた。そこには歳若い令嬢達が集まっていて、華やかな黄色い声を上げている。それ自体はよく見る光景だ。しかしそれだけでなく、周囲にいる何人もの貴族令息達がその集まりを羨ましそうに見ているのだ。中心にいるのは余程見目の良い男なのだろうかと思い──人の隙間から覗いたその中心人物に驚き、目を見張った。
「──ああ、アーベライン辺境伯令嬢ですね」
驚くマティアスと違い、ギルバートはその視線を追って当然のように言う。マティアスはそういえば先程挨拶に来ていた筈だと、少し前の記憶を引っ張り出した。
「エミーリア嬢だったな。しかしこれは、……すごいな」
美しい令嬢だと思ったのは間違いない。辺境伯という立場もまた彼女の魅力の一つであろう。しかしそんなものでは説明し切れない程の熱気が、その周辺には漂っていた。
「殿下がこれまで気にしなかった方が意外ですよ。『青薔薇の君』と呼ばれていて、若者の間では社交界の花として持て囃されているようです」
「詳しいな」
マティアスよりも他人と関わらないギルバートには珍しいことだ。興味があるのかと思い目を向けると、ギルバートは小さく嘆息した。
「パブリックスクールは、若者が大勢おりますので」
それだけそういった噂話はすぐに伝わるという意味だろう。納得したマティアスは頷いてまた視線を戻した。膠着していた空間に、どこかの子息が割って入ったようだ。令嬢達の声高な批判をエミーリアが収め、そのまま場を離れて会場を出る。化粧直しにでも行くのか、休憩室へ休みにでも行くのか。場を離れるタイミングも含めて、その手腕はなかなかのものだとマティアスは感心した。同時に見逃せないものを見て、椅子から腰を浮かせる。
「──ギルバート、私は少し席を外す」
「分かりました」
ギルバートは僅かに口角を上げて言う。マティアスは周囲に馴染む程度の速さで、しかしできるだけ急いで会場を出た。
マティアスは見たのだ。エミーリアが会場を出た後に、三人の男がついて行くように会場を出たのを。警備はおいているが、王城には死角などいくらでもある。万一のことがあっては可哀想だ。
そうして廊下の角をいくつか曲がった先、庭園の端の入口の辺りで──マティアスは衝撃の光景に出会い目を見張った。