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令嬢の価値(ビアンカの場合)下

 慣れなかった作業もやりたくなかった作業も、繰り返せば上達してくるものだ。これまで労働とは無縁だったビアンカも、毎日世話をしていれば少しずつ木に愛着が湧いてくる。他に娯楽がないからとも言えるが、口が悪い婆さんとの日常も悪くないと感じ始めていた。


「ふん、大分マシになってきたじゃないか」


 分かり易く褒めてくれることはないが、その言葉はビアンカを認めてくれているものだ。


「私だってやればできるのよ、やれば」


 素直に喜んで見せる気にはならないが、内心では嬉しくて仕方ない。


「でもまだまだだね! そもそもあんたは作業が遅いんだ。綺麗にやるのは良いが、さくさくやらないと日が暮れるよ!」


 今は葡萄の果実の上に紙傘を掛けている。面倒だと思っていた筈の葡萄の木に花が咲き、実がなったときには感動した。紙傘を掛けるのはカビが付かないようにする為らしく、一つ一つ丁寧に作業をしていった。結果が先程の会話である。


「分かってるわよ! 綺麗さか時間かどっちが大事なの!?」


「何言ってんだ、どっちもだよ!」


「自分が魔法使えるからって……!」


 ビアンカは文句を言いながらも手元の作業に集中した。婆さんもビアンカの様子を見てか、何も言わずに離れた場所の木を確認しに行く。ビアンカは小さく嘆息して、額の汗を拭った。夏の日差しは強く、帽子を被っていても容赦なくビアンカの肌を焼く。それもあまり気にならないと思い始めたあたり、既に貴族令嬢としての感覚が薄れてきているのかもしれない。どうせ誰に会う訳でもないのだ。かつての知人に会うことなど、二度と無いだろう。ならばこんな生活もそう悪いものではない。余計なことに心を揺さぶられることもないのだから。


「──ビアンカ……?」


 だから気付くのが遅れてしまったのだ。柔らかさは頼り無く、その代わりに甘い響きの、かつて愛した筈の男の声は、この長閑なはずの葡萄畑において異質なもののように聞こえた。





「アルベルト様、どうして……」


 振り返ったビアンカは目を見開いた。ポーチから取り出して手に持っていた紙傘が一枚、風に飛ばされて何処かへ飛んでいく。それを気にかける余裕も無い程、ビアンカは動揺していた。既に貴族令嬢らしい肌の白さも嫋やかな身体も、上品な言葉すらも忘れて何ヶ月も生活をしてきたのだ。先程の言い合いは聞かれていたのか。今どう思われているのか。──そもそも、何故こんなところにいるのか。


「やっぱりビアンカだね。──そうか、私はやはり……何も見ていなかったのか」


 アルベルトはビアンカから視線を逸らし、深く嘆息した。その仕草がビアンカの知るアルベルトとはまるで別人のようで、心の中の柔らかいところがちくりと痛む。

 一歩踏み出したアルベルトから逃げるように、ビアンカは一歩足を引いた。知られたくない。こんなに落ちぶれた姿を、本当は当時を知る誰にも見られたくなかった。しかしアルベルトは二歩三歩と距離を詰めてくる。後ずさるビアンカの首筋に、何かひやりとした感触が触れた。それが葡萄の房だと分かって、ビアンカはぴたりと足を止める。こんなことで、大変な思いで育てた葡萄を駄目にしたくなかった。


「こ、ここは……貴方の来るような場所ではありませんわ!」


 かさり、と足元の草を踏む音がする。ビアンカはそれ以上動くことができなかった。アルベルトの手が、ビアンカの手に触れて持ち上げる。そこにあるのは、農作業に慣れた硬い手の平だ。最早気にならなくなっていた、寧ろ作業をする上では便利だと思いかけていたそれを、アルベルトは眉を下げて見る。


「ああ、こんな手になってしまって。──なんて可哀想なんだ」


 思うより行動する方が早かったかもしれない。肌同士のぶつかるどこか小気味良い音が、静かな葡萄畑に響いた。手の平に感じるじんじんとした痺れが、ビアンカに今の自身の行動を振り返らせる。


「あ……も、申し訳ございません!」


 アルベルトの左頬はみるみる赤くなっていく。ビアンカは、アルベルトから振り払った手でその頬を強く叩いたのだ。自分の行動が信じられない。まさか──まさかここでの労働に、ビアンカはプライドを持っていたのか。それはかつての恋人に手を上げてしまう程に。


「──何をしてるんだい!?」


 音を聞きつけたのか、それとも気付いていて今まで放っていたのか、眉間に皺を寄せた婆さんが凍り付いた空気を強制的に融かすように声を上げた。やっと動けるようになったビアンカは、踵を返してその場から逃げた。走って家の中の自身に与えられた狭い部屋に駆け込めば、やっと少し安心できる気がする。アルベルトが何を考えているのか分からないのが怖い。かつて王都にいたときには、ビアンカが思うままに勘違いをさせて、婚約にこじつけた男だった。





「それで、その頬はどうしたってんだ」


「あ、その」


 婆さんを前にしては何も言えないのか、アルベルトは言い淀んだ。婆さんは鼻を鳴らして口を開く。


「農作業やってる女の手を馬鹿にしたら、叩かれるのも当然さ。坊ちゃんの話は侯爵から聞いてるが、こんな馬鹿だとは聞いてないよ」


 アルベルトがこの葡萄畑を訪ねることを、婆さんは知っていた。ギルバートから連絡を受け、場合によってはここで引き受けると話をしていたのだ。


「廃嫡される男ってのは、皆こんな馬鹿なのかい。この歳で良い勉強をさせてもらった。──さあ、帰るといい」


「そんな──そんなことを言わないでください。私には行くところがありません。もう、同じ失敗はしませんから!」


 縋るような目は最初にビアンカがここに来たときの反抗的な目とは正反対だった。どうやら反省はしているようだ。しかし愚かさは一朝一夕に改善できるものでもない。

 フランツ伯爵はいつまでもレーニシュの家にこだわり続ける長男を廃嫡し、まだ幼い次男を後継に据えた。かつてレーニシュ男爵であったビアンカの両親の罪は公のことになっており、その縁者と見なされてしまっては王都で就職することもできない。何もせずフランツ伯爵家にいても、父親からの厳しい目が向けられるばかりだ。そうして居場所がないのならと、アルベルトはビアンカのいる場所での労働を望んだ。婆さんが深く溜息を吐くと、アルベルトは肩を震わせた。


「ならまず、あんたのせいで中途半端なこの作業を終わらせとくれ。言っとくが、雑にやったら飯抜きだよ!」


 嫉妬に狂った馬鹿な女に、それでも夢中な愚かな男とは、ある意味では似合いだろう。しかしビアンカの方は既に興味を失くしているかもしれない。だとすれば、ここでの生活でそれだけビアンカの女としての価値は上がったと言って良いだろう。それは貴族令嬢としては正しくない姿で、同時に人間としてはとても魅力的なことだと思った。これから賑やかになるであろう生活に口角を上げ、婆さんはアルベルトに紙傘の付け方を教えるのだった。





「──という訳でして、今年の葡萄酒です。お納めください」


 ギルバートはマティアスに深紅の液体が詰まった瓶を差し出した。マティアスは僅かに眉間に皺を寄せてそれを受け取る。


「ギルバート……その話を聞いて、私が美味しく飲めると思うか?」


「殿下ならお飲みになるでしょう」


 婆さんの葡萄畑で作られる葡萄酒は一般に販売をしているものではない。魔道具化が進んでいるからこそ、完全に手作業で作られた葡萄酒は貴重なのだ。その殆どはフォルスター侯爵家で買い上げ、夜会で提供するか、贈答品として親しい人間に渡している。


「ああ、ここの葡萄酒はいつも出来が良いからね。エミーリアも喜ぶことだろう」


 渡した一本とは別に、既に箱で王城に運び込んである。しばらくの間は楽しんでもらえることだろう。


「では私はこれで失礼させて頂きます」


 礼儀正しく貴族式に頭を下げたギルバートにマティアスはおやと片眉を上げた。ギルバートが騎士の礼をしないことも、またこんなに早く退出することも珍しい。


「珍しいね。今日は非番かい?」


「はい。この後、予定がありますので」


「そうか、届けてくれてありがとう」


 踵を返して部屋から出て行こうとするギルバートの背に向かって、マティアスは追いかけるように言葉を重ねた。


「ソフィア嬢によろしく伝えてくれ。──素敵なデートを」


 ギルバートは扉の前で振り返る。眉間に皺が寄っているのは不機嫌そうにも見えるが、この場合は見抜かれた気まずさからだろう。王太子であるマティアスに会うにしては軽装の、しかし上品に纏めた服装は、これからどこかへ出掛ける為だろう。らしくもなく急ぐのは、時間の約束がない相手と少しでも長くいたいから。──となれば、そんな相手はギルバートの妻であるソフィアしか思い浮かばない。

 マティアスは喉の奥で笑い、ひらひらと手を振った。ギルバートは扉を開けて部屋を出て行く。

 貰った葡萄酒は、早速今夜エミーリアと共にゆっくり飲むことにしよう。きっと喜ぶだろうと思えば緩む口元をきゅっと引き締め、マティアスは机の上の書類に視線を戻した。

お読み頂きありがとうございます。

次はリクエスト頂きました、マティアスとエミーリアのお話です!

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― 新着の感想 ―
[良い点] アルベルトもビアンカも愚かだったが、本人たちの所業次第でやり直せるかもしれない余地がある点。 [一言] 善き農民になれます様に。
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