令嬢の価値(ビアンカの場合)中
「ちゃきちゃき動かないと終わんないよ!」
「何よ婆さん、一人で楽してんじゃないわよ!」
ビアンカは小振りな剪定バサミを持って、葡萄の木の間を忙しなく動き回っていた。正直慣れていないのに効率良く作業をするなど無理だし、そもそも元々やる気がないのだから余計に捗らない。
「私の分は終わってんだよ。待ってやってるだけありがたいと思いな!」
フォルスター侯爵領の奥地に、その葡萄畑はあった。土地だけは余っているのか、広い土地に均等に木が植えられている。隣接する家の地下は保存用の地下室になっていて、いくつもの樽が置いてあった。
そこで働いていたのは、もう老婆と言っていい程の見た目の、日に焼けて皺だらけの女だった。ただ一人で葡萄酒を作っているようで、広大な土地の割に他に従業員はいない。週に一度だけ行商が来て、稀に手紙も届いているが、それ以外には人も立ち寄ることはないようだった。
「ていうか、あの婆さん狡いわよ! こんなの詐欺だわ!」
そう。この葡萄畑には、一切の魔道具が無かった。それどころか家の中も最低限の魔道具しかない。ビアンカは葡萄の木をひとつひとつ確認して余分な芽を手作業で切っていかねばならなかった。ここに連れてこられてもう二ヶ月、ビアンカの嫋やかだった手は豆ができて潰れてを繰り返しており、皮膚は厚くなってきた。日除けに帽子を被って長袖の服を着込んでいるが、それでも多少の日焼けは避けられていない。
では婆さんはどうしているかと言うと、木々の間をすたすたと歩きながら、魔法でさっと作業を終えてしまうのだ。魔道具を使うよりも魔法を使う方が早いのだろう。だから魔道具も無いのだ。その発想は分かるが、それができないビアンカにとっては大変に腹立たしい。
「聞こえてんだよ! 礼儀のなってない娘が。スラムにでも放り込んでやろうか!?」
「分かったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」
ここへ来た当初は何度も逃げようとしたが、この家と葡萄畑から隣家までは三十分以上歩かなければ辿り着かない。その間にいつも見つけられ、魔法ですぐに捕まってしまうのだ。数度目に無理矢理転移魔法を使われて以来、その気持ち悪さに脱走を諦めた。次は仕事をさぼろうと考えた。しかし今度は食事を抜かれ、空腹に負けて働かざるを得なくなった。
結局自身の生活はこの婆さんに握られており、しかも魔法が使えるとあっては、逆らうだけ馬鹿らしいことかもしれない。ビアンカは深く嘆息し、腰に下げていた水筒から冷たい水を飲んだ。
今日から始めた芽かきという作業も、やっと一区画が終わりそうなところだ。明日また続きをさせられるのだから、今日はここを最後までやれば良いだろう。
ビアンカは適当に剪定バサミを動かして、残りの木の芽も切っていった。しかし思うようにはいかず──
「全然違う! これじゃ中途半端な枝になっちまうじゃないか。元から切れって言っただろう!?」
ビアンカが切って集めた芽を見て、婆さんは額を押さえて首を左右に振った。その風体からは想像できない程の迫力ある怒鳴り声である。
「何が違うのか分かんないもの!」
「駄々っ子みたいなこと言うんじゃないよ! こっちの木と見比べれば分かるだろう」
「何よ! そんなの分かんな──」
反射で反論しかけるが、婆さんの指した枝を見ると明らかにビアンカのものとは違った。それはビアンカにも分かる程で、咄嗟に言葉を飲み込む。
「分かるんじゃないか。良いか、余計な芽は元から切らないと、木の形が崩れるんだ。こんな中途半端に切ったって意味ないだろう」
婆さんがらしくもなく柔らかく手を動かすと、ビアンカが切った後に残った棘のような緑色の芽が、はらはらと落ちた。そのまま手を動かしながらビアンカが作業した辺りを歩き回り、次々と葡萄の木の手入れを終えていく。何もできずにそれを眺めながら、ビアンカは唇を噛んだ。今日の作業をするのは初めてなのだ、いきなりできる筈がないだろう。そもそも好きでやっている訳ではない。しかし中途半端に残した芽の茎が落ちて行く度に、どうしても先程の婆さんの言葉が過ぎる。恨みしかない筈の大嫌いなソフィアの、幼い笑顔が脳裏に浮かんだ。
あれはいつだっただろう。ビアンカにとって幼い頃の記憶は曖昧で、これまで振り返ろうともしてこなかった。そのつけが回ってきたのだろうか。鮮明に思い出せないことが悔しい。多分ビアンカもソフィアも五歳か六歳くらいの頃だ。
「──ねえ。それ、そんなに面白いの?」
どこかの花畑だった。パラソルがあって、その下にソフィアがいて、何かの絵本を読んでいた。ビアンカは折角外にいるのに部屋にいるのと変わらない遊びをするソフィアが理解できず、親達は少し離れた場所で大人の話をしていて退屈だった。ただそれだけだった。
この頃はまだソフィアのことを、好きでも嫌いでもなかった。ただ退屈は嫌いで、誰でも良いから構われたかった。
「え……なあに?」
ソフィアは絵本から顔を上げて、丸い目を更に丸くして首を傾げた。聞き取られていなかったのだと理解して、ビアンカはもう一度ソフィアに問いかける。
「なにを見てるの?」
するとソフィアはぱっと笑顔になって、本をビアンカに見せた。そこには色とりどりの絵が書かれている。勉強は嫌いだったビアンカは本も嫌いだったが、その絵の美しさに夢中になった。
「ご本を読んでるの。お父さまとお母さまが好きにしてて良いって言ったから。──あなたは?」
「私のお父さまとお母さまもそうだよ。ねえ、そのご本、私にも見せて!」
ビアンカは無邪気に笑ってソフィアの本に触れる。ソフィアは急に近付いた距離に驚いて肩を揺らした。それはきっと今思えばただの反射で、人見知りなソフィアが怯えただけだったのかもしれない。しかしそのときのビアンカは、自分が否定されたかのように感じたのだ。
「あ、ごめ──」
「なんで見せてくれないの? ビアンカも見たいもんっ!」
本を引いた手が、頁だけを掴んでいたことになど気付かなかった。ただソフィアも本をしっかりと掴んでいて、互いの力で破れてしまっただけ。ただそれだけのことだった。しかし破れた本を見てソフィアが泣いて、ビアンカも想定しなかった結果に泣いてしまった。美しかった色とりどりの絵は、何が描かれているか分からなくなった。その事実がビアンカを、ソフィアを、より泣き虫にする。
「──あらあら、どうしたの?」
「……お母さまー!」
ソフィアがすぐに駆け寄ってきた母親に甘えるように抱き着いた。膝をついて抱き留めた母親は破れた本を見て何があったか悟ったようで、あらまあと言いながらソフィアの頭を何度も撫でていた。ソフィアの母親は走ったことで少し汗ばんでいて、履いている靴には土が付いていた。膝をついたので、着ていた服も汚れてしまうだろう。美しくない筈のそれらが、ビアンカには何故かとても美しく見える。
「ビアンカ、こんなに泣いてしまって可哀想に」
それからすぐにビアンカの母親もこちらへやってきた。ビアンカは甘えられる相手がやってきたことが嬉しくて、泣き声をより大きくする。すぐに抱き着こうとして──歩み寄ってきた母親にハンカチを差し出された。ハンカチで涙を拭いて、懐紙で鼻をかまされる。そうしてやっと、母親の腹辺りに顔を寄せることができた。腰を折った母親の手が、抱き寄せるように背中に回る。いつもと同じ良い匂いのする母親の、少し低い体温が、ビアンカを安心させた。と同時に、ビアンカはソフィアが羨ましくて仕方なかった。
ソフィアの両親とビアンカの両親は一緒に何か難しい話をしていた。なのにどうしてソフィアの母親はすぐにやってきたのか。二人ともここにやってきた筈なのに、どうしてビアンカの母親は汗をかいておらず、ソフィアの母親は自身の汗すら拭おうとしないのか。すぐに抱き締めたソフィアの母親と、先にビアンカの涙と鼻水を拭ったビアンカの母親。汚れた服と綺麗なドレス。比べてはいけない筈のものを比べてしまい、幼心にショックを受ける。いつも美しく着飾っている母親がビアンカの自慢だった。しかしどうしても、ソフィアの持っているものが羨ましかった。色とりどりの絵本、汚れを厭わず抱き締める母親、本を破いたビアンカを責めないソフィアの気高さと優しさ。
そしてソフィアがアルベルトと婚約をしたと聞いたとき、ビアンカはソフィアが大嫌いになった。ソフィアもビアンカも同じ筈なのに、どうしてビアンカの欲しいもの全部をソフィアが持っているのか。ビアンカだって両親の愛情は感じていた。しかしあの花畑で、確かにビアンカは敗北感を味わったのだ。
ソフィアの両親が死んだと聞いたとき、やっと自分の番がやってきたと思った。『レーニシュ男爵の娘』ならばソフィアの幸せは自分のものになると思った。しかしビアンカが全てを奪って追い出しても、ソフィアはまたビアンカよりも幸せそうな姿で、ビアンカの前に現れる。
「おい、なにぼーっとしてんだい! 帰って飯にするよ。……そんな顔しなくたって、今日はあんたの分もあるよ。下手でも働いただろうが。また明日、ちゃきちゃき動いてもらうからね!」
日が傾いている。自分はどんな顔をしていたのだろう。今この場に鏡が無いことがとても不安だった。確認したくて仕方ない。
ソフィアのことを考えると、いつだってビアンカは美しくいられなくなる。アルベルトの隣で一番着飾っていた夜会でさえ、ソフィアには負けたと感じさせられた。
今はこんな場所で農作業をして、手はぼろぼろで、儚い白さを誇っていた肌も日焼けしてきてしまっている。きっとソフィアはギルバートの隣で、あの頃よりも更に美しくなっているのだろう。惨めさに泣きそうになるのを堪えて、ビアンカは家へと急ぐ婆さんの背を追った。