特別な誕生日(ギルバートの場合)下
ソフィアは手元の刺繍枠を引き寄せ、玉留めをして糸の端を隠して切った。針山から別の色の糸を通した針を取って、端を結んでまた刺していく。
刺繍のハンカチは以前にも贈ったことがある。ギルバートのイニシャルをモチーフに、蔦を刺繍したものだ。あのハンカチは大切に持ち歩いて使ってくれているのだと、レーニシュ男爵領で知って嬉しかった。
今回のモチーフは薔薇の花だ。淡い紫の薔薇に、緑の葉を散らしている。庭師との会話で思い付いた薔薇のモチーフは、思った通りギルバートに良く似合いそうだった。
その日、ギルバートはいつもの通りに仕事を終え、王城から帰宅した。タウンハウスに戻ってからはいつもソフィアと夕食をとっている。待たせないようにと馬車を急かすのもいつものことだった。
玄関前で馬車を降りると、ハンスが荷物を受け取った。メイドが開けた扉をくぐり、いつもの通りソフィアの迎えが──なかった。残念な気持ちもあるが、真っ先に思い浮かぶ感情は心配だ。
「ソフィアはどうしている?」
「ソフィア様でしたら、お部屋にいらっしゃいます。今日はお勉強が押してしまいまして、夕食の席のご用意をされておいでです」
「そうか」
流れるように言うハンスに少し違和感を覚えるも、そんな日もあるだろうと考えるのを止めた。それに着替えをしているのなら、部屋を訪ねるのも可哀想だ。
「ギルバート様も、どうぞご用意を」
「──ああ」
自室で軽く汗を流し、騎士服から見苦しくない私服に着替える。一人きりの頃は部屋着にしていたが、ソフィアと食事をするようになってからはしっかり着替えている。
いつものように階段を下り、食堂の扉を開けて──そこに集まっている人数に驚かされた。
「ギルバート様、お誕生日おめでとうございます」
「「「おめでとうございます!」」」
にこりと微笑むソフィアに続き、使用人達が声を揃える。誕生日とは何のことだろうか──と思考を広げ、やっと今日が自身の誕生日であったことに思い至った。
「──そうか、私の誕生日か」
「そうですよ、ギルバート様っ」
頬を赤く染めたソフィアがぎゅっと両手を胸元で握り締めている。その様子が可愛らしくて、思わず歩み寄って頭を撫でた。
「ありがとう、ソフィア。皆もありがとう」
ギルバートは口元を緩めて笑みを浮かべた。それを見た使用人達は嬉しそうに盛り上がっている。
改めて見れば、使用人のほぼ全員が集まっているようだ。無駄に広いはずの食堂がやや狭く見える。大きな長テーブルは端に寄せられ、代わりに丸テーブルがいくつも並べられていた。壁にはタペストリーが掛けられ、棚やテーブルには美しく花が飾り付けられている。
貴族を呼ぶパーティーよりも穏やかな賑やかさで、それでいてとても華やかだ。
「──そうか。こんな祝い方もあるのだな」
「そうでございますよ、ギルバート様。ソフィア様の呼びかけで、皆がギルバート様を祝いたいと集まったのです」
「ハンス」
ハンスが満面の笑みでギルバートに声をかけてくる。珍しい表情に、口の端が引き攣るのが分かった。
「そんな顔をなさらないでください。別に責めてはおりません。──ただ、皆が祝う気持ちは、忘れないでいてくださいませ」
「あ、ああ。分かった」
責めていないと言いながら、念を押すその口調には明らかに強い感情が込められていた。
「──ギルバート様っ、今日はご馳走もあるんですよ!」
ソフィアがギルバートの腕を引く。夜会では見せないその無邪気な姿が愛おしい。
「ああ、そうだな」
見れば次々と料理が運び込まれているところのようだ。端に寄せてある長テーブルに、小さく取り分けられた料理が並べられていく。
「今日は皆も一緒に食べられたらって思ったんですけど……良い、ですか?」
「勿論だ。──私を祝ってくれているのに、皆が別に食事をすることもないだろう」
わあっと沸き立ったのは主に男の使用人達だ。そのつもりでいたとはいえ、やはり公認されるのは嬉しいらしい。まして、今日の料理はご馳走──普段の使用人食よりも豪華なのだ。
「──誰への褒美なのだろうか」
ぽつりと呟いたギルバートの横で、ソフィアがくすくすと笑う。次々と運ばれてくる料理と、菓子で名前が書かれたバースデーケーキ。
この幸せを守りたいと──強く思った。
最後の方はすっかり宴会へと姿を変えたパーティーの席を離れ、ソフィアとギルバートは先にそれぞれの部屋に戻った。カリーナに寝支度を整えられたソフィアは、そっとカーディガンを羽織って部屋から出る。目的地は、ギルバートの私室だ。
「ギルバート様、いらっしゃいますか?」
扉を数回軽く叩くと中から声がかかった。そっとノブを捻り、室内へと入る。中では既に部屋着に着替えたギルバートが、ソファーに座って淡い琥珀色のグラスを傾けていた。
「ソフィア、どうした?」
自身の隣を軽く叩いてソフィアを呼ぶギルバートに従い、おずおずと腰を下ろす。ギルバートは立ち上がって別のグラスを用意して、テーブルにあった二つのボトルの内の一つを傾けた。透明の液体がグラスを満たす。
「果実水だから安心して飲んでいい」
どうやら酒を割る用のものだったようだ。ソフィアはほっと息を吐いてグラスを傾けた。爽やかな檸檬の香りが心地良い。
「ありがとうございます、美味しいです」
普段と違うことをした緊張に高鳴っていた心臓が、少しずつ落ち着いてくる。
「今日はありがとう。こんなに賑やかな誕生日は──いや、祝われたことも随分と久しぶりだった」
「いえ、私は何も──」
「ハンスが、ソフィアのお陰だと言っていた。私のことを考えてくれたことが嬉しい」
「それは……ありがとう、ございます。楽しい思い出になったら、良いなと思って……それで、あのっ」
ポケットに入れた小包を取り出す。
「お誕生日プレゼントですっ」
小花柄の包装紙はソフィアらしいが、ギルバートには似合わないだろう。しかしあえてそれを選んだのは、きっと大事にしてもらえるだろうと思ったからだ。
「ありがとう。──開けても良いか?」
「はい、あの。お気に召して頂けると嬉しいのですが……」
ソフィアが話している間にも、ギルバートは包みを開いていく。プレゼントは、薔薇の刺繍のハンカチと、料理長と共に作った焼菓子だ。
「それ、料理長と作ったんです。だから味は、大丈夫だと思うんですけど」
「ソフィアが作ったのか?」
ギルバートは焼菓子をじっと見ている。
「はい……」
「ありがとう、後で頂こう」
今は食事を終えたばかりだ。ソフィアも頷く。ギルバートが、もう一つのプレゼントを手に取った。
「ソフィアの刺繍を貰うのは、これで二つ目だな」
そちらは自信がある。あれから教会に寄付しようと刺繍を繰り返したお陰で、きっと上達しているだろう。
「やっぱり、ギルバート様には薔薇の花も似合いますね」
手に取ったハンカチの刺繍の淡い紫色が映える。ギルバートのどこか無機質な美しさと銀髪の涼やかな華やかさに、その花はとても似合っていた。
「そうだろうか?」
首を傾げるギルバートに、ソフィアはしっかりと頷いた。
「はいっ、また作っても良いですか?」
今度は何にしようか。花も良いが、愛馬のティモをモデルにしても良いだろう。心が浮き立つのが分かる。
「そうだな。ソフィア──ハンカチは私が買うから、あと五枚程刺してくれないか」
正面から真面目な表情で瞳を覗かれ、ソフィアはびくりと肩を揺らした。そしてその内容にも驚く。
「え……っと、あの。五枚ですか?」
「ああ。少ない数では傷みも早い。以前貰ったものと合わせて七枚あれば、一週間それぞれに持てるだろう?」
「は、はい。構いませんけれど……」
いつも持ち歩きたいと言って貰えるのは嬉しいが、七枚とはまた極端だ。返事をしたソフィアを、ギルバートはぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう、とても嬉しい。私にとってソフィアは──いつも心を癒してくれる、特別な存在だから」
ハンカチを持っていたい理由だろうか。その言葉に、心臓がどきどきと大きく速く鳴った。力になれるのならば、ソフィアはギルバートの為に何だってしたい。刺繍くらいなら何枚だって刺そう。
「……ギルバート様、今日は本当におめでとうございます」
ソフィアは腕をギルバートの背に回してその肩にこてんと額を当てた。より近付いた距離に、更に頬が染まる。それでもソフィアにギルバートの疲れを癒すことができるなら、少しでも近くに──側にいたい。
「ありがとう。ソフィアの誕生日は、初夏の頃だったか」
「ご存知だったのですか」
「ああ。雇用契約書に書いてあった」
言われれば当然のことで、ソフィアは溜息混じりに頷いた。ギルバートの誕生日に少し前まで無頓着だった自身が恥ずかしい。
「そうですね……」
「その時には、私が夫として、ソフィアを祝おう」
耳元で囁かれる甘い言葉は、ソフィアをぱっと幸せにした。そうして長い夜は更けていく。
まだ共に眠ることを許されていない二人は、名残惜しくも口付けをして、それぞれの寝室へと戻るのだった。
次の番外編はビアンカです!