令嬢は黒騎士様に拾われる8
ソフィアは素足の裏で感じる柔らかな絨毯の感触に戸惑った。どこを見て良いか分からず、目の前にいるギルバートを直視しないよう、ただ視線を彷徨わせることしかできない。そわそわと落ち着かないソフィアと無言のギルバートの時間を動かしたのは、トランクと靴を運んできたハンスだった。
「──ギルバート様、ご説明をお願いします」
適切な距離を置いた位置で姿勢を整えたハンスが、ちらりとソフィアに目を向けた。ソフィアはその視線から逃れるように下を向く。
「ソフィア・レーニシュ嬢だ。先代レーニシュ男爵の娘で、殿下のご命令により、当面の間ここで面倒を見ることになった」
当然のごとく決定事項として言われ、ソフィアは思わず口をぽかんと開けた。ギルバートの言葉を信じるならば、ソフィアはしばらくここで暮らすことになるらしい。マティアスの命令を素直に引き受けたギルバートの内心は、ソフィアには分からないままだ。
「──また殿下のお戯れですか?」
「いや……」
ギルバートは僅かに目を伏せた。ソフィアは申し訳なく思い、眉を下げて肩を落とす。見る限りでは、ギルバートはソフィアよりいくらか歳上のようだ。侯爵位を継いでいるのだから、既婚であってもおかしくないとソフィアは思う。
「あの……ご迷惑でしたら、私──」
「迷惑ではない。──この扉の向こうは浴室だ。入ってこい」
ギルバートはハンスから受け取ったトランクを、気軽な様子でソフィアに突きつけた。ソフィアはギルバートの伸ばした手の先にある自らのトランクを見る。返してくれるのだろうか。ソフィアはおずおずと両手で受け取り、上目遣いにギルバートの表情を窺った。その瞬間、ギルバートの藍色の瞳とソフィアの瞳が正面からばちりと合う。ギルバートの表情が、僅かに動いた。
ソフィアはびくりと肩を震わせ、ギルバートからトランクを受け取ると、バスルームの扉を開けて中に逃げ込んだ。あんな顔を見せるなんて、反則だ。それまでずっと無愛想で怖かったギルバートの目が、すうっと柔らかく細められたのだ。ソフィアはトランクを足元に置き、胸に手を当てる。早まる鼓動は驚きと戸惑いのためだと、ソフィアは自らに言い聞かせた。
「──ギルバート様、彼女はどうしたのです。しかもギルバート様の私室のバスルームを使わせるなど……」
ソフィアが扉の向こうに逃げるように駆け込んだ後、ギルバートはハンスに正面から睨むように見据えられた。ハンスはギルバートの父が当主であった頃から、侯爵家に仕えている。ギルバートもこうして向き合われてしまっては、逃げることはできなかった。王城では気を張っていたが、自宅だと思えば少しは気が楽だ。ギルバートは小さく嘆息した。
「あの娘は、ここ以外の浴室は使えないだろう」
ギルバートはハンスに、ここにソフィアを連れてくることになった経緯を大まかに説明した。ハンスは話が進むに連れ、眉間の皺を深めていく。
「ではソフィア嬢は、男爵令嬢であるにもかかわらず、行き倒れそうになっていたと言うのですか」
「──そうだ。魔力がない以上、仕事も簡単には見つからないだろう。殿下はそれを憂慮されていた」
ギルバートの言葉に、ハンスは納得したように頷いた。ソフィアの傷だらけの姿と鉤裂きに破れたワンピースから、只事ではないと思っていたのだろう。
「それで、ソフィア嬢は何故そんなことになっていたのですか?」
当然のようにギルバートに尋ねるハンスに、ギルバートは顔を顰めた。マティアスに説明したときと同様に自身の無力さを感じ、目を伏せ声を落とす。
「……何も見えないから分からない」
「──何と仰いました?」
ギルバートの言葉に、ハンスは訳が分からないとばかりに聞き返した。これまでにギルバートが誰かの内面を覗こうとして分からなかったことなどなく、使用人に慕われているにもかかわらずその能力故に距離を置かれていることも知っているハンスには、信じられないことだろう。
「私は魔力の揺らぎを読み取っている。魔力が無ければ、何も見えない」
ギルバートはこれ以上話すつもりもなく、ベッドサイドに置いていた本を手に取った。背を向けているので表情は読み取れないが、どうやらハンスは笑っているようだ。隠すつもりもないのか、声に喜色が滲んでいる。
「では、まずはゆっくり休んで頂きましょう。調度もありますし、こちらの部屋でよろしいですね?」
「いや、それは──」
慌てて振り返ったギルバートは、ハンスの笑みを正面から見ることになった。その表情は今朝早くにマティアスが見せたものと、同じ類のものだった。
ポケットから魔石と木箱を取り出し、丁寧に置く。服を脱ぐと、生地が肌に擦れて痛みを感じた。傷を洗い流すべきだということは分かっていたが、きっと沁みるだろうと怖気付く。覚悟を決めて足を踏み入れた広く綺麗なバスルームで、ソフィアは驚きに目を見開いた。
「どうして……」
古典的なタイルの装飾は見事だったが、ソフィアが驚いたのはそれではない。
そこにあったのは、ソフィアが見慣れた二つのレバーだった。手の力で捻るだけで、湯量と水量を決め、シャワーの湯温を調節することができるものだ。両親に愛されて生活していた頃、レーニシュ男爵邸で使われていたものと同じ仕様のものだった。魔力のないソフィアのためにと、両親が揃えてくれていたアンティークの調度。思いもよらず感じた懐かしさに瞳が潤む。慌ててシャワーのレバーをそれぞれ捻れば、少しして適温の湯がソフィアの涙を洗い流してくれた。