令嬢は黒騎士様と前を向く8
正体を隠していた行きと違い、帰りは王都のタウンハウスからフォルスター侯爵家の馬車が用意された。このまま三日かけて王都に戻ることになる。
「行きは大分無理をさせた。帰りは急がないから、安心しろ」
「──はい、ありがとうございます」
領地に来るときは商人のふりをしていたのだ。ずっと馬に乗っているのも距離が近くて幸せだったが、実際のところ、翌朝は少し身体が辛かった。
「私は馬で行くが、馬車に並走している。何かあれば言ってくれ」
「はいっ」
当然のような温かい言葉が嬉しい。領地では色々なことがあった。フォルスター侯爵邸に帰るのは楽しみでもある。ソフィアの友人であり侍女でもあるカリーナは、ソフィアの頑張りを褒めてくれるだろうか。
ギルバートに右手を預け踏み台に足を掛ける。頭をぶつけないよう少し屈んで馬車に乗り込み、ソフィアは目を見張った。
「──ソフィア、お疲れ様。なんか大変だったみたいじゃない」
からりと笑って、ひらひらと手を振るその姿は、ソフィアが会いたいと思っていた一人だ。
「カリーナ!? え……どうして」
「ギルバート様から頼まれたのよ。帰りは馬車だから、ソフィアに同行して欲しいって。あ、ほら。さっさと座りなさい」
「あ。う、うん。──ギルバート様が?」
ソフィアはカリーナの向かい側に腰を下ろし、首を傾げた。
「そうよ。馬車の中は一人だし、色々あったから心配したんでしょ。本当、過保護なんだから」
言葉と裏腹にカリーナは嬉しそうな顔をしている。それがソフィアも嬉しい。早く──早くカリーナに会いたかったのだ。
「あのね、カリーナ。いろんなことがあったの。聞いてくれる?」
「当然よ。王都まで三日もかかるんだもの。時間なら、いっぱいあるわ」
それに無茶した分磨かないと、と言ってカリーナは手をわきわきと動かした。ソフィアは何から話そうかと、逸る心を持て余して笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、ソフィアちゃん!」
フォルスター侯爵邸に入って最初にソフィアを出迎えたのは、ギルバートの母であるクリスティーナだった。急に飛び付くように抱き付かれ、ソフィアはびくりと肩を震わせる。そういえば、エルヴィンとクリスティーナがタウンハウスに滞在していたのだと、今になって思い出した。
「大丈夫? 怪我はない、無茶してない?」
「は、はい。大丈夫です……っ」
「そう。良かったわ!」
ぎゅむぎゅむと抱き締められると、苦しいが同時に心がぽかぽかと暖かくなる。その少し後ろで、エルヴィンが紳士的に微笑んでいた。
「おかえり、ソフィアさん」
「──ありがとうございます。お義父様、お義母様。ただいま……帰りました」
ぽろりと涙が零れたのは無意識だった。クリスティーナの優しさが、抱き締めてくれる腕が、エルヴィンの穏やかさが、家に帰って来たのだとソフィアに実感させる。いつの間にかここがソフィアにとって、帰るべき家になっていたのだ。
「父上、母上。ただいま戻りました。ソフィアを離して頂けますか。──旅で疲れているのです。休ませてあげてください」
「それもそうね」
クリスティーナがぱっとソフィアから手を離す。急に自由になった身体をふらつかせると、ギルバートが片腕で軽く支えてくれた。
「部屋で休むといい。私はこの後、王城に行ってくる。──また後で」
くしゃりと髪を撫でられて、ソフィアは涙を拭って頷いた。
「はい、ありがとうございます。では一度失礼させて頂きます」
「ゆっくりして良いわよ。後でお茶でもしましょうね」
「はい、是非ご一緒させてください」
ふわりと微笑んで一礼し、ソフィアはカリーナを伴って部屋に向かった。カリーナの手伝いで入浴を済ませ、楽な服に着替えて寝台に潜り込む。いつの間にか慣れてしまった客間の上等な寝台は、ソフィアの身体と心の強張りを解いていく。すっかりリラックスして、気付けばすっかり眠ってしまっていた。
それから数日して、エルヴィンとクリスティーナは領地に帰っていった。妙に賑やかだった邸は、落ち着いたいつもの雰囲気に戻る。ソフィアもまた、ギルバートの妻になる為の勉強に追われる日常へと戻っている。
更にそれから二週間ほどで、レーニシュ男爵夫妻の裁判が終わった。罪状は違法商品の生産に係る罪と、先代男爵夫妻の殺人罪。判決は身分剥奪の上終身刑だ。国の北にある牢獄から、死ぬまで出てこられないという。死刑制度が廃止されて久しいこの国では、最も厳しい刑罰だ。ギルバートはその報告を淡々とソフィアに聞かせた。
「──会いたいか」
その質問はソフィアにとって予想外だった。不思議なことに、叔父母に対して何の情も湧き上がってこない。自身は冷たい人間なのだろうか。しかし、もう関わりたくないと言うのが本音である。
「いいえ。もう、関わりのないことです」
「そうだろうな」
そう思うことが当然であるかのように頷くギルバートに、ソフィアはほうっと嘆息した。
「それと、ビアンカ嬢のことだが──」
「ビアンカ、ですか?」
「そうだ。彼女は法律上、何の罪も犯していない。だが、男爵家に置いておく訳にもいかないだろう」
「そう、ですね……。申し訳ございません。最近色々あり過ぎて、すっかり忘れておりました」
気付けばビアンカの処分についてなど、すっかり忘れていた。かつてはソフィアを恐怖で支配していたと言っても過言ではなかったのに。
「そう、か。忘れていたか」
ギルバートが愉快そうに、くつくつと喉の奥で笑った。
「──それは良いことだ。ソフィアは、前を向いているということだな」
「え……」
その言葉に困惑したソフィアの手を、ギルバートがぎゅっと握った。それはいつも通りに強く優しい。
「過去の辛さに執着しないのは良いことだ。お前はこれまでの苦労を糧に、優しい思い出を拾って生きていけばいい」
「──はい」
「では、ビアンカ嬢の処分は私に任せてもらえるか。──信頼できる親戚に、葡萄酒を作りながら平民として暮らしている変わり者がいる。人手を欲していた筈だ」
ソフィアは目を見開いた。叔父母が罪人となり男爵令嬢という立場を失くし、行き場のない筈のビアンカに、ギルバートは家を用意してやろうと言うのか。その実質は平民落ちだろうが、行き場のないままよりもやり直せる可能性もあるだろう。先代男爵である両親の言葉を思い出す。できるなら、ビアンカにも他人との関わりと労働の中で、もう一度正しく生きて欲しい。
「お心遣い……ありがとうございます」
ギルバートがそこまで考えてくれていたことが嬉しかった。そしてソフィアには、次にしなければならないことがあった。
「それで、陛下との謁見の予定だが──」
その言葉に、ソフィアはぐっと背筋を伸ばした。