令嬢は黒騎士様と前を向く7
少しひびの入ったくすんだ白い壁に、不釣り合いなほど美しく磨かれたステンドグラス。何日か振りに訪れたそこで、ソフィアは大きな木製の扉をゆっくりと引いた。
「──こんにちは」
もうすぐ午後になる時間、町の大きな教会には、いつも通り店じまいをする子供達と、彼等を迎えに来た神父の姿があった。
「お姉ちゃんだー!」
ミアが駆け寄ってきて、ソフィアにぴょんと飛びついた。
「こんにちは、ミアちゃん」
しゃがんで頭を撫でる。今日はミア以外には初対面の子供達だった。当番制なのだろう。微笑みかけると、ぺこりと頭を下げてくれる。
「ねえ、お姉ちゃん。今日はこの前のお兄ちゃんと一緒じゃないの? ……あっ、今日のお兄ちゃんが、お姉ちゃんの王子様ー?」
幼いミアの声は、雑音のない教会に良く響く。少し離れたところにいたギルバートが、驚いたようにこちらに目を向けた。ソフィアはミアの目を見て微笑む。
「──ええ、そうよ。この人が、私の王子様」
ミアはぱっと表情を輝かせた。瞳がきょろきょろとソフィアとギルバートの間を行き来している。話を聞いていたギルバートが、こちらへ歩み寄ってきた。
「お兄ちゃんが、お姉ちゃんの王子様なのー?」
「私はソフィアの騎士であり、ただ一人でありたい。それが王子だと言うのなら──そうだな」
背の高いギルバートが、腰を曲げてミアの頭をわしわしと撫でる。その言葉の正しい意味が分かっているのだろうか。きゃあと甲高い声を上げ、ミアはぱたぱたと走り回った。
「ギルバート様……っ」
率直な言葉が恥ずかしくて、頬が染まる。
「事実だ。気にしなくていい」
「とは仰いましても……!」
ソフィアの頭を、ギルバートが優しく撫でた。それは乱れた髪を整えてくれているようでもある。少しずつ落ち着いてきて、今日ここに来た本来の理由を思い出した。
様子を窺っていた神父の前へと移動する。姿勢を正し、ソフィアは淑女の礼をした。
「こんにちは、神父様。今日はお話があって参りました。──ソフィア・レーニシュと申します」
その名前に、神父は目を見張った。一拍置いて慌てたように深々と頭を下げる。
「まさか──まさかソフィア様とは存じ上げず、失礼を致しました」
「いいえ。私こそ、黙っていて申し訳ございません。今日は謝罪をさせて頂きたくて参りました」
神父はソフィアの物言いに首を傾げる。
「謝罪など……今の私共にとっては、お元気な姿を見ることができるだけで幸せですのに。──では、あちらの方は」
神父の目が、ミアと他の子供達に囲まれて困ったような顔をしているギルバートに向けられる。その光景が面白くて、ソフィアは緊張が解れて微笑むことができた。
「彼はギルバート様です。今日は、共に領地を見て回っているのです」
「やはりそうでしたか。──ご婚約、おめでとうございます」
「そ、そんな。あ……ありがとうございます」
改めて他人から言われるのは気恥ずかしい。しかし、嬉しいものだった。そして領民達はソフィアのことも、ギルバートのことも知っているようだ。
「しかし私は、ソフィア様から謝罪されることなどございませんが」
「いえ。あの……ビアンカが寄付させて頂いていた刺繍のことです。あの刺繍の小物は、ビアンカが作っていたものではなくて。かつて私が作ったものを、ビアンカが寄付していたものなのです。……きっと彼女が今後、ここに来ることはないと思います。せっかく子供達にとっては良い令嬢であったのに、申し訳ございません」
気になっていたのだ。領民達にとって、叔父母は別として、ビアンカは良い令嬢を演じていた。それがソフィアの刺繍を利用したものであったとはいえ、子供達にとっては目に見えるそれこそが事実だ。
「それは──左様でしたか。確かに残念ではありますが、仕方のないことです」
どこか力無く言う神父に、ソフィアの罪悪感が募る。焦りながらも鞄の中から昨日作ったポーチを取り出し、神父に渡した。
「──あの図案は既にビアンカのものですので、新しいものを作りました。これから、きっと時間は掛かるでしょうが……私が上書きできるように、子供達が寂しくないように、頑張りたいと思います。どうか、それまでお時間を頂けませんか」
願いを込めて、深く頭を下げる。神父はそんなソフィアを見て、全てを包み込むような深い笑みを浮かべた。
「勿論です。──お待ちしておりますね」
レーニシュ男爵領の馬車が町を走ると、中に乗っているのは誰だろうと皆が噂しているのが分かる。だからこそ、今日はこの馬車を使いたかった。しかしここまでとは、流石に予想外だ。
「──ソフィア、手を」
先に馬車を降りたギルバートが、ソフィアに手を差し伸べる。ソフィアがその手に手を重ね、踏み台に足を掛けた。瞬間、周囲がわっと沸き立った。
「これは……」
ソフィア自身、事件以降の数日で自分がどのように噂されているかは知っていた。両親を殺害され、叔父母から虐められて追い出された悲劇のヒロインだ。ソフィアを助けたギルバートがまるで物語のヒーローのように扱われているらしいことも、宿の飲食店や町に出れば聞こえてくる。
「ソフィア、大丈夫か」
ただ少し、カリーナへの土産を見たいと思っただけだった。躊躇した足を前に進め、地に足を付ける。ギルバートの手は離せない。
「──はい。多分」
「ならば笑ってやれ。今だけ、少しで良い」
ソフィアは引き攣りそうになる表情を必死で緩めて手を振った。中には記者らしき者もいるが、確かに彼等はソフィアを思ってくれて、ここにいるのだ。せめて今できる精一杯で、レーニシュ男爵家の者として振る舞いたかった。
ギルバートがソフィアの手を引き、ゆっくりと目当ての店へと入る。護衛に付いているトビアスが、残った自警団と共に集まった人達を誘導しているようだ。
「私、まだ何もしておりません……」
「それだけ期待されているのだと思えばいい。男爵夫妻が逮捕され領地の今後が分からない今、心の拠り所が欲しいのだろう。──この分なら、お前が領地を継いでも、私の元に嫁いでも……反発は無さそうだな」
さらりと言ったギルバートは、既に商品の並ぶ棚に目を向けている。隣に立つと、ちらりとソフィアに目を向けてくれた。その何気無い気遣いが嬉しくて、不安は希望へと塗り変わっていった。