令嬢は黒騎士様と前を向く6
ギルバートはその夜もソフィアが眠るまで側にいてくれた。ギルバートも疲れているだろうに、それでも向けられる優しさが嬉しいとは、随分我儘になったと思う。
そして、次にギルバートが帰ってきたときには、ソフィアの作っていたそれは完成していた。子供の頃と同じ図案、似た色。しかし蔦は美しい曲線で絡まり合い、その花は細かなグラデーションで咲き誇っているようだ。納得のいく出来にほっと気が抜けた。同じものを二つ作り、片方は端を縫い止めてポーチにした。
ソフィアは余った布と糸を片付け、ギルバートの帰りを待った。
「──おかえりなさいませ、ギルバート様」
その足音にぱたぱたと出迎えたソフィアに、ギルバートはほっと嘆息した。しばらく落ち込んでいた自覚はある。やはり心配を掛けていたのだと思うと、申し訳ない。
「ただいま、ソフィア。食事はまだか? 今日こそは一緒にできればと思ったんだが」
ギルバートの誘いに、ソフィアは笑顔で頷いた。
着替えたギルバートと共に一階に下りる。すっかり仲良くなったアルマが、ギルバートといるソフィアを見て愉快そうな笑みを浮かべた。向き合って座り、食事を始める。数度口に運んでから、ソフィアは意を決して口を開いた。
「──ギルバート様」
名を呼ばれ、ギルバートが視線を上げる。
「どうした?」
その質問はあまりに短い。しかしソフィアには、ギルバートのそれに他意がないことは分かっていた。それでも少し遠慮がちに話を続ける。
「あの、両親のお墓に行きたいのです。多分ここからだと、一人では行けなくて……」
レーニシュ男爵家の墓は、周囲を自然に囲まれた丘の上にある。初代男爵が広く領地を見渡せる場所にと望んだ結果だと聞いていたが、実際のところ、ソフィア一人で行ける場所ではない。かつては男爵邸を抜け出して行こうとしたこともあった。しかし辿り着けず、道に迷って引き返したのだ。この場所からだと、どれくらいかかるだろう。
「──それなら、領地を発つ前に行こう。私も挨拶させてもらいたい。都合はつける。共に行っても良いか?」
「よろしいの、ですか?」
ギルバートの言葉は、ソフィアの予想以上のものだった。ギルバートも会いたいと──そう思ってくれていたのだ。
「ああ。どちらにせよ、一日は時間を取れるように動いていた。仕事とはいえ、ソフィアと領地を見てから帰りたかったから」
当然のように言い、ギルバートは食事を進める。その返事に、ソフィアはもう一つの願いを口にした。
「それと、もしよろしければ──」
その日は快晴だった。空は青く透き通り、冬でもその緑を保っている芝が冷たい風に揺れている。
「一緒に来てくださって、ありがとうございます」
ソフィアは花束を抱え直し、ギルバートの差し出した手に手を重ねた。その手を頼りに、レーニシュ男爵家の馬車からゆっくりと降りる。
この数日で、レーニシュ男爵夫妻の逮捕劇はすっかり知れ渡った。新聞が記事にしたことも大きかったが、噂の方もなかなかの勢いがあるようだ。特に先代男爵夫妻の殺害については、違法商品の生産についてよりも感傷的な情報として扱われ、先代男爵の人徳も相まって、ソフィアはすっかり悲劇のヒロインのように言われていた。町の様々な場所で、先代の一人娘はどうしているのだろう等と囁かれていて、それがソフィアだと気付かれていないことを知りながらも、なかなか落ち着いて出掛けることはできなかった。
「いや。私こそ、お前とここに来られて良かった」
それでも今日敢えてレーニシュ男爵家の馬車を使ったのは、ソフィアにとっては一つの覚悟の証だった。ここに来るまでの間、この馬車は何人にも目撃されている。
手を引かれて丘を登ると、そこは高台になっていて、以前の記憶の通りの景色が広がっていた。誰かが手入れをしてくれていたのだろうか、墓の周囲も整えられている。きっとそれは、これまでの領主の誰かを大切にしてくれている人なのだろう。ソフィアは昨日縫い上げた刺繍を墓前に広げ、胸に抱えていた花束をその上に供えた。
「──お父様、お母様。やっと……会いにくることができました」
膝をつき、祈りの形に組み合わせた手に額を寄せて目を閉じる。取り留めなく流れていく思考の中、浮かぶのは両親の笑顔と領民達の姿だった。供えた刺繍は、二人の娘としてのソフィアの、子供らしい承認欲求だ。男爵家とはいえあまり裕福とは言えず、いつも領地と領民のためにと飛び回っていた両親。二人とも、いつもソフィアに優しかった。
「ギルバート様、お願いがあります」
ソフィアは顔を上げ、ギルバートを見た。もう決めたことだ。後悔などする筈がない。迷惑を掛けてしまうのなら、たとえ一人であったとしても。
「私に──私に、レーニシュ男爵領を継がせてください。父と母が愛した……この場所を、どうか守らせてください」
知らない誰かのものになると考えたとき、嫌だと思った。今レーニシュ男爵家の血を引く者は、叔父母以外にはソフィアとビアンカしかいない。しかしビアンカにはきっとその覚悟はない。今のレーニシュ男爵領は、負債にしかならないのだ。ギルバートにとっても、迷惑でしかないだろう。
ギルバートは無言のまま、ソフィアの横に片膝をつき、腰に提げていた剣を地面に置いた。それは墓前には似つかわしくない、正式な騎士の礼だ。
「ご挨拶が遅くなりました。ギルバート・フォルスターと申します。どうか、ソフィア嬢との結婚をお許しください。彼女の思いは、私も共に守ります。──領地も、彼女も……必ず」
その低く落ち着いた声は、二人の他に人影のない丘に吸い込まれていった。その意味を理解し切れないまま、ギルバートの姿に見惚れてしまう。
「ソフィア」
いつの間にか、ギルバートの手がソフィアの頬に触れていた。はっと目を見開くが、直後吹いた冷たい風に思わず首を竦める。
「──レーニシュ男爵領を継いで、私の元に嫁いでこい。大切なものは、一つも諦めるな」
それは、まるで熱の塊のような言葉だった。覚悟と言ってぎゅっと押し固めてきた心が、途端に柔らかく広がっていくのが分かる。
「ですが……」
「──ソフィア」
ギルバートの手が、ソフィアが俯くことを許さなかった。その藍色の瞳は、眩しい太陽の下、磨き抜かれた藍晶石よりも美しく強い輝きを宿している。信じたいと、強く思った。
「どうか……どうか我儘を許してください。私は、ギルバート様にそう仰って頂いて、とても嬉しいです。本当に幸せ者です」
ギルバートの表情が、涙で滲んで見えなくなっていく。それはまた無意識の内に一つを諦めようとしていたソフィアにとって、この上ない愛の言葉だった。
「──はい。私は……もう、諦めません」
涙を拭われ目を開けると、いつかソフィアが渡した刺繍入りのハンカチがギルバートの手にあった。ソフィアは思わず口元を緩める。
まだ冬は続く頃の筈なのに、何処か春を感じさせる風が、二人の髪を舞い上げていった。