令嬢は黒騎士様と領地に戻る8
ソフィアは目の前に差し出されている手と、見下ろしているケヴィンの心配そうな表情を見比べた。この手は、弱い者へと向けられる騎士の手だ。ソフィアは緩く首を左右に振った。まだ響いている泣き声の方へと身体を向ける。ぐっと両手で床を押せば、ふらつきながらもどうにか立ち上がることができた。
「──デニス、怪我はない?」
ソフィアは涙目になりながらもミアとルッツをあやしているデニスに声をかけた。デニスは無言のまま頷く。それでも膝をついて調べると、尻餅をついたときに手の平を擦りむいてしまったようだ。少しだが血が出ている。
「後で消毒しましょうね。……ミア、ルッツ。大丈夫よ。あのお兄ちゃんが──悪い人を捕まえてくれたから」
二人の頭をできるだけ優しく撫でる。いつの日かギルバートがしてくれたように、もう大丈夫だと伝わるように。少しずつ静かになっていくミアとルッツは、泣き疲れたのかしばらくして眠ってしまった。デニスもまた、二人とソフィアの側を離れようとしない。
「お嬢さん、ここの神父を連れてきたよ。子供達は──ああ、下の子達は寝てるのか、良かったー」
ケヴィンが初老の神父を連れて、男達を縛り上げる為の縄を抱えて戻ってきた。神父はとても慌てていて、駆け寄り子供達の無事を確認すると、深く嘆息した。
「──騒ぎにしてしまいました。申し訳ございません」
立ち上がろうとしたが、子供達がソフィアに身体を預けていてできなかった。やむを得ずそのままの姿勢で頭を下げる。ケヴィンが暴れた結果、何かがあったと敬遠されたのか、教会に人はいなかった。神父は首を左右に振り、ソフィアの言葉を否定した。
「いいえ、この時間は元々人は少ないのですよ。あちらの方にお聞きしました。デニスを助けてくださって、ありがとうございます」
「あの、私、何も……」
両手を左右にぱたぱたと振る。ソフィアはただ飛び込んだだけで、もし何もしなくても、ケヴィンだけで対処できただろう。感謝されるようなことはしていない。しかしソフィアの言葉を否定したのは、デニス自身だった。
「そんなことないです! ──あ、の。お姉さん。助けてくれて、ありがとうございましたっ」
礼を言って頭を下げたデニスを、神父が褒めるように撫でる。どこか誇らしげな表情が子供らしく可愛らしい。ソフィアも微笑みを浮かべて答えた。
「いいえ。……でも、ありがとう」
その後、神父がミアとルッツを奥の部屋へと運び、ケヴィンは拘束した男達を別室へと引き摺っていった。ソフィアも言われるがまま、ケヴィンと共に移動する。そこは会議室のようで、この教会が領内でもかなり大きいことを今更ながらに思い出した。
ケヴィンは意識のない男達の見張りをしながら、戻ってきた神父と話をしている。椅子に座っているソフィアは、会話に入ることもできず、邪魔をしないようにその様子を静かに見ていた。思い切って飛び出したことを後悔はしていない。寧ろあの場で動かずにいる選択肢は、ソフィアには無かった。ただ、ケヴィンに、神父に、そして子供達に──気付かれないように押し殺そうとした恐怖は、今も消えてくれない。
扉の向こうから人の話し声が聞こえてくる。近付いてきているのか少しずつ大きくなる声が、扉の前でぴたりと止まった。ノックの音がして、神父よりも先にケヴィンが扉を開けに立ち上がる。
「──報告を受けた。男達は」
「はい、こちらで確保しています」
そこにいたのは、ギルバートとトビアスと、特務部隊のフェヒトだった。王都を出てから特務部隊と顔を合わせることのなかったソフィアは、ここにきて初めて合同捜査が行われていることを実感する。フェヒトが神父と話し、しばらくしてトビアスとケヴィンが自警団を名乗った男達を更に別室へと連れて行った。そのまま取り調べをするのだろうか。目の前の出来事なのに、ソフィアには別の世界のことのように見える。だから近くで名前を呼ばれて、咄嗟に反応が遅れてしまったことも仕方がないだろう。
「ソフィア、大丈夫か」
「──ギルバート様」
見慣れた藍色の瞳に焦点が合う。あまり感情を顔に出さないギルバートの瞳には、ソフィアには分かる心配と焦りの色がはっきりと浮かんでいた。ギルバートの白金の腕輪を着けた右手が、ソフィアの前にそっと差し出される。
「話は聞いた。怖かっただろう、遅くなってすまない」
「い、いえ……私は、大丈夫で──」
言葉は途中で飲み込んだ。ギルバートの真剣な表情が、誤魔化すことを許してくれない。
差し出されたこの手は、ソフィアを気遣い、愛おしむ手だ。導かれるままにおずおずと手を重ねると、すぐに引き寄せられ、力強い腕に抱き締められる。まだ止まらないままの身体の震えが、伝わってしまいそうだ。ソフィアはぎゅっと身体を硬くした。
「大丈夫ではないだろう。──もう安心して良い。言わねば分からないと言ってきたが……今は、私にも分かることはある」
ギルバートが、ソフィアの耳元で囁く。微かな声は、きっと他の人には聞こえないだろう。誰より安心できる力強い腕に支えられ、ソフィアの瞳からはやっと涙が溢れてきた。身体の力が抜けて震えが戻っても、ギルバートがその弱さまで受け止めてくれているようだ。
「ありがと……う、ございます。わ、私──ギルバート様が、来てくださったから……っ」
しゃくり上げながらの言葉はなかなか意味を持ってくれない。それでも絞り出そうと口を開けば、ギルバートがそれを知っていたかのように、ソフィアの唇を塞いだ。すぐに離れたそれに、体温を取り戻したような気がする。
「ソフィアのお陰で、あの子供は無事だったんだ。胸を張って良い。──だが、無理はするな。今だって、お前は弱くなどない」
「そんなことは──」
「お前は頑張っている。私は、お前がいてくれて良かったと思う。だから──ありがとう、ソフィア」
優しい言葉が、呼ばれる名前の甘さが、ソフィアが涙を止めることを許してくれない。子供のように泣いて、縋って──気付けばソフィアは、どこよりも暖かく幸福な場所で眠りに落ちていた。