令嬢は黒騎士様と領地に戻る6
「本当に出掛けたのか」
ギルバートはソフィアの話を聞いて目を見張った。町から出るなとは伝えていたが、これまでのソフィアからして、宿からも出ていないのではないかと思っていたのだ。
「いけませんでしたか……?」
不安げな瞳が揺れている。ギルバートは首を左右に振ってソフィアの言葉を否定した。
「──いや。外へ出ようとするのは良いことだ」
狭かったソフィアの世界を最初に広げたのはギルバートだ。レーニシュ男爵領に連れてきたのは事件解決の為でもあったが、ソフィアが少しでもこれまでの人生と折り合いを付けることができればと思ってのことでもある。
小さいテーブルの上には、ギルバートの分の焼菓子が置かれている。控えめな心遣いが嬉しい。ソフィアがふわりと柔らかく笑った。
「私達は明日も調査に出る。──ソフィアにはケヴィンを付ける」
本当はギルバートが側にいたかったが、そうもいかなかった。今日の会議で、来週には合流して男爵邸とその関係施設を捜索することになったのだ。その日はソフィアにも共に来てもらうことになるだろう。男爵家の者がいなければ踏み込めない場所もある。明日は、ギルバート達は事故があった崖に行くことにしていた。貴族の馬車の事故で死者が二人というのは、おかしなことだ。御者は何処にいたのか。
「ご迷惑ではありませんか? 騎士様がいらしてくださるのは、心強いですが……」
ソフィアが軽く俯いた。繋いでいる手が微かに震えている。健気な姿がいじらしく、側にいる時間に癒される。
「いや、構わない。町の声を聞くことも必要だ。何か気付くこともあるだろう」
「ありがとうございます」
問題は多く、事件は一つではない。しかしソフィアから首飾りを預かって以来、合同捜査全体の士気は上がっていた。録画されていた争いの内容が判明すれば、決定的な証拠になるのではないか。揃いだという耳飾りと指輪の捜索は、今も進められている。宝石商にも聞き込みをしたが、男爵邸の何処かに隠されているだろうというのが、第二小隊と特務部隊の共通の見解だった。
特務部隊は、ギルバート達よりもレーニシュ男爵邸に近い町に宿を取っている。第二小隊も、町の聞き込みを進めておくべきだろう。それはきっとソフィアの未来にも繋がるはずだ。ギルバートは繋いだ手をぎゅっと握り直した。
「──無理はするな」
どうしても硬くなる声で言う。ソフィアはそれに素直に頷いた。今日ソフィアが出掛けたという教会は、宿のすぐ近くだった。その経営状態と評判から、真っ先に事件との関与は否定されている。夜は危ないが、ケヴィンと一緒なら、もう少し遠出をしたとしても安心だろう。
「はい、ギルバート様」
領地に着いてから、ソフィアはその現状を知る度に一喜一憂している。これまで殆ど外に出ていなかったというのは本当らしい。その原因が現男爵夫妻にあることも、ギルバートは分かっていた。
「ソフィアは」
言葉を切ると、ギルバートは正面からまっすぐにソフィアを見つめた。ソフィアは頬を僅かに染めながら、見つめ返してくる。
「ここが……男爵領が好きか? お前にとっては、良い思い出ばかりではないだろう」
生まれ育った場所であると同時に、多くを失った場所でもある。両親との思い出もあるだろうが、それを奪ったのもまた、この地だろう。
「──ギルバート様。私はそれでも、ここを……この場所を嫌いにはなれません。ギルバート様は、きっとご存知ないでしょう? 今はこんなになってしまっていますが──暖かくて、優しい、素敵な場所だったのです。だから、それを忘れてただ嫌うことは……できません」
真摯な深緑色の瞳が、強い意志を持っていた。ギルバートは小さく嘆息し、肩の力を抜く。
「そうか、……それを聞いて安心した。ソフィアは変わらず、そのままこの領地を愛していてくれ。いつかきっと──お前の記憶の中にあるようなこの場所を、私も共に見られたらと思う」
ソフィアが嬉しそうに笑みを浮かべている。ギルバートはその頭を撫でるようにして柔らかな髪に指を通し、さらさらとした感触を楽しんだ。少し目を細める姿が愛らしい。この微笑みを守る為にも、ギルバートは少しでも早く事件を解決しなければならなかった。
翌朝、ソフィアとケヴィンの見送りで、ギルバートはトビアスと共に調査に出掛けた。目的地は馬車が転落したという崖だ。宿から一時間程馬を走らせたところで、馬を降りて適当な木に繋ぐ。
「ここですね」
「──ああ、そうだ」
今は道として整えられているようだ。崖になっているところも、木の杭が打ち付けられてロープが張られていた。事故を受けて修繕したのだろうか。身を乗り出すようにして下を見ると、随分と深さがあるようだ。
「下に行く。トビアスも来るか」
「──当然です。俺も行きます」
真面目なトビアスは少し顔を青ざめさせて言った。実際、複数人で確認した方が見落としは少ない。ギルバートは比較的緩やかな斜面になっている場所を見つけて、自身とトビアスの足元に向かって魔法を使った。
「もう何も残ってはいないだろうか」
ギルバートは落ち葉が積もった崖下で、誰に言うでもなく呟いた。見上げると、すっかり葉を落とした木々越しに空が覗いている。五年も前のことなのだ。現場に来ても分かることはあまりない。
「──ですが、御者が生きているというのはおかしいと思います」
「ああ、私もだ」
もしもこの崖から落ちたのなら、ただでは済まないはずだ。まして季節は初夏だった。地面には落ち葉のクッションなどない。
「シーズンオフの間の夜会で、隣領地の子爵家が主催だそうですね。子爵も共犯でしょうか?」
「──いや、無関係だろう」
言い切れるのはギルバートがレーニシュ男爵の魔力の流れを読んだからだ。トビアスも承知している為か、それ以上は何も言わない。
「だが不自然な点はある。子爵邸から帰るのなら、この道を選ぶだろうか」
「確かに、俺なら選びません。遠回りだし道も悪い──不自然ですね」
見上げながら歩くと、ぽっかりと穴が開いたように空が綺麗に見える場所があった。その辺りの枝が悉く折れており、先が枯れているところもある。風を起こして落ち葉を舞い上がらせても、足元にあるのは春の準備をしている若芽ばかりだった。