令嬢は黒騎士様と領地に戻る4
昨夜を思い出してギルバートの顔を見れないままのソフィアを、ギルバートは当然のように馬上に乗せた。触れる身体にどうしても頬が染まる。
先へ進むほど景色は次々と移り変わり、夕暮れの頃には目的地で速度を落とした。
「──男爵領に入る」
ギルバートが呟いたのは道に現れた小さな門の手前だった。国境線に接している訳ではなくあまり大きくもない男爵領は、警備も殆どなく、出入りは自由である。ソフィアが覚悟を決めて両手を握り、巻き込むようにしてギルバートの袖を掴んだ。
しばらくは平坦な道が続き、やがて家が建ち並ぶ小さな町に出る。すっかり夜だ。魔道具の明かりに照らされた町には新しい建物はなく、どこの家も店も少し古ぼけた印象だった。
それでも宿は数件あり、一番大きいところに四人分の部屋を取る。それぞれ荷物を置き、そのまま一階の飲食店で合流した。
「疲れたか?」
階段を下りてきたソフィアの手を取ったギルバートが小声で問いかけた。ソフィアは小さく首を振って否定する。
「──いえ、大丈夫です」
本当は少し疲れていたが、警戒して周囲に気を張っている皆程ではないだろう。ソフィアも意識して聞こえてくる会話に耳を澄ますが、あまり収穫は無かった。そもそも客があまり多くない。
慣れた仕草でケヴィンとトビアスがいくつかの料理を注文する。テーブルに並ぶ皿から、店員が小皿に取り分けてくれた。
「ねえ、お姉さん。この辺りの特産って何?」
ケヴィンがにこにこと声をかける。ソフィアより随分と歳上であろう女の店員は、つられてぱっと笑顔になった。
「皆さん旅の人だよね? そうね、特産って言うと、この豆かな」
店員はスープの中に入っている小さな黄色い豆を指している。
「──カルナ豆だわ」
ソフィアが言うと、驚いたように目を見張った。
「あら、詳しいんだねぇ。あんまり有名じゃないと思ってたんだけど」
「そ、そうなんですか……?」
ソフィアにとっては幼い頃から馴染み深いものだった。やはり商人という設定に無理があっただろうかと思うが、どう誤魔化せば良いのだろう。それまで黙っていたギルバートがちらりとソフィアに目を向けて口を開いた。
「流石、詳しいな。私ももっと知識を増やさなければ。──その豆は、他の地域ではあまり食べられないのか?」
ソフィアはギルバートが話を逸らしてくれたことに安堵した。しかし続く会話はソフィアに気を緩めることを許してくれない。
「そうねぇ。外のことは分からないけどさ、王都には無いって言ってたよ」
「王都には?」
ソフィアが首を傾げると、店員は僅かに眉間に皺を寄せた。少し身を屈めて、内緒話をするように声を落とす。
「そう。……大きな声じゃ言えないんだけどさ、先代の領主様が亡くなる前に、カルナ豆を他の土地にも広めようって話があったのよ。交易でここをもっと栄えさせようって」
真っ先に反応したのはトビアスだった。
「良い考えですね、俺も賛成です。折角なので持ち帰って売ってみましょうか?」
「あら、あんた達商人なの? 随分と見目の良いのもいるけど」
トビアスが、ギルバートとソフィアに目を向けて苦笑する。ソフィアは慌てて顔を隠しているマントを少し深く被り直した。ケヴィンが手をぱたぱたと動かしている。
「いやー、王都って人が多いんでー。目立たないとですから!」
言い訳になっているのか怪しいと思ったが、どうやら店員は疑っていないようだ。むしろ納得したような表情をしている。
「そうそう、それでね。新しい領主様になってから、その計画も無くなっちゃったのよ。毎年税金も上がるから、この辺りは最近じゃカルナ豆がすっかり主食よ。だから商人さんには売れないね。お金だけあっても、食べ物が無いんじゃ生きていけやしない」
店員は愚痴と共に深い溜息を吐いた。ソフィアはその言葉に、目の前のスープを見る。美味しいスープだと思ったが、その中には細かく切られた根菜とカルナ豆しか入っていなかった。俯いたまま口を開く。
「あの──そんなに、酷いんですか……っ?」
その店員をソフィアは知らなかった。それなのにこの追い立てられるような気持ちは何だろう。
「あ、なんかごめん。お嬢さんにはショックだったかな? ……でもね、ここ数年は余計に生活は厳しくなるし、人攫いも出るし、柄の悪いのも増えるし、自警団も当てにならないしで、人は減る一方だよ。──あんた達も気を付けた方が良いよ。この辺り、夜はあんまり治安が良い方じゃないから」
「そう、ですか……。ありがとうございます」
どうにかそれだけ言った。ソフィアの知る穏やかで長閑なレーニシュ男爵領は、何処にいってしまったのだろう。
「──ソフィア様はどうされてるのかねぇ」
「え……?」
突然の名前にソフィアは顔を上げる。どきりとした。この宿でソフィアは名乗っていない。しかし心配は杞憂だったようで、店員は首を左右に振って少し笑った。
「ああ、そうか。あんた達は知らないわね。先代領主様の一人娘でね、可愛い子だったのよ。私も何度か見かけただけだったけど、今の領主様になってからすっかり見なくなって──」
あの領主様に苛められたりしてないと良いけど、と冗談のように呟き、店員は別の客の呼び出しに応えてその場を離れた。
「──ソフィア嬢」
周囲には聞こえない程の声でケヴィンがソフィアの名前を呼んだ。はっと気付いてそちらを向くと、眉を下げているケヴィンと目が合う。
「あ、ごめんなさい。私……大丈夫ですから」
ちゃんと笑えただろうか。以前より上手くなった笑顔は、心を隠すのに便利だった。ギルバートがじっとソフィアを見ている。
誤魔化すようにスープを口にすると、優しい味が口いっぱいに広がった。カルナ豆はさらりとして微かに甘みがある。懐かしい味が、何もできないままのソフィアを慰めてくれたような気がした。