令嬢は黒騎士様と婚約する10
ソフィアはギルバートから手紙を受け取った。それはエルヴィンから預かり、先程自身がここまで持ってきたものだ。
「──ありがとうございます」
「いや、礼を言うべきは私の方だ」
ギルバートにとってはソフィアも捜査協力者の一人なのだろうか。ソフィアは小さく頷いて、手紙を開いた。そこに書かれていたのは、レーニシュ男爵領についての噂話だった。曰く、領民の中でも十代の男を中心に、失踪事件がここ数年で相次いでいるという。
「どうして……?」
ソフィアが知るレーニシュ男爵領は、豊かではないが閑静な、治安の良い土地だ。ここに書かれているような恐ろしい犯罪とは無縁なはずだった。幼い日に両親と共に出掛け、笑いかけてくれた人々を思い出す。貧困が問題になっているとは聞いていたが、ソフィアはそれを実際に見たことはなかった。ギルバートが小さく嘆息し、僅かに身を乗り出した。
「順を追って説明する」
そしてギルバートは厳しい表情のまま、ソフィアに事情を語っていった。ソフィアの叔父と叔母である現レーニシュ男爵夫妻が違法な商品の生産に関わっており、それが男爵領のどこかで行われていること。それは五年以上前から行われていること。そして、手紙にあった失踪事件も関連しているかもしれないこと。
「──そう、なんですね」
「大丈夫か?」
ギルバートを心配させてしまっただろうか。現男爵夫妻とソフィアは、情を抱くような関係ではない。しかし男爵領でそのような犯罪がずっと続けられていた事実は、ソフィアを悲しませるには充分だった。ギルバートが眉を下げる。ソフィアは首を左右に小さく動かした。
「続けてください、ギルバート様。私は……知らなくちゃいけないんです」
外へ出ることは、知りたくない現実とも向き合うことだと、かつても思ったことを内心で繰り返す。それでもギルバートの隣を選んだのは、ソフィア自身なのだから。ギルバートはどこか納得はしていないようだったが、迷いを振り切ったのかソフィアの目を正面から見つめてきた。その表情に、ソフィアもまた覚悟をする。
「ソフィアの両親は、馬車の事故で亡くなっていたな」
硬質な声がソフィアの鼓膜を揺らした。その言葉に、頭の中でいくつかの事実が繋がっていく。五年以上前から行われていた犯罪。両親の死後、すぐに男爵家に駆けつけた叔父母。そして、不自然に失くなった遺品。
「──もしかして、父と母の事故も……?」
答えが無くとも、ケヴィンの表情を見ればそれが事実であると分かった。奥歯を噛み締め、目を逸らしている。ソフィアの視線に気付いたギルバートもケヴィンに目を向け──眉間の皺を伸ばすように右手を額に当てた。
「すまない」
苦しそうに顔を歪めたギルバートが、気持ちを落ち着けるように目を閉じた。ソフィアは、それまで抱いていた疑問がすっと腑に落ちたような、妙な感覚だった。ギルバートがソフィアを事件から引き離そうとしていたのは、その光景を見てしまったからなのだろう。
あの夜会でレーニシュ男爵に会ったとき、マティアスは、彼女たちに何をしたのかと聞いていた。男爵にとっての彼女たちは、ソフィアとその両親だったのだろうか。悲しめば良いのか、怒れば良いのか。身近にあった犯罪に怯えるべきか。
「いえ……ごめんなさい。私、今──どんな顔をしたら良いのか、分からなくて」
ソフィアは俯いた。膝の上で組み合わせた両手をぎゅっと握り締める。感情を押し殺したことは何度もあるが、分からないことは初めてだった。ぐちゃぐちゃになった涙にもならない感情が、心の中で悲鳴を上げている。
「ソフィア──」
ギルバートがソフィアの名前を呼んだその時だった。応接室の扉が外側から大きく開けられ、ギルバートともケヴィンとも異なる制服の男達が入ってきた。
「侯爵殿。我々に報告無くこのような場所で取り調べとは、感心できませんね」
ソフィアはその高圧的な声に驚き、俯いていた顔を上げた。男の一人と目が合う。にこりと笑みを向けられたが、その目は笑っていなかった。
「──取り調べではない。家の遣いで来た婚約者と話をしていただけです」
ギルバートが立ち上がる。がたんと鳴った椅子の音に、ソフィアは肩を揺らした。
「そうでございましたか。──ああ、ですが……彼女はソフィア・レーニシュ嬢ですよね。やっとこうして家から出てきてくださいましたし、私共もお話しさせてくださいよ。彼女は事件の関係者です。あの邸で暮らしていたのですから、何も知らないはずがないでしょう?」
「特務部隊が追っている件については、彼女は何も知らない。フェヒト殿の思い込みです」
ギルバートの目がすうっと細められる。しかしフェヒトと呼ばれた──特務部隊の男達の中でも先頭にいる男は、一歩も引く様子がない。
「そんなことが、侯爵殿に分かるのですか?」
嘲笑をその顔に貼り付けて、フェヒトはソフィアの方を向いた。何故か湧き上がる恐怖感に、勝手に手が震える。ギルバートと同じ近衛騎士なのに、ギルバートより表情は豊かなはずなのに。こんなに怖いと思うのは何故だろうか。
「むしろ貴方は私には分からないと言うのですか」
ギルバートがソフィアにつかつかと歩み寄り、表情を変えないままその右手首を掴んだ。ソフィアは驚きに目を見開く。その行為に意味がないことは、ギルバートが最も良く知っているはずだ。
「──なっ!」
フェヒトが驚愕の表情で一歩足を引いた。その後ろの男達も、似たような顔でソフィアを見ている。特務部隊の者は、ギルバートが魔力の揺らぎを読むことができると知っている。つまりソフィアが当然のように触られ──ましてやそれまでよりも安堵した表情になることが信じられないのだ。
ソフィアはギルバートの手が冷えていることに心配し、同時に側にいてくれることに安心した。
「特務部隊の方も私共の事件に協力してくださるのなら別ですが、そうでなければ話をしても何の意味もありません」
ギルバートははっきりと言い切った。フェヒトが圧倒されたことを誤魔化すように口を開く。
「ふん。そんなことを仰って、その娘を庇うための詭弁ではないですか?」
「──ギルバート様は、そのような方ではございません……っ!」
それまでの恐怖も不安も忘れ、ソフィアは咄嗟に立ち上がっていた。ギルバートを侮辱されたように感じて、どうしても許せなかったのだ。
それまで黙っていたソフィアが突然口を開いたことで、特務部隊の面々は反応に困っていた。フェヒトもまた、自らの言葉が軽率であったことに気付いたのか、顔を歪めている。
「お引き取りください。また後日、打ち合わせの席で話せば良い。──こちらには、隠し立てすることはないのだから」
ギルバートが低い声で言うと、すぐに特務部隊の面々は出て行った。自分が言い返したことがまだ信じられないでいるソフィアは、ギルバートに肩を叩かれて現実に引き戻される。
「今日はもう帰れ。──馬車まで送ろう」
ギルバートがソフィアの手を掴み、強引に引くようにして応接室を出る。それからソフィアが馬車に乗るまで、ソフィアとギルバートは互いに口を開くことができなかった。