令嬢は黒騎士様に拾われる5
靴擦れの足でどこまで歩くのかと不安に思っていたソフィアは、すぐに現れた二頭の馬に別の不安を抱いた。白毛の馬と黒毛の馬だ。よく手入れされた艶やかな毛並みの馬は、それぞれマティアスとギルバートのものだろう。
「今朝はギルバートを護衛に森を軽く走ろうと思ったんだよ。──いや、変わった拾いものをしたね」
揶揄うような口調のマティアスに、ギルバートは無表情のままソフィアに水筒を投げ渡した。ソフィアは反射的に受け取るも、どうして良いか分からず水筒とギルバートを代わる代わる見る。
「飲め。聞いてて痛々しい」
ギルバートはすぐに目線を逸らし、ソフィアのトランクを馬に繋いだ。ソフィアはまじまじと手の中にある水筒を見つめる。ギルバートはソフィアに興味をなくしたように、馬の鬣を撫でている。
水筒の蓋を開けると爽やかな柑橘の香りがした。遠慮がちに少しずつ口に含めば、適度な酸味から果実水だと分かる。喉を抜ける冷たさが心地良かった。
「──ありがとう、ございます」
ソフィアが少しはましになった声で礼を言うと、ギルバートはソフィアから水筒を受け取った。
「行くぞ、早く乗れ」
ギルバートは顔を馬に向け、当然のように言った。ソフィアは困って眉を下げる。馬の背は高く、幼い頃に父と乗ったきりのソフィアには乗れる筈もない。ギルバートの馬は大きく、今以上に近付くのも怖かった。ソフィアは慌てて首を左右に振る。
「……あの、どうか私のことはお気になさらず──」
咄嗟に一歩足を引く。不機嫌そうなギルバートに申し訳ないとソフィアが思ったとき、マティアスが馬上で苦笑した。
「──ギルバート、令嬢が一人で馬になど乗れるはずがないだろう」
庇うようなマティアスの言葉に、ソフィアは少し救われた気持ちになる。しかしそれで物事が解決する訳ではない。逡巡したまま動けずにいたソフィアは、次の瞬間、距離を詰めたギルバートに腰を掴んで持ち上げられていた。
「──きゃ……っ」
ソフィアは宙に浮かされる感覚に咄嗟に目を瞑る。座らされた場所の少し不安定な固さにおずおずと目を開けると、そこは既に黒毛の馬の上で、ソフィアはギルバートの目の前に両足を晒していた。
「……っ」
恥ずかしさから慌ててワンピースの裾を押さえようとしたが、不安定な馬上では無駄によろけただけだった。ソフィアは居た堪れなくて頬を染めるが、ギルバートはまるで構わないとばかりにソフィアの靴に手を掛け、すぐに脱がせてしまう。
「馬の上なら靴など要らないだろう」
ソフィアの靴をさっさとトランクと一緒に積んだギルバートは、驚きに固まるソフィアなど気にも留めていない。ギルバートは手綱を握ると、左足を鐙に掛けて一度に馬に跨った。乗り慣れていることの分かる無駄のない所作と、腕の間に囲われているような姿勢に、ソフィアは困惑を隠せない。少し離れた場所で、マティアスが笑っているのが見えた。
「それじゃ、早く帰ろうか」
先に馬の腹を軽く蹴って動き出したマティアスに、ギルバートはすぐに追い付き非難の言葉を向ける。
「──殿下、森の中とはいえ離れないでください」
「剣など届かなくとも、ギルバートには問題ないだろう?」
「そういう問題ではございません。お分かりでしょう」
マティアスとギルバートは、馬で並走しているとは思えないほどに平然と軽口を叩きあっていた。ソフィアはただ、経験したことのない速さと高さと、背中を支えているギルバートの腕の確かさに、正気を保っているだけで精一杯だ。鞍は一人用で、ソフィアはギルバートの支え無しにはすぐに落ちてしまうだろう。赤くなった掌で、縋るようにギルバートの腕を掴む。目を閉じるのも、開けているのも怖かった。
「──大丈夫だ、落とさない」
あと少し離れていれば、風の音に紛れてしまっていたであろうほど小さく低い声だった。ソフィアははっとギルバートの顔を窺うが、ギルバートは何でもないように平然と馬を駆っている。ソフィアは、それまで抱えていた不安がその何でもない一言で消えてしまったような錯覚に陥った。森の木々が次々と背後に流れていく。やがて目の前には、男爵邸の部屋の窓からしか見たことがなかった、白亜の王城が現れた。
王城に着くと、ソフィアは裏手の馬車置場へと連れて行かれた。先に馬から降りたギルバートに当然のように抱き上げられ、これまでに乗ったことのないほど上質な箱馬車に押し込むように乗せられる。トランクと靴は、返してもらえていない。柔らかな座席は、乗馬で固くなっていたソフィアの身体を柔らかく包んだ。突然の状況に頬はずっと熱かったが、それよりもギルバートの凛々しさと馬車の洗練された美しさと、ぼろぼろと言っていいほどの自身の姿があまりに似つかわしくなくて、この場から消えてしまいたい気持ちになる。
「あの……」
「ここで少し待っていろ。──逃げるなよ」
ギルバートはソフィアの心を読んでいるような言葉を吐いた。ソフィアがおずおずと頷くのを確認すると、ギルバートは黒毛の馬の手綱を引いて、マティアスと共に王城へと向かっていった。一人残されたソフィアは、今更ながら襲いかかってきた孤独に、震える自らの身体を腕を回して抱き締めた。