令嬢は黒騎士様に近付きたい10
それから少しして、ギルバートはソフィアと共に夜会を辞した。疲れを見せていたソフィアだったが、ギルバートが抱いて運ぼうと言うと首を振った。
しかしどうにかフォルスター侯爵家の馬車に乗り込んだ後、隣に座るギルバートの肩に頭を預けて眠ってしまったようだ。落ちそうになっているストールをそっと掛け直す。夜会に出席することも初めてなのに、無理をさせてしまった。ギルバートは後悔し唇を噛んだ。
「──ソフィア」
名前を呼んで、眠っていることを確かめる。僅かに瞼が震えたが、目を開けることはなさそうだ。深く嘆息し、顔を上向けた。
あの日、ソフィアがギルバートを知りたいと言って泣いた夜から、ギルバートはずっと悩んでいた。ハンスに言われた言葉を素直に受け入れて良いものだろうかと、自問を繰り返した。それはあまりに自身にとって都合の良い選択のように思えた。
しかし夜会でレーニシュ男爵夫妻の心を見たとき、ギルバートは怒り──そして決めたのだ。側で守り続けるため、想いを言葉にする覚悟を。まっすぐなソフィアを少しでも泣かせることがないように、一番近くでその憂いを自らの手で取り除いていこうと。
「まずは殿下と会わなければ……」
誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。ギルバートは王太子マティアス付きの第二小隊に属している。まず捜査権を得て、情報を集める必要があった。そして、レーニシュ男爵領を直接調べに行かねばならないだろう。それも議会が終わる前に。社交シーズンが終われば、レーニシュ男爵夫妻も領地に帰ってしまう。それでは遅かった。
ゆっくりと馬車が速度を落としていく。窓の外を見ると、侯爵邸の前にハンスが立っているのが見えた。
起こしてしまうのも偲びなく、ギルバートはソフィアを抱き上げて馬車から降りた。ハンスがぎょっとしたように目を開く。ギルバートは一度苦笑し、すぐに表情を引き締めた。
「ハンス、今帰った。──話がある。後で私の部屋に来てくれ」
「承りました。ソフィアさんは?」
ハンスがソフィアを見る。玄関のドアを抜けると、ポーチにはメイド長とカリーナが控えていた。カリーナは眠っているソフィアの様子を心配そうに窺っている。
「疲れて眠っているだけだ。部屋まで運ぶから、寝支度を頼む」
「……良かったです」
カリーナが小さく嘆息した。ギルバートはそれを見て少し安心する。ソフィアが友人と言っていたカリーナは、やはりソフィアを大切に思っているのだと確信できた。ハンスはギルバートの私室へ、メイド長とカリーナはソフィアが夜会の準備のために使っている客間へとそれぞれ先に向かった。
ギルバートも階段を上り、客間へと向かう。先程の話し声が届いたのか、ソフィアが小さく身動ぎした。はっとして様子を見ると、長い睫毛が震えて深緑色の瞳が覗く。
「──ギルバート様? 私……」
意識がはっきりしていないのか、ふわふわと視線が泳いでいる。それを可愛らしく思いながら、ギルバートは口元を緩めた。
「疲れただろう。メイド長とカリーナに手伝いを頼んだから、支度をして休みなさい」
「ありがとうございます。──ここ、お邸、ですか?」
「ああ。今日はありがとう」
ギルバートの返事を聞き、ソフィアは顔を動かした。きょろきょろと周囲を窺い、すぐに慌てた顔になる。
「ごめんなさいっ。下ります、自分で歩けますから……!」
「──もう部屋の前だ」
ギルバートは言って苦笑した。すぐに下ろしてやると、ソフィアは扉を開けないまま、ギルバートを見上げてくる。何かを躊躇っているようだ。
「どうした?」
「あの──叔父と叔母は何か悪いことをしているのでしょうか。ギルバート様は、ご覧になったのですよね?」
辛そうに目を伏せるソフィアに、ギルバートの胸が痛んだ。自分はこんなに感情が動く人間だっただろうかと思うが、不快ではない。ギルバートは右手でそっとソフィアの頬に触れた。柔らかな感触と共に暖かい熱が伝わってくる。
「──今日は休め。どちらにせよ、殿下と話さないことには動けないのだから」
ギルバートは明日マティアスに会うことになっている。話をした上で今後どのように動くかを決める必要があった。それに、ソフィアにありのままを伝えることには抵抗がある。いつかは知らねばならないとしても、それは今ではない。
「はい……、分かりました」
ソフィアの笑顔が固い。やはり心配なのだろうか。ギルバートは暫し考えてから、口を開いた。
「隠しはしない。必ず話すと約束する」
ソフィアがはっとギルバートの目を見てくる。一度頷き、頬から手を離して頭を撫でた。
「それに、お前はこれから忙しくなるはずだ。──私の妻になってくれるのだろう?」
ソフィアが頬を染めた。今日はあまりに多くのことがあったが、ギルバートの求婚を受けたことは事実だ。この手を取ってくれた以上、これまでのようにメイドとして働き続ける訳にはいかなくなるだろう。学ぶことも増え、かえって苦労をかけてしまうかもしれない。
「はい。あの……私、頑張れます。ギルバート様のこと、大好きですから……っ」
両手を前で組み合わせて、ぎゅっと握りながら必死に話す姿は、全身で想いを伝えてくれているようだ。このまま部屋へ連れて行ってしまいたい衝動に駆られるが、そっと頬に口付けをしただけで身体を離した。
「ありがとう。おやすみ、ソフィア。──愛している」
短い言葉を残して踵を返す。愛の言葉には慣れていなかった。ただソフィアが今夜、少しでもその心を痛めずに眠れれば良い。誰かに対してこんな気持ちになるのは初めてだった。
考えるべきことは目の前に多くあった。部屋に戻ればハンスが待っているだろう。ギルバートは自室に向かう途中の廊下で立ち止まり、何となく壁に寄りかかる。そのまま目を閉じて、束の間、胸を満たす暖かい感情に心を傾けた。