令嬢は黒騎士様に近付きたい9
「──貴女のその、良い子振ってるところが気に入らないのよっ!」
反射のようにきつい言葉が向けられ、ソフィアは肩を震わせた。アルベルトが驚いてビアンカの表情を窺っている。ビアンカはそれらが目に入っていないように、顔を赤くして言葉を続けた。
「ええそうね。ソフィアの言う通りかもしれないわ。でも私、そもそも貴女に興味なんてないもの」
「……そんなはずないわ」
ソフィアは僅かに視線を落とした。新しい服や、アンティーク調度や、ソフィアのお気に入りだった本。かつてビアンカに壊され破られたそれらは、どれもソフィアの大切なものだった。ビアンカがソフィアにしてきた嫌がらせは、いつだってソフィアを見ていたことの裏返しだ。
「私、もう逃げないって決めたの」
誰に言うでもなくぽつりと溢すと、隣にいたギルバートが、組んだ腕を解いて気遣わしげにソフィアの手を握った。ビアンカはその愛情の込められた仕草をきっと睨み付ける。
「そうやって、貴女はいつも可愛こぶって。小さいときからそうよ。私の欲しかったもの、貴女は全部持ってたわ!」
「そんなこと──」
「ないって言うの? 綺麗な服を着て、皆から優しくされて、アルベルト様との婚約だって。それで両親が死んだら悲劇のヒロインよね。……笑わせないで。今は私のお父様がレーニシュ男爵だもの。貴女のものだった幸せは、全部私のものになるのが当然でしょう? ──まさか生きているなんて思わなかった!」
まくし立てるように言われ、ソフィアは驚いた。初めて会った幼い頃、ビアンカは確かに笑っていたのに。
「そんなに私が邪魔だったの……?」
唖然としたまま声を振り絞る。少しずつ身体中の血が流れ出ていくような気がした。分かり合いたかった。本当は、もう一度笑い合いたかった。
「ええ、邪魔だったわ。きっと行き倒れていると思って嬉しかった。──貴女なんて、最初からいなければ良かったのに……っ!」
「──ビアンカ!」
大きな声でそれ以上の言葉を止めたのはアルベルトだった。ビアンカの腕を掴んで、強く引いている。ビアンカははっと気が付いたように目を見張り、はっきりと後悔を顔に出した。
ソフィアはいつの間にかギルバートの腕の中にいた。両手で耳を塞がれている。
「もう良い。お前は聞かなくて良い」
ソフィアはその声音から、ギルバートの強い怒りを感じた。しかし音は完全に遮断されていない。本当に聞かせたくないのなら魔法でも使ってしまえば良いのに。不器用な優しさが、たった今できたばかりの心の隙間を埋めていくようだ。
「ビアンカ、どういうことだ。家を出て行ったソフィアを、君は心配していたのではなかったのか?」
「アルベルト様……」
顔を青くしたビアンカが、アルベルトを見つめる。アルベルトが真実を探るように、ソフィアとギルバート、そしてビアンカを順に観察した。
「──アルベルト、何をしているんだ!?」
硬直した空間に割って入ったのは、歳相応に威厳のある男だった。ソフィアはその人を知っていた。長く会っていなかったが、厳しい人だとかつてアルベルトから聞いたことがあった。
「父上!」
その男はフランツ伯爵家当主であり、アルベルトの父親だった。フランツ伯爵はアルベルトから視線を順に移し、ギルバートに向けて礼をする。
「ビアンカ嬢といるのは分かるが、そちらはソフィア嬢と──これは、フォルスター侯爵殿。愚息が何か失礼なことでも致しましたでしょうか」
「フランツ伯爵殿、久しぶりだ。貴殿の息子の婚約者が、私の未来の妻を酷く侮辱するのでな……聞くに堪えないと思っていたところだ」
無駄の無い言葉の中には、あまりに多くの情報が詰まっていた。すっかり注目を集めていたが、周囲の人々もその言葉に分かり易くざわつき始める。
「ソフィア嬢か。──ご婚約、おめでとうございます」
フランツ伯爵は真意を見せずに、ギルバートとソフィアに向かって如才なく微笑んだ。ソフィアはギルバートの腕の中で小さくもがいてそこから抜け出し、慌てつつもできるだけ丁寧に一礼する。
「伯爵様、お久しぶりでございます。このような騒ぎになり……申し訳、ございません」
「いや、きっと貴女のせいでは無いのでしょう。──アルベルト、帰るぞ」
フランツ伯爵はアルベルトに厳しい視線を向けた。アルベルトはびくりと肩を震わせる。
「父上。しかしビアンカが──」
アルベルトが帰ると、既にレーニシュ男爵夫妻もいない会場から、ビアンカは一人で帰ることになる。それに同情したのだろうか、それとも本性を見てもビアンカへの愛は残っていたのか。アルベルトは後ろ髪を引かれるように振り返った。
「もはやアルベルトに対応できる範疇を超えている。大人しく帰って、女を見る目から学び直せ。──それに今日の騒ぎを見る限り、レーニシュ男爵家との関わりも考え直さなければなるまい。侯爵殿があのようなことを言う相手を、信用できるはずがないのだから」
ふんと息をして、フランツ伯爵はアルベルトを引き摺るように連れて行った。伯爵はギルバートの能力を知っているのだとソフィアは理解した。その言葉からすると、ビアンカとアルベルトの婚約も白紙になるかもしれない。残されたビアンカは少し遅れて現実と向き合ったようで、俯き肩を震わせている。
ソフィアは何を言えばいいか分からず、無言のままその場に立ち尽くした。
「──ビアンカ嬢、我が家の馬車をこちらに向かわせる」
ギルバートが最低限の情けだろうか、ビアンカに声をかけた。このままでは、ビアンカがここから一人で家に帰る術がない。ソフィアもさすがに心配で、ギルバートの申し出をありがたく思った。
「いいえ、結構です。──それでもソフィアに助けられるなんて、御免だわ……っ!」
ビアンカはそのまま早足で大広間を出て行った。どうやって帰るつもりか気になったが、ソフィアは何も言わなかった。今のソフィアには、それを口にする資格はない。
「ソフィア」
優しい声がソフィアを呼んだ。ギルバートがぎゅっとソフィアの手を握る。顔を上げてどうにか微笑むと、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
「ありがとうございました、ギルバート様」
「いや……すまない。もっと上手く対処すれば良かった」
ビアンカに投げられたワイングラスのことだろうか、それとも大事になってしまったことだろうか。
「いいえ、私がいけなかったのです。もっと、ちゃんとできていれば……」
後悔はあった。本当はビアンカと分かり合いたかったのだ。思うようにいかないこともあるのだと、ソフィアは緩く首を振る。
「ソフィアは頑張った。──無理に強くなろうとしなくて良いのに、お前は……」
ギルバートが深く嘆息する。ソフィアはそれを聞き、ギルバートをじっと見た。互いの瞳に互いが合わせ鏡のように映るほどの距離だ。近くにいる人々がこちらを見ているのが分かる。
「──守られるばかりでは、いたくありません」
決意を持って言う。しかしソフィアはすぐにギルバートの腕に縋り付くように寄りかかった。あまりに多くのことがありすぎて、もう限界だったのだ。足に力が入らない。ギルバートはゆっくりと支えるようにして、ソフィアと共に会場の壁際へと移動した。