令嬢は黒騎士様に近付きたい8
ソフィアとギルバートは、できるだけ気付かれないようにそっと大広間に戻った。端にある扉を開けて人混みに紛れるように移動する。それでも気付いた何人かが、ちらりとこちらを窺っていた。
「手は離すな」
ギルバートがソフィアを見下ろして言う。ソフィアはギルバートに頷き返した。
「はい。逸れてしまってはご迷惑になりますから……」
この人混みだ。ソフィアなど、すぐに見失われてしまうだろう。ギルバートに探させるわけにはいかない。改めて右手をギルバートの腕に沿わせ、逸れることがないよう意識を向ける。
「いや。──いずれは仕方ないが、今日だけは私以外と踊らないでほしいという意味だ」
「そ……れって」
突然向けられた言葉に頬が染まった。無機質な声音なのに内容は甘い。愛されている実感が心を満たしていく。先程までの時間が現実だと、教えてくれているようだ。
「それより、何か飲むか? 酒が苦手なら果実水もある」
「あ、では果実水を──」
言い切る前に、ソフィアはギルバートの背後から近付いてくる影に気が付いた。動揺は隠せない。ギルバートも少ししてからソフィアの視線を追いかけるように振り返った。
「──本当にソフィアなのね」
その声はとても可愛らしく、それでいて嗜虐的な艶やかさをもはらんでいる。それに気付いている者は、きっとソフィアの他にはいないだろう。
「ビアンカ、アルベルト様……」
彼らとの遭遇は予測していた。それでも現実に起きて欲しくないと願ったことの一つだった。
「ソフィア、社交界デビューおめでとう」
アルベルトが爽やかな笑みを浮かべて言った。
「──ありがとうございます」
ソフィアの声はどうしても固くなる。ギルバートといるときに話しかけられるとは。以前話をしているとはいえ、やはり気まずい。アルベルトはすぐにギルバートへと向き直った。
「フォルスター侯爵殿はソフィアと知り合いだったのですね。どちらでお会いになったのですか?」
「以前、街で会った」
「何という偶然でしょう! 彼女は私の幼馴染なんです」
幼馴染と何でもないことのように言い切るアルベルトに息を飲む。ギルバートの目が細くなった。しかし気付かないのか、アルベルトはギルバートと話をするのに夢中だ。
「──ソフィア」
アルベルトとギルバートが話をしている間に、ビアンカがソフィアに話しかけてきた。
「ビアンカ、ご機嫌よう」
ソフィアは精一杯の微笑みを浮かべて優雅に礼をした。ビアンカはソフィアを舐めるように上から下までじっくりと観察している。
「そのドレス、すごく綺麗ね」
「ありがとう。ギルバート様が用意してくださったの」
ソフィアは僅かに頬を染めた。
ドレスの胸元から裾にかけての美しいグラデーションと、シルクの光沢感。ギルバートの瞳とよく似た藍晶石は、ソフィアは知らなかったがこの国ではとても希少で高価なものだ。手袋のレースは緻密で、柔らかな仕草がソフィアをより上品に見せている。そして、艶やかに輝く柔らかな薄茶の髪。
「ギルバート様、ですって……?」
微笑みを浮かべているビアンカの口元が、ぴくぴくと引き攣るように動いた。周囲からは知り合い同士が話をしているようにしか見えないだろう。しかしソフィアにはそのビアンカの表情の意味が分かっていた。それは、本気で怒っているときのものだ。
ギルバートの左腕に掛けている手で、思わず夜会服の生地を握り込む。アルベルトはギルバートに話をするのに夢中でこちらの変化に気付かない。ソフィアが背筋を伸ばし負けないと心に決めるのと、ビアンカが手に持っていたワインをグラスごと投げ付けたのが、ほぼ同時だった。
「──きゃ……っ」
小さく悲鳴を上げ、左手で顔を覆った。しかしグラスはソフィアの前で、何も無い空間に当たって落ちる。床に落ちても不思議とそれが割れることはなかった。ただ中に入っていた赤い液体が、ソフィアのドレスに触れる前に違和感のある弧を描いて床を伝っていく。ソフィアはじっとそれを見つめた。早足でやってきた給仕が慌ててそれを片付け、ソフィア達に掛かっていないことを確認していく。
「どうして──?」
声を上げたのはビアンカだ。驚愕に目を見開いている。その目にはソフィアしか見えていないようだった。
「どうして、だと? 私のいる場所で、ソフィアを傷付けられるはずがないだろう」
隣にいるギルバートが怒りを隠そうともせず口を開いた。これは魔法だろうとソフィアにも分かる。また守られてしまったと、嬉しさと共にぎゅっと胸が痛んだ。
「ビアンカ、どういうことだい?」
アルベルトがビアンカを窺い見る。ビアンカははっと視線を揺らしてアルベルトに顔を向けた。すぐに眉を下げて、可愛らしい表情を作る。
「申し訳ございません。少し酔って、手からグラスが落ちてしまいました」
にこりと微笑めば、アルベルトは納得するだろうとの確信があるようだ。たとえそれにしてはグラスが少し遠くに落ちていたとしても。
「そうか。──もう帰るかい?」
「ええ、そうですわね……」
気遣わしげな表情に頷くビアンカをソフィアはじっと見ていた。いつだって他人の目がないところでソフィアは虐められてきた。ビアンカは外では綺麗な仮面を被っている。それが剥がれかけるほどに、今日の彼女は動揺していたということだろう。
「──ねえ、ビアンカ」
恐怖を微笑みで覆い隠す。声が震えたり掠れたりしないように、ドレスで隠れた両足に力を入れた。
「何が気に入らなかったの? どうして貴女が私を嫌うのか、私、知らないままなのよ」
僅かに首を傾げる。逃がさないとばかりにまっすぐ見つめると、ビアンカはソフィアを見て目尻を赤く染めた。
「知らないまま、ですって……?」
「ええ。だって私には、心当たりがないのだもの。教えてくれると嬉しいわ。直せるのなら直すから。……せっかくの、二人きりの従姉妹じゃない」
話をしなければ分かり合えない。ギルバートが繰り返した言葉が、ソフィアの支えになった。怯えるばかりで、これまでビアンカとはろくに話をしてこなかった。諦めることに慣れていた。だけど互いに逃げ場のないここでなら、話もできるかもしれない。ソフィアは期待を持ってふわりとドレスの裾を優雅に揺らした。