令嬢は黒騎士様に近付きたい5
ギルバートがその力を使うのを見るのは初めてだった。僅かに表情を動かした以外に、特に変化はない。
「──ああ、レーニシュ男爵」
「王太子殿下! これは大変な失礼を……」
ギルバートと握手をしているレーニシュ男爵に声をかけたのはマティアスだ。男爵は王太子の御前であったことに今更気付いたのか慌てている。しかしギルバートはその様子を見てなお、握手の手を離そうとはしなかった。
「レーニシュ男爵は、ソフィア嬢の叔父上だったね。男爵には娘がいただろう。区別なく育てたとは、本当に素晴らしい話だ」
マティアスが微笑んでいる。レーニシュ男爵はソフィアをちらりと見て、すぐにマティアスに視線を戻した。
「……もったいないお言葉でございます!」
興奮からか、頬を紅潮させている。男爵が王太子とこれほど長く話す機会など、ほとんどないと言っていいはずだ。舞い上がるのも頷ける。
「そうか。──私は男爵の娘を社交界で何度も見かけているよ。いつも美しい姿だと感心していたんだ」
マティアスがちらりとギルバートとソフィアに目を向ける。ギルバートがマティアスに向かって小さく頷いた。
「ソフィア嬢を見つけたのは私だが……随分と、異なる扱いをしていたようだ。男爵、貴殿は彼女たちに、一体何をしたんだい?」
マティアスの目が細くなる。レーニシュ男爵は目を見開き、かっとソフィアを睨み付けた。ギルバートが何かに驚いたような顔をする。男爵の手を離し、すぐに動けずにいるソフィアの前に立った。
「お前、余計なことを!」
今にも掴みかかろうとして距離を詰めてくるレーニシュ男爵から、ソフィアは目が逸らせなかった。何度も見てきた映像と重なり当時の感情が呼び覚まされ、身体が強張る。ギルバートがソフィアを隠し、男爵を睨み返した。
「男爵、貴殿は──」
「貴方っ!」
それを止めたのは男爵夫人だった。よく通る甲高い声に、その場の空気が固まる。
「恐れ入りますわ、殿下、侯爵閣下。私、体調が優れませんの。今日は失礼させて頂きましょう。──ねえ、貴方?」
レーニシュ男爵夫人は全く体調が悪くなさそうである。問いかけの体でありながら、男爵にとってはそれは強い命令であったらしい。途端に結んでいた拳を解いた。
「あ、ああ……。そうだな。殿下、御前失礼致します」
周囲の冷ややかな視線を受けながら、二人は大広間から逃げるように出て行った。ソフィアは肩の力を抜いて、ギルバートの腕に寄りかかる。服越しに僅かに感じる体温に、浅くなっていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。ギルバートがソフィアを気遣うように背中を優しく撫で、すぐにマティアスに向き直る。
「──殿下、私に捜査権を下さい」
不穏な言葉に、マティアスは僅かに目を細めた。
「どういうことかな?」
「詳しくはここでは──明日、お伺いします」
ギルバートはこれまでにソフィアが見たことがないくらい険しい表情をしていた。何が起きていたのかソフィアには良く分からなかったが、何か大変なことがあったらしい。
「ギルバート様……どうなさいましたか?」
怯えた表情のまま見上げると、ギルバートはゆっくりと表情を緩めた。
「大丈夫だ。私が側にいる」
ソフィアは見つめる藍色の瞳に浮かぶ暖かさに安心して、縋るようにしていた腕の力を抜いた。姿勢を正し、深呼吸をする。まだ今日の夜会は始まったばかりだ。そして、ここはマティアスとエミーリアの御前である。
「──そろそろいいか、ギルバート。アーベルが困惑しているよ。エミーリアもソフィア嬢と話したがっている」
マティアスがそれを見計らったように声をかけた。
「失礼致しました、殿下。先程はお助け頂きまして、ありがとうございます」
ソフィアは頭を下げた。マティアスに助けられたのは、これで二回目だ。
「構わない。ソフィア嬢も苦労するな。──紹介しよう。私の妻、エミーリアだ」
マティアスの隣に座っていた清廉な雰囲気の美女がふわりと微笑んだ。女なら誰もが憧れてしまうだろう陶器のような白い肌で、すっきりとした印象の人。
「はじめまして、妃殿下。ソフィア・レーニシュと申します」
「やっと会えたわ! 貴女が噂のフォルスター侯爵の猫ちゃんでしょう? 本当に可愛いわね。薄茶色の髪に、瞳も綺麗な森の色。隠したがるのも頷けるわ、貴女とっても綺麗だもの。ねえ、侯爵?」
少し王妃に雰囲気が似ているが、王妃よりも無邪気でくるくると表情が変わる。ソフィアは見た目の印象とは違い、次々と話を振ってくるエミーリアに何から返せば良いか分からず言葉に詰まった。そもそも、猫とは何のことだろう。
「妃殿下、猫の話はお止めください」
ギルバートが眉間に皺を寄せる。エミーリアは楽しそうにころころと笑った。
「ねえ、猫ちゃん。今度、私のところに遊びにいらっしゃいな。もっとゆっくりお話したいわ」
「え、あの。よろしいのですか……?」
あまりに畏れ多い話に、ソフィアは目を見開いた。素直に頷いて良いか分からないまま、首を傾げる。
「ええ、もちろんよ。──良いわよね、侯爵」
「……はい」
ギルバートは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。ソフィアがその顔を見ていると、マティアスの背後から押し殺したような笑い声が聞こえてくる。
「なんだ。もう我慢できなくなったか、アーベル」
マティアスがそこに立つ屈強な男に声をかけた。赤い癖毛を雑に散らし、鋭い目をしたその男を怖いと思っていたソフィアは、くしゃりと笑った顔でその印象を改めた。
「申し訳ございません、殿下。ギルバートが面白くて、つい」
「隊長……」
ギルバートが溜息混じりに言う。その言葉でソフィアはその男がギルバートの上司であると理解した。先程マティアスが、アーベル、と呼んでいたはずだ。会話には入れず、向けられた目から逃げるように俯きがちに礼をする。
「アーベルも気付いただろうが、この子がギルバートの愛猫だよ」
揶揄うようにマティアスが笑いながら言う。アーベルはにっと口角を上げた。
「そうでございますか。──明日、ゆっくり話そうな、ギルバート」
「……私には話すことはございません」
眉根を寄せたギルバートは、それでもソフィアの側を離れなかった。その姿を見たマティアスとエミーリアは、言葉にしないながらもそこにある確かな思い遣りと信頼に気付き微笑ましげな表情になる。ソフィアは自分の話がどのように伝わっているのか理解できないまま、目を白黒させるばかりだった。